Ⅱ Sanctus
Sanctus 1
エレナ・ペトローヴナは立ち止まった。否、というよりも、凍り付いたという方が正しいかもしれない。持て余すほどに漲っていた戦意と、目標に対する殺意は冗談かと思うくらいに霧散し、本能も理性も退避を呼びかけている。けれどここで退くわけにはいかなかった。出がけにあれだけ大演説をかましてしまった以上、また、モスクワ
「守衛長はああ言ってたけれど、あたしたちはここで全滅する覚悟で、『
出撃の時。
エレナは自らの中にある一抹の不安をかき消すように、部隊を鼓舞した。
「『V』に祝福があらんことを! ——第三部隊、出撃!」
エレナのかけ声とともに、第三部隊の八名は翼をはためかせ、地上を離れた。
「オリガ、あたしの後ろは任せたわよ」
「わかってるよ、
橙色のベリーショートの、溌溂とした笑顔が印象的なオリガ・イワノーヴナ軍曹は、いつも通り冷静に、しかし厳しい印象を与えることなく答えた。彼女の得物はエレナのそれに勝るとも劣らないほどの長さを持つ
それは、目標到達時間よりもずっと早くに、突然現れた。
「隊長!」
今日になって配属され、ようやく
エレナが視線を向けた時、それは太陽の光を反射して、きらきらと輝いた。
彼女は震えた。
「
白銀の鱗に覆われた、神々しいほどに勇猛ないでたちのドラゴンは、見ただけでそれが超越的な存在であることが判ってしまう。
「
女性のものとは思えないほどに低く太い声で呼ばれたエレナは、そこで我に返った。
「目標を確認した! どうする? 今なら逃げきれる!」
「オリガ——ここまで来て、何もしないことが許されるというの?」
「そんなこと言ったって、下手に突っ込んだら全滅してしまいますよ!」
早口のモスクワ・ロシア語が二人の間で飛び交う。
「
「
オリガの真剣なまなざしに、エレナは目を伏せた。
「っ!」
オリガの目つきが急に険しくなり、彼女は得物の
「見つかった!
もう、逃げるしかない。
あたしは、ここで死ぬわけにはいかない!
「全員退避!
すでにほとんど戦意を喪失していた第三部隊は、めいめいに散り散りとなって逃げ始めた。
しかし、「
白銀に輝く躯を震わせ、「零式」は素早くひとりの兵士を追いかける。
背中に無慈悲に振り下ろされた鉤爪で、彼女の
「そんな!」
自らの
甘かった。
あたしは勘違いしていたんだ。
その自己嫌悪に終止符を打ったのは、オリガだった。
「
彼女の声で、「零式」が目の前まで迫っていたことにようやく気がついた。
真上から、エレナの身体ほどもある鉤爪が振り下ろされた。
がきぃん。
甲高い金属音とともに、目の前を人影が横切った。オリガが鉤爪を
「オリガ!」
「やっぱり駄目だ! 誰かひとりはこいつを引きつけないと」
「でも……」
こんな化け物とひとりでなんて。
エレナに一瞬の迷いが生まれた隙に、
「僕がやる。だから、
オリガの声が、すべてを打ち消した。
彼女の顔を見て、エレナは悟った。
オリガは、「零式」に出会った時点で、こうなることを予想し、どうすればいいか考えていたのだ。隊長の自分が死んでは、
「オリガ……」
身体中が黄色の光に包まれ、
「
白銀の竜に立ち向かうオリガは、たったひとつの言葉を残して、エレナの前から去る。
「
真紅の鱗を纏った竜と化した彼女に、もう言葉は届かないだろう。
エレナの瞳から、涙がとめどなく溢れてきた。けれど、彼女は
「副長は?」
一番先に逃げていた、新兵のシバタ・アカネ二等兵が、おそるおそる聞いた。
しかし、その答えが返ってくることはなかった。エレナは、その場にうずくまり、むせび泣いた。彼女の肩を抱えて、戻ろうとする相棒が消えたことを悟って、アカネは小さく「ごめんなさい」と言ったが、その言葉はいつものように無視された。
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