第4話 蒸し風呂


「やっべ。蒸し風呂やっべ」


 テオの店は、すぐ裏が自宅になっていて小さな庭には蒸し風呂小屋があった。


 小屋の中には木箱があって、裸になってしゃがんで座ると、テオはエナの頭だけが木箱の外に出るように、丸い穴の空いた蓋をして出て行った。


 小屋の脇で水を沸かし、ちょうどよい温度の蒸気が木箱に充満される仕組みらしかった。


 香草も一緒に煮ているようで、爽やかな香りも充満してくる。

 想像以上の気持ちよさに、張りつめていたものが、緩みきっていく気がした。


「あ゛〜あ゛あ゛〜〜」


「女の子が、だみ声出すんじゃないよ!」


 外で焚き出しをやっていたテオが、すかさず突っ込んだ。


「だってさー、ばぁちゃん。うち生まれてこのかた、箱蒸し風呂なんて初めて入ったんよ? やっべー、これやっべーわー。超気持ちいー」


「テオさんだっつってんだろ。それにあんた、方言はしょうがないけど、雑な若者言葉ぁ、あたしゃ嫌いだよ」


「あ、ハイ」


 テオの言葉に、本気の怒気を感じてすかさず返事した。


「ねぇ、テオさん。他のご家族は? 急にうち連れてきて、ええの?」


 今のところ、テオ以外の人は見かけず、広さの割に人の気配がない。


「ここにゃ、あたししかいないから、あたしがいいっつったらいいんだよ」


「あ゛〜そーなんだー」


「あんたこそ、テノチティトランになにしに来たんだい?」


「う゛」


 覚悟はすでにつけているはずなのに、いざ口にしようとすると、全身に冷水を浴びせられたような気分になった。


「あんな、うちな、成人の儀式の途中やねん」


 部族によって違うが、成人の儀式はなにより重要で、途中などということは普通ありえない。


 雷一族の成人の儀式は、十歳の誕生日に行われ、霊山の山頂に十日間たった一人でこもって精霊を求めるのだ。


 エナは八年前の十歳のある日、儀式を終えて精霊に出会うことなく、焼け落ちる村を山頂から見おろすことになった。


 儀式の中断は大いなる禍の元とされ、なにより忌み嫌われるが、エナは山を下りた。


「で、まぁ、その後、あちこち旅した結果、どうやらうちの求める精霊は"たそがれの怪物ツィツィミネ"って言うらしくて、アステカに来たら会えるって聞いたんで、ちょっくらはるばるやってきたっちゅうわけ」


 テオが固まったような気がした。


 山を下りたエナに、アステカ王国の呪術師長のヴィオシュトリは、インカ帝国の"喋る生け贄石"とマヤ公国の"豹神官の予言書チラムバラムの書"が、エナが求める精霊を教えてくれると言ったのだ。


 それを信じて、八年かけてインカ帝国とマヤ公国を旅してきた。その結果、エナは今ここにいる。


「あんた、ツィツィミネが別名なんて言われてるか知ってんのかい?」


「滅びの怪物やろ。知ってるで。この世が滅ぶ時に現れて、世界中の人を殺すんや。ヤバいね」


 古い古い伝承の一つだ。


 ツィツィミネが、世界が滅びる時に現れる自然現象なのか、それともツィツィミネと言う怪物そのものが現れて世界を滅ぼすのか、それは分からない。


 アステカには文字がなく、不確かな口伝と難解な絵文字がいにしえの予言を伝えるのみなのだ。


 そして、さらにいにしえの予言にはアステカに未曾有の大災害が訪れる年が伝えられている。


 その滅びの年は"一の葦セ・アカトルの年"と言われていて、あとニ年後にやってくる。


 インカ帝国にある、アステカの滅びを予言する生け贄石の言葉も直接確認したし、マヤの豹神官に伝わる予言書も読んだ。


 栄華の絶頂を極めるアステカ王国だが、あらゆる予兆が、あと数年で滅ぶことを示していて、ツィツィミネが現れる条件はそろっている。


 何より、アステカ一族がかつて追放した"白い神ケツァルコアトル"が、海の向こうの"赤と黒の国トラリンパラリン"より帰還されることになっている一の葦の年。それは終焉の始まりなのだ。


「ツィツィミネは、おとぎ話だよ」


 テオの声が少しかすれているような気がした。


 アステカ一族は、自らが追放したケツァルコアトル神が、一の葦の年に帰還すると信じ、復讐されることを恐れている。


「うん。ツィツィミネは、もしかしてただのおとぎ話かもしぃへんね。でも、アステカは滅ぶ。今日、テノチティトランを歩いて確信した」


 死相。


 道行く人の顔に一人残らず死相が出ていた。


 衛兵も、豹戦士も、テオの顔にも死相はある。そして、インカやマヤの人々の多くにも死相は出ていた。


 おそらく、そう遠くない将来、この世界そのものが滅ぶのだ。それは間違いない。そして、滅びの中心はアステカで、マヤやインカまで逃げれば多少生き残れる可能性がある。


「あんたに、それが分かるってのかい?」


 無言で頷いた。テオには見えないだろうが、伝わるものはある。それは有言の肯定よりも沈痛である分、より痛恨でもある。


 声なき声が聞こえるということは、姿なき姿も見えるということであって、それを呪医術では"ぼう"と呼ぶ。


 地相や家相、人相や死相を読む訓練は仙術の基本だ。


「テオさん。うちの一族は一万年もの間、そういうことをし続けてきた一族なんよ?」


 一万年の旅路。


 本当かどうかは分からない。


 ただ、雷一族の口伝では"約束の地アストラン"を旅立ち、一万年かけて雪と氷の国を越えて、滅びを止めるためにここまで来たのだという。


「その、お偉い一族さまが、今更アステカになんのご用なんだい」


「さぁ?」


 本心を言った。


「うちは、己の中に住む怪物に出会いたいだけ」


 生きて、なにをなすべきなのか。


 成人の儀式の精霊は、それを教えてくれるはずだった。


 八年前に、焼け落ちる故郷を見下ろし、たった一人生き残り、生き残り続ける自分に生きる意味があるのかどうか。


 エナは、それが知りたかった。もしかすると、順調に成長すれば、呪医術師としてなにかの使命を帯びたのかもしれない。

 ずっと隠れ住む理由も教えてくれたのかもしれない。

 だが、それらが分かる未来は突然終わりを告げ、もう二度と分かることはない。


「世界が滅びを迎える時、子どものおとぎ話が蘇るってわけか」


 怒りがちだったテオが、嬉しそうな口調になった。


「死ぬ前に、世界がひっくり返るような激動にまみえるってのぁ、考えてみりゃあたしもついてる」


 そう言って、テオが大笑いはじめた。


「うぇ?」


「神成り一族の巫女が、世界を救う話はあたしも好きさ」


 雷一族は、一般的には神成り一族と呼ばれ各地におとぎ話として伝わっている。


「それは、子どもの子守唄だよ……」


 かつては真実を伝えていた口伝も、いつの間にかおとぎ話になり、今ではほとんどが他愛ない子守唄に成り果ててしまっている。


「いいんだよ、あたしが面白けりゃ」


「うち、世界とか、アステカとかどーでもええんやけど? 別に明日、テノチティトランが滅んでもええし」


 それも本心だった。


 自分の目の前のことだけを見て生きてきた。

 世の中や他人のことに、目を向ける余裕のある人生ではなかったのだ。


 ただ知りたい。


 一族の里が、何者かに攻撃され焼かれた理由を。

 エナが里に戻った時には、一人残らず殺されていた理由を。

 エナを育ててくれていた祖父が、少し離れた洞窟で拷問を受けて殺されていた理由を。


 それが、部族間の争いでないのは、幼いエナでもすぐ分かった。


 戦闘とは、戦士同士が正々堂々と戦うものであって、死人はよく出るが子供まで殺し尽くすようなことはあり得ない。

 いかなる戦闘も聖なるものであって、負けた方が生け贄になることはあっても、拷問のすえに殺すことなどあり得ない。


 焼け落ちた家屋から出る焦げ臭い煙りと、濃い血の臭い。血と肉と髪の焼ける臭い。


 死と滅びに満ちた故郷の原風景。


 ツィツィミネの住まう西方界より伸びた黄昏が、人の住む陽射しある世界を飲み込もうと動き始めたような、そんなおぞましさを十歳のエナはその時、肌ではっきりと感じたのだった。





参考資料


『世界は、ナニ・オリンが再び巡ってきた時、消滅するであろう。たそがれの怪物ツィツィミネが西の彼方で、世界の破滅を待っている』

ナワ族の信仰より


『現世は、いずれ大地震で崩壊する運命にある。その時、宇宙の僻地の西方界に出没する骸骨のような怪物たち、ツィツィミネ族が冥界より現れて人類を滅亡させるであろう』

アステカ文明 ジャック・スーステル著


『アメリカ大陸に住む、インディアンとも呼ばれるネイティヴアメリカンの人々は、その昔ベーリング海峡がひと続きだったころ、すなわちベーリング陸峡を渡りアジア大陸からアメリカ大陸にやってきたモンゴロイドの子孫だということが定着しつつある。

「一万年の旅路」はネイティヴアメリカンのモロコイ族に伝わる口承史であり、物語は遥か一万年以上前に一族がながらく定住していたアジアの地を旅立つところから始まる』

一万年の旅路 ネイティブアメリカンの口承史 翔泳社


『私は、必ずこの地に戻って来て、再びこの地を支配するだろう。そのとき、住民たちは大いなる厄災に見舞われる。それは一の葦セ・アカトルの年である』

 ケツァルコアトル神官の予言より

 

『わが王イッツァより来たれ。わが兄タントゥンより来たれ。汝らの客、ひげを生やして東方からやってくる者、神のしるしをもたらす使者を出迎えよ』

 予言者チラムバラムの最終章より


『アステカ平民の家には、(中略)庭にはトウモロコシ、豆、トウガラシをしまうクエスコマテという小さな穀倉、テマスカルとよぶ蒸し風呂があり、七面鳥と犬が飼われている』

アステカ文明の謎 講談社現代新書 高山智博著


『平民の住居は極めて質素であった。しかしながら、各家は小さいながらも庭と蒸し風呂を備えていた』

白水社 アステカ文明 ジャック・スーステル著

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