第28話 俺と後輩ちゃんは、中間試験に挑む

 枕元に置いておいたプトレマイオスから鳴っていた電子音を止め、もぞもぞとベッドから這い出る。

 重い瞼を擦りながらカーテンを開けると、ものの見事に雨模様だった。

 ……このやろう、朝から憂鬱な気分にさせやがってからに。ちくしょうめ。

 朝から悪態を吐きながら、俺は顔を洗いに洗面所へと歩いていった。



 ――西暦2134年。7月20日。午前7時13分。

 顔を洗って眠気をさっぱり落とした俺は、朝飯の準備に取り掛かる。

 ご飯は昨日の夜に炊いたばかりだから、まだまだたくさんある。味噌汁は……今日は朝から作っていられないから、おにぎりにしておこうか。

 ボウルに炊飯器の中のご飯を全部入れて、スーパーで買った混ぜ込みふりかけを入れる。いつもだったら鰹節に醤油とか適当なんだけれど、今日は気分的に鮭とワカメの気分だった。

 コンロで海苔を炙って、パリパリに。握り拳程の大きさに握ったおにぎりに、大きく四角に切った海苔をぐるりと巻く。

 皿の上には、4つのおにぎりが出来上がる。2つは朝ごはんにして、もう2つはお弁当に持っていく。これだけじゃ寂しいから、冷凍の唐揚げをレンジで温める。

 後は、汁椀にレトルト味噌汁の具材を入れ、電気ケトルのお湯を注ぎ込んだら完成だ。


 (――うん。まあ、我ながらいい朝ごはんだ)


 人によっては手抜きだなんだと言われるかもしれないが、俺からしてみればその発言はナンセンスだ。朝の忙しい時間帯にこそ冷凍食品というのは大いに助かるし、そうじゃなくても最近の冷凍食品は美味い。

 テーブルに並んだ料理を食べながら、充電しておいたプトレマイオスを腕にはめると、網膜に直接情報が表示される。大学からのお知らせ、特に無し。家族からのメールや電話も特にない。が、1件だけ俺の個人チャットにメッセージが届いていた。

 相手は、後輩ちゃんだ。


 《先輩、今日から試験が始まりますね。私、頑張ります》


 たったこれだけのこれだけの短いメッセージだったが、後輩ちゃんの気合いが伝わってくる。

 そう。俺と早坂の通う国立三葉大学は、この日から中間試験が始まる。

 7月を試験準備期間として部活やサークルの活動を一斉に止め、全ての学生は試験勉強を進めてきた。その成果が今日から問われるわけで、俺たちは月初めから妙な緊張感に襲われていた。

 理由は明白。試験に落ちれば単位を落とし、進級への道が遠くなるからだ。

 頭がパリピの人間ならともかく、普通の学生ならば留年は避けたいところだし、4年で卒業する為には大切な通過点だ。


 (……俺も、頑張らないとな)


 いつもならライトノベルか漫画でも読むのだが、今日ばかりは流石に止めておく。普段から真面目に勉強していれば、試験なんて取るに足らないのだけれど、万が一ということだってある。特に俺の場合は、基礎問題やある程度の応用問題なら難なく解けるものの、回答者の裏の裏を掻くような引っかけ問題や捻くれた問題にはめっぽう弱い。

 去年の刑事訴訟法とかの小テストでは、それで痛い目を何度も見てきた。進級した今だからこそ、あんなミスはもうしないが、今でも教訓になっているのは確かだ。


 (後輩ちゃん、気合入れ過ぎて空回りしてないだろうな)


 味噌汁を飲みながら、俺は後輩ちゃんが送ってくれたメッセージを見る。

 早坂は俺と違って昔から何でもできる天才タイプだが、ここ一番という時に限ってうっかりをやらかす癖みたいのがある。それは周囲からの重すぎる期待だったり、後輩ちゃん自信が自分にプレッシャーをかけまくっている所為だったりするのだが。

 後輩ちゃんにとっては大学に入ってから初めての試験だ。試験勉強もきちんとしていたし、対策だって取っていた。

 大丈夫だとは思うが。


 「――電話、掛けるか」


 思い立ったが吉日、俺はトレミーのアドレス帳から早坂の番号を見つけ出し、掛けてみる。数コールの後、右のヘッドセットから早坂の柔らかい声が聞こえてきた。


 《はい、もしもし? 先輩、おはようございます。一体朝からどうしたんですか?》

 《あー、いや。メッセージ見たんだけどさ。早坂が緊張してるんじゃないかって思って電話したんだ》

 《そう、ですか。ありがとうございます》


 通話口から聞こえた声は、僅かに固く強張っていた。

 緊張して当然だ。前期に講義を多めに入れていた後輩ちゃんは、その分だけ試験を幾つも受けなければならない。基礎知識とは違う、より専門的でコアな知識を並行して頭に入れておかなければならないというのは、新入生にとってはやや辛い所だろう。

 小林さんから文学部というものが何を学ぶのかを少しだけ聞いたことがあったが、門外漢の俺にはさっぱりだった。


 《あー。やっぱり緊張してたか》

 《あはは。先輩には分かっちゃいますか》

 《分かって当然だ。何年、早坂の先輩をやっていると思ってるんだ》

 《え? 今年で4年ぐらいですけど》


 さらっとマジレスするんじゃあないよ、この子は。

 俺がそう言ってやると、イヤホンから後輩ちゃんの笑う声がした。今ので緊張が少しでもほぐれればいいのだが、ううむ。

 ――仕方が無い、これも後輩ちゃんの為だ。


 《……なあ、早坂》

 《はい。え、なんですか急に改まって》

 《あー、いや。そのな。試験が終わったらなんだけど、2人でどこか遊びに行かないか?》


 耳元で、後輩ちゃんが小さく息を呑んだ音が聞こえた。そりゃ、驚いて当然だろう。

 俺が後輩ちゃんを振ってから、まだ一度たりとも2人で遊んだことが無い。高校時代は、さんざん2人で遊んだり一緒に勉強したりしたというのに。

 

 《遊びに、ですか?》

 《うん。どこでも、早坂の行きたいところがあれば連れて行くし、無ければ俺が連れて行くよ》

 《先輩、それは――》


 後輩ちゃんが何かを言いかけて、ぐっと何かを堪えるかのように口を噤んだ。

 当然だ。後輩ちゃんからしてみれば、あの時振った男が、何をいまさらと思うだろう。俺は後輩ちゃんを傷つけた側の人間で、本当は俺から誘う権利なんて無いのだろうけど。

 けれど、それでも。

 あの時の、後輩ちゃんが見せた勇気の数千億分の1にも満たないけれど。俺の方から、きちんと踏み出してあげなきゃいけないんだ。あの時の事を気にして、未だ踏み込めずにいる繊細で優しい後輩ちゃんの代わりに。


 《どこでも、ですか?》

 《どこでも、だ》

 《そんな事急に言われても、困っちゃいますよ》

 《ごめん。だけど、緊張してたみたいだから。何かご褒美があれば、頑張れるだろう?》


 口を開くたびに醜態を晒していて、自分に嫌悪感を覚える。だけれども、ここで退く訳にはいかない。


 《ご褒美かー。何が良いかな》

 《あんまり高いのとかは無しだぞ? バイトしてるとはいえ、流石に高級レストランとは無理だ》

 《ちぇー。先輩のけち。のっぽ、黒髪、めがね、福耳》

 《俺の顔のパーツを述べただけだねそれは。まあ、今日中にとは言わないから、ゆっくり――》

 《決めました》

 《え、本当に? 早くないか?》


 即断するぐらい早いものだから、思わず心配になってしまった。だけど、後輩ちゃんの望みは、最初から決まっていたらしい。


 《早くないですよ。……あのですね、私はどこでもいいので、先輩が私を楽しませてください》

 《勿論そのつもりだけど。けど、それでいいの?》

 《はい、それがいいんです。先輩、出来ます?》


 イヤホンの向こうから聞こえる後輩ちゃんの声色に、からかいの色が混じる。

 このやろう、やってやろうじゃないか。


 《わかった。何がなんでも楽しませてやるから、覚悟しておけよ?》

 《あんまり覚悟しないで待ってますね。あ、私そろそろ……》

 《うん。俺も家を出る。じゃあ、後輩ちゃん。試験頑張れよ》

 《先輩も。単位落とさないで下さいよ?》

 《こっちの台詞だよ、ちくしょうめ》


 お互いに発破をかけて、通話を切った。最後に聞いた後輩ちゃんの声からは、緊張なんて一切感じられなくなっていた。あれなら大丈夫だろう。普段から真面目に勉強している彼女のことだ、恐らく1単位も落とさずに試験を突破する。

 そう確信しながら、俺も家を出る。いつの間にやら、雨は弱くなっていた。これなら午後には雨が止むだろう。


 (覚悟しておけ、か。どの口がっているんだか)


 覚悟をするのは、自分の方だというのに。本気を出した後輩ちゃんを相手にしたら、俺なんてひとたまりもない。過去一度だって、後輩ちゃんに勝てたことなんて無かったんだから。

 どろどろに堕ちてしまわない事だけを望みつつ、俺は小雨の降る街へ駆けだしていった。

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