第一話 アリアドネ(4)

 それはまるで夢のようで、だけど夢じゃない。

「……ぅ」

 事故の衝撃でシートベルトが胸に食い込み、春花は息をすることすらままならない状態だった。

 今までずっと無意識にしていた呼吸を意識的にしなければ空気を取り込むことができず、春花は必死に呼吸をしていた。

 鳴り続けているクラクションが止まったのをきっかけに、春花は首を右へまわした。

 運転席には父がいて、ハンドルにぶつけていた顔を起こしているところだった。

 フロントガラスは前がはっきりと見えないほどにヒビ割れ、運転席側のドアガラスに至ってはなくなっていた。

 父が呻きながら、春花の方を見やる。

 その口が何かを呟くが、春花には聞き取れなかった。

 そのとき、こっちを向く父の後ろに影が見えた。

 思わずその影に視線を向けた春花の変化に気づいた父が、緩慢な動きで運転席側のドアの方へと顔を向ける。

 その影は車の正面から運転席側へと回り込み、そしてドアガラスがなくなって剥き出しになった車内――父の方へと手を伸ばした。

 その手は救いの手のように見えた。

 だけど、違った。

 その手には、何かが握られていた。

 黒い、無機質な塊。

 その何かを握った影の手が、動く。

 同時、耳をつんざくような破裂音と同時に火花のような光が発せられた。


「春花ちゃん!」

 呼び声と同時に引き戻された春花は、気がつけば肩で息をしていた。

 ベッドで上体を起こしていた春花の肩を、その横で椅子に座っていた美鶴が掴んでいる。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

「ゆっくり呼吸して。ゆっくり……ゆっくり……」

 穏やかでゆったりとした口調で深呼吸を促す美鶴に、春花も次第に現実を取り戻し、呼吸を整えていった。

「すぅ……はぁ……」

 美鶴が手のひらを上げては下げてを繰り返し、その動きにかける時間を長くしていく。

 ようやく落ち着きを取り戻した春花に、美鶴は微笑みを向けた。

「大丈夫?」

「はい……平気です」

「どうだった? 犯人の顔は、見えた?」

「……いえ」

「そう」

「ごめんなさい」

「いいのよ。謝ることなんてないわ」

「でも……」

 美鶴が手を伸ばし、春花の丸くなった背中を撫でる。

 カウンセリングを受けてから三日が経った。

 その効果は日に日に鮮明になっていき、少しずつ先の光景が見えてくるようになった。

 それでも、犯人の顔がはっきりすることはない。

 それが一番大事なことなのに、まるで自分とは別の何かが思い出すことを拒絶しているかのように、フィルターがかかるのだ。

 思わず溜息をつく春花に、美鶴が顔を覗き込ませてきた。

「ちょっと休憩がてら、散歩に行こっか」

「え?」

 思わず顔を上げる春花に、美鶴はいつもと変らない笑顔を浮かべてくれていた。


 季節は四月を迎えていた。

 それでも外はまだ肌寒い。

 一階まで下り、自動販売機であったかい缶コーヒーを買った美鶴が、春花に何が飲みたいか訊いてきた。

「いえ、私は――」

「お姉さんの奢りだから、遠慮しないで」

 美鶴にそう言われてしまうと、春花はなぜか断ることができなかった。

 それは、美鶴の性格が気さくで、すべてを受け入れてくれるような大らかさがあるからだろう。

「じゃあ、このミルクティーでお願いします」

 指をさす春花の手首を美鶴が掴み、そのまま春花の指でボタンを押させる。

 ゴトンと重たい音がすると、美鶴は取ろうとはせず、春花は自分でミルクティーの缶を取り出した。

 温かさが手に伝わり、心が和らぐ。

 そうして二人で廊下を進み、中庭に出た。

 病院の利用者にとっての憩いの場のひとつであり、この肌寒さの中でも色とりどりの花が咲いていた。

 コース上には藤棚があり、柵を伝う蔓がほどよく日陰の役割を果たしている。

 ところどころにベンチがあり、そのひとつに春花と美鶴は腰を下ろした。

 ベンチの上にも藤棚があり、これらは病棟からの視界をさりげなく防ぐ役割を担っている。

 そこでようやく手に持っていた缶のプルを起こした。

「美鶴さんはブラック派なんですか?」

「ん? そうね。缶コーヒー独特の甘さが苦手っていうのもあるけど、家族でコーヒーにうるさいのがいて、『コーヒーは絶対にブラックで飲め』って言うものだから、コーヒーはブラック、がいつの間にか当たり前になっちゃったのよねぇ」

 手に持った缶コーヒーをゆらゆらと揺らせながら、昔のことを思い出すように呟く美鶴。

「私も、父がよくコーヒーを飲んでいるのを見てました。でも、仕事中はとにかく砂糖を持って行ってました。脳には糖分が必要だからって」

「すごいわね。私は頭を使う仕事が苦手だから、ちょうどいいわ」

 そう言って笑う美鶴に、春花は釣られるようにしてくすりと笑った。

 美鶴は笑顔を似合う人だった。

 デフォルメの表情が微笑みで、対面する相手に安心感を与える。

 そして、美鶴はそれと同じくらいに、相手も笑顔にする。

 こうして春花がちょっとだけ笑えるようになったのも、美鶴のおかげだ。

 美鶴はカウンセラーとして、ただ仕事に徹するだけでなく、親身になってくれていた。

 カウンセリングの時間以外にも顔を出しては、他愛のない会話をしてくれる。

 ひとりで食事をしているときも、弁当を手に持った美鶴が病室に来て、隣で一緒に食べてくれた。

 美鶴の弁当を、春花の病院食と交換してくれたこともあった。

 二人だけの秘密と言って、美鶴はまるで無邪気な子供のように笑っていた。

 気がつけば春花は、自分のことを美鶴に話すようになっていた。

 その度に美鶴は親身に耳を傾け、時には慰めたり、時には共感したり、時には抱きしめてくれたりしてくれて、いつの間にか距離感が近くもなっていた。

「いつもその髪型じゃつまらないわよね」

 そう言って、櫛やゴムを手に病室に入ってきた美鶴に、ヘアアレンジをされてはスマホで撮影され、どれがいいか品評会を開いたりもした。

 こうやって散歩に連れて行ってくれるのも、美鶴なりの優しさと気配りなのだろう。

「やっぱり、まだ冷えるわね」

 そう言って、美鶴は自身のカーディガンを脱ぐと、春花の肩にかけた。

「パジャマ一枚じゃ寒いでしょ」

「ありがとうございます。でも、美鶴さんが――」

「私は寒さに強いから平気よ」

 それは強がりでもなければ、見栄でもない。

 ただ、寒そうにしている春花を見て、その行動に移しただけ。

 浅井美鶴という女性は、そういう人なのだ。

 もし将来、自分が大人になったのなら、美鶴のような人になりたいと、春花はそう思うほどに、憧れの存在として見るようになっていた。


            ※


 北棟と南棟、そして東と西の渡り廊下に挟まれた中庭。

 渡り廊下の壁は、上半分がガラス張りになっており、外の景観を楽しむことができるようになっている。

 そのガラス越しに、三階から中庭を見下ろす日下部は、藤棚の向こうに春花とカウンセラーの浅井美鶴が談話しているのを見つけ、安否の確認ができたことに安堵した。

 病室に行って春花の姿がなかったときには心臓が口から飛び出しそうになったが、一緒にああして話をするほどにカウンセラーと仲よくなっている姿を見ると、それが良いことなのだと思う反面、それが自分にはできないことに歯がゆくも感じる。

 駆けつけようともしたが、自分よりも歳が近く、同性同士の方が春花も安心できるだろう。

 ぽりぽりと頭を掻き、病室に戻るまでここで見届けるかと思い、外の景観を眺めるために設置されているベンチに座った日下部は、ふと対岸――向こう側にある渡り廊下に目が行き、

「……ん?」

 目が合った。

 その相手は青年だった。

 二十歳が、もしかしたらまだ十代か。

 だが、こっちを見るその視線が、尋常ではなかった。

 睨むわけでもなく、凄味があるわけでもない。

 ただ、目が合っただけ――それだけなのに、その視線から感じる圧倒的なまでの何かに、日下部は目が離せななかった。

 視線のやり取りは、たった一秒か、それとも何秒も経っていたのか分からない。

 先に視線を外したのは、青年の方だった。

 体を横に向け、北棟へ向かっていく。

 視線が外れると同時に、日下部はまるで金縛りにでもあっていたかのような感覚に襲われた。

 どっと力が抜け、自分が緊張で全身を硬直させていたことに気づいた。

「あの男……」

 気になり、日下部はすぐに立ち上がると、走るようにして北棟へ向かった。

 青年が北棟に入っていく。

 日下部も続けて北棟に入ると、まっすぐに伸びる廊下の奥を見やった。

 だが、そこに青年の姿はなかった。

 ただ、廊下を行き交う患者や職員、医師がいるだけだった。

「くそっ……一体、誰なんだ……」

 日下部は無意識にコートのポケットに手を入れ、煙草の箱を掴むも、この感情を抑え込むようにして箱を握りつぶした。

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