Ⅱ Sanctus

Sanctus 1

 エレナ・ペトローヴナは立ち止まった。否、というよりも、凍り付いたという方が正しいかもしれない。持て余すほどに漲っていた戦意と、目標に対する殺意は冗談かと思うくらいに霧散し、本能も理性も退避を呼びかけている。けれどここで退くわけにはいかなかった。出がけにあれだけ大演説をかましてしまった以上、また、モスクワ詰所ステーション最強の肩書きを持ち、この東東京詰所イースト・トウキョウ・ステーションでも実質最強の「V」である自負がある以上、立ち向かわないという選択肢は許されなかった。


「守衛長はああ言ってたけれど、あたしたちはここで全滅する覚悟で、『罪竜グリェシュニク』を討ち滅ぼすわ。あたしとオリガ、そしてみんながいれば、きっと大丈夫。この鎚矛メイスは、奴の鱗も砕く! 砕いてみせる!」

 出撃の時。

 エレナは自らの中にある一抹の不安をかき消すように、部隊を鼓舞した。

「『V』に祝福があらんことを! ——第三部隊、出撃!」

 エレナのかけ声とともに、第三部隊の八名は翼をはためかせ、地上を離れた。

「オリガ、あたしの後ろは任せたわよ」

「わかってるよ、姉様シィストラ

 橙色のベリーショートの、溌溂とした笑顔が印象的なオリガ・イワノーヴナ軍曹は、いつも通り冷静に、しかし厳しい印象を与えることなく答えた。彼女の得物はエレナのそれに勝るとも劣らないほどの長さを持つ大鎌サイスだ。刃の部分は、やはり使い込まれて黒ずんでいる。決意に固められた瞳は、やはり紫色だ。


 東東京詰所イースト・トウキョウ・ステーションを飛び立ってから、十数分ほどだろうか。

 それは、目標到達時間よりもずっと早くに、突然現れた。


「隊長!」

 今日になって配属され、ようやく対竜装フォースをまともに扱えるようになった新兵、シバタ・アカネ二等兵が、巨大な影を指さした。

 エレナが視線を向けた時、それは太陽の光を反射して、きらきらと輝いた。

 彼女は震えた。

 「罪竜グリェシュニク」!

 白銀の鱗に覆われた、神々しいほどに勇猛ないでたちのドラゴンは、見ただけでそれが超越的な存在であることが判ってしまう。

姉様シィストラ!」

 女性のものとは思えないほどに低く太い声で呼ばれたエレナは、そこで我に返った。

「目標を確認した! どうする? 今なら逃げきれる!」

「オリガ——ここまで来て、何もしないことが許されるというの?」

「そんなこと言ったって、下手に突っ込んだら全滅してしまいますよ!」

 早口のモスクワ・ロシア語が二人の間で飛び交う。

臆病者トルゥス! 我らが『罪竜グリェシュニク』に鉄槌を下さなくてどうする!」

けれどンナ姉様シィストラ、あいつは詰所ステーションに向かってます。我々が先回りすれば、詰所ステーションの全勢力で叩ける。姉様シィストラだってよく知ってるだろう、あいつの強さと残忍さは」

 オリガの真剣なまなざしに、エレナは目を伏せた。

「っ!」

 オリガの目つきが急に険しくなり、彼女は得物の大鎌サイスを構える。その先には、こちらに目を向けた白銀のドラゴン、「罪竜グリェシュニク」が猛烈に距離を詰めてきている。

「見つかった! 姉様シィストラ、決断を!」

 もう、逃げるしかない。

 あたしは、ここで死ぬわけにはいかない!

「全員退避! 詰所ステーションまで帰投!」

 すでにほとんど戦意を喪失していた第三部隊は、めいめいに散り散りとなって逃げ始めた。

 しかし、「零式レイシキ」は無慈悲だった。

 白銀に輝く躯を震わせ、「零式」は素早くひとりの兵士を追いかける。

 背中に無慈悲に振り下ろされた鉤爪で、彼女の対竜装フォースはあっさりと裂け、翼は消失した。

「そんな!」

 竜段レベル6の強烈な咬みつきにも砕けることはないはずの対竜装フォースが薄紙のように裂け、飛行能力を失うほどに崩壊する事実を見せつけられ、エレナは再び凍り付いた。

 自らの対竜装フォースにある深い咬み跡を見つめて、彼女はたっぷり数秒、空中で停止した。

 甘かった。

 あたしは勘違いしていたんだ。

 その自己嫌悪に終止符を打ったのは、オリガだった。

姉様シィストラ!」

 彼女の声で、「零式」が目の前まで迫っていたことにようやく気がついた。

 真上から、エレナの身体ほどもある鉤爪が振り下ろされた。

 がきぃん。

 甲高い金属音とともに、目の前を人影が横切った。オリガが鉤爪を大鎌サイスで受けている。刃の根本がぼろぼろとこぼれ落ちていった。

「オリガ!」

「やっぱり駄目だ! 誰かひとりはこいつを引きつけないと」

「でも……」

 こんな化け物とひとりでなんて。

 エレナに一瞬の迷いが生まれた隙に、

「僕がやる。だから、姉様シィストラ詰所ステーションに戻って!」

 オリガの声が、すべてを打ち消した。

 彼女の顔を見て、エレナは悟った。

 オリガは、「零式」に出会った時点で、こうなることを予想し、どうすればいいか考えていたのだ。隊長の自分が死んでは、詰所ステーション全体の士気に大きく影響するだけでなく、実質的にかなりの戦力を喪失することになる。だから、オリガが自身を失ってでも、ここで敵をくい止めなくてはならなかったのだ。

「オリガ……」

 身体中が黄色の光に包まれ、対竜装フォースを今まさに破壊しようとしている彼女に、エレナはただ背を向けることしかできなかった。

左様ならダ・スヴィダーニャ、我が姉様マヤ・シィストラ……いえンナ

 白銀の竜に立ち向かうオリガは、たったひとつの言葉を残して、エレナの前から去る。

愛しのエレナエリーチカ

 真紅の鱗を纏った竜と化した彼女に、もう言葉は届かないだろう。

 エレナの瞳から、涙がとめどなく溢れてきた。けれど、彼女は詰所ステーションに還らなくてはならない。出しうる限りの力で、エレナは詰所ステーションを目指した。もうこれ以上、誰かの犠牲を無駄にしたくはなかったし、下手をすれば、東東京詰所イースト・トウキョウ・ステーションもまた、モスクワと同じ運命をたどるかもしれないと思うと、なんとしてでもそれを防ぎたかった。

 詰所ステーションへの通用口の真上に戻ってきた時、散っていた部隊の面々が飛んでくるのが見えた。第三部隊の総員は八名。うち、戻ってきたのはエレナを含めて六名だった。最初に倒された者とオリガ以外には、被害を出さずに済んだのだ。

「副長は?」

 一番先に逃げていた、新兵のシバタ・アカネ二等兵が、おそるおそる聞いた。

 しかし、その答えが返ってくることはなかった。エレナは、その場にうずくまり、むせび泣いた。彼女の肩を抱えて、戻ろうとする相棒が消えたことを悟って、アカネは小さく「ごめんなさい」と言ったが、その言葉はいつものように無視された。

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