第4話 先輩は、教えるのがうまいんです

 「こんにちはー、遅くなりました……あれ?」


 西暦2134年。4月22日。午後17時53分。

 5限の授業が終わって天文サークルの部室に顔を出すと、部長さんが椅子に座って一人、静かに本を読んでいました。

 彼女の名前は、小野崎陽菜おのさきはるなさん。現在4年生で、教育学部に所属しています。背中まで伸ばした黒髪が、外から入ってくる微かな風に揺れてさらさらと音を立てています。

 部長さんは、入って来た私に気付かないほど、読書に夢中になっている様でした。


 (わあ、今日の部長さんは一段とカワイイなー)


 花柄のワンピースから覗く肌はシミとかほくろとか一切無くて、ふっくらした桜色の唇とか、身長が低いせいで地面に届かなくて宙に彷徨わせている足とか、可愛すぎます。

 これは堪らんですわ。彼氏さんが白昼堂々のろけるのも頷けます。

 あ、そうそう。部長さんは同じサークルで、法学部にいる山田紀彦やまだのりひろ先輩とお付き合いをされています。

 身長が180㎝後半の山田先輩と部長さんが並ぶと、あまりの身長差に親子か兄妹かって勘違いしちゃう人結構いるんですよね。私もその1人でした、はい。


 「――あ、みくちゃん。こんにちは」

 「こんにちは、部長さん。すっごい集中してましたね」

 「えへへー。ごめんね、来てくれたのに、気付かないで。この本、すっごく面白くってさー」


 本をぱたりと閉じた部長さんが、入り口で突っ立っている私に気付きます。一瞬、鳶色の目を大きく瞬かせ、ゆるーくふわっとした喋り方で私に微笑みます。

 綺麗なソプラノの声、聴く人全てを癒して蕩けされるような喋りかた、これが大人の魅力ってやつですか。

 私とは大違いです。あれ、なんか言ってて悲しくなってきました。

 ちくしょうめぇ!


 「なんの本を読んでたんですか?」

 「これはねー、最近出たばかりの小説なんだけど。『EX・zone』っていうんだ」

 「もしかして、バトル系の本ですか?」

 「ううん、がっつり日常系。ある日突然、超人的な力を手にしちゃった主人公が、可愛いヒロインたちといちゃこらするだけ」


 あー、所謂ハーレムものってやつですね。ひと昔前に流行っていた記憶はありますけど、またブームが来たんでしょうか?

 私はあまり興味が無かったりするんですけど。


 「へぇ。オモシロソウデスネ」

 「かたことだよー、みくちゃん。まあ、百聞は一見に如かず、だよ。読んでみよーよ」


 そう言って、こいこいと手招きしました。

 私は呼ばれるまま、先輩の隣に腰かけてテーブルの上に散らばっていた古いファイルやら誰のものか分からない鉛筆を片付けます。

 部長さんはうーん、と大きく伸びをすると、さっきまで読んでいたページを開いて、私に手渡します。

 なになに?


 『――それから、アキトはベッドの上で仰向けになっているルリに手を伸ばした。震える指先でブラウスのボタンを1つ1つ外していく。純白の布を優しく取り払うと、彼女の双丘を包む可愛らしい下着が露わになる。羞恥の表情を浮かべながらも、彼女の瞳には期待するような色が視えた。ごくりと生唾を飲み込み、アキトは――』


 って、ひえーっ!

 かかか、官能小説じゃないですかコレ。18禁のやつ!

 子供が読むにはまだ早いやつですよ!


 「ぶ、部長さん!? こここ、これ!」

 「うん? そうだよ? 最近発売された、星ノ宮旭ほしのみやあさひ先生の最新小説、『エクスタシー・ゾーン』」


 絶句する私に、部長さんはそれが何か問題でも? とでも言わんばかりの表情で不思議そうに首を傾げている。いったいどうして、夕方にエッチな本を読ませられるなんて思いますか。

 というか。この人、羞恥心とか無いんでしょうか?


 「ほら、彼氏とご無沙汰だと、色々溜まっちゃうっていうかー」

 「た、溜まっちゃう」

 「うん。私にだって、性欲ぐらいあるしさ。――あ、努くん。いらっしゃーい」

 「へ?」

 「俺の後輩に変な事吹き込むの止めてもらえませんかね……」


 部長さんの声に顔を上げると、こめかみを抑えてあきれ顔の先輩が立っていました。後ろには、山田先輩も一緒に居ます。同じ授業だったんでしょうか?


 「えー? 変な事じゃないよ。ちゃんとしたち・し・き」

 「官能小説のそれを知識とは言わないでしょうに。山田先輩も、なんとか言ってやってくださいよ」

 「My girlfriend is cuteness in the world」

 「英語止めてもらえませんかね……」


 泉に降臨した女神でも見るような、恍惚とした顔の山田先輩に力なく突っ込んだせんぱいは、バッグをがさごそと探って一冊の本を私に差し出します。

 あー、これ!

 私が欲しいって言ってた、中国語の教科書。


 「わ、ありがとうございます。わざわざ持って来てくださったんですね」

 「ああ。明日使うって言ってたから。今日は大丈夫だったのか?」

 「先生が、持ってない人の為にレジュメを配ってくれたので。でも、間違えちゃったところがあって……」

 「ん、見せてみ?」


 私はバッグからレジュメを入れたファイルを取り出し、ノートを開きます。

 今日授業で習ったのは、中国語での自己紹介。

 「私の名前は早坂美来です」を中国語にすると、「我是早坂」。そして、名前をフルネームで名乗る時は、「我姓早坂、我叫早坂美来」になるんですけど、ここまでは良かったんです。

 躓いたのは、この次。


 「也と、都の使い方が思いっきり間違えてました……」

 「あー、そこか。うん、俺も間違えた記憶があるよ」


 レジュメに出されていた練習問題には、赤ペンで大きく×を付けている。それを見たせんぱいは苦笑すると、教科書とレジュメを交互に指さしながら解説します。


 「"也"っていうのは、日本語に直すと、~もまたって意味なんだ。そして、"都"は、すべてとか、いずれもって意味になる。ここまではいいか?」

 「はい」

 「そしてこれは、述語とか動詞。形容詞の前に置かれるんだよ」

 「じゃあ、"私も一年生です"って文を作る時は――」

 「"我也一年級"、だな。今回早坂が間違えたのは、二つの単語の解釈違いと、文法の誤り」


 そう言って、先輩は私の書いた中国語を指さします。


 「早坂が書いた、"我也都是一年級"。これだと、"私もいずれも同様に一年生です"って訳される。主語が単数なのに、いずれもっておかしいだろ?」

 「あ、そうか。じゃあ、この場合は"我们也都是一年級"、になるのが正しいんですね」

 「そういうこと」


 ふむふむ、なるほど。そういう回答になるんだ。


 「あと、これは注意なんだけど。一年生を、向こうでは一年級って書くんだ。漢字が違えば、発音も違ってくるし意味も全く違うものになる。前期の試験は筆記と先生の前での自己紹介だから、ここは注意しておいた方がいいな」

 「わ、そうなんですか? 気を付けます!」


 回答欄を見ると、私の書いた中国語は『一年生』。おお、このまま間違った知識で先に進むところでした。

 私が色ペンを使って先輩に教わった事をレジュメに書きこんでいると、部長さんが含み笑いをしながら私達の会話に混ざります。


 「ふーん。努くん、随分と美来ちゃんに入れ込んでるねぇ」

 「いや、そりゃ大事な後輩だからですよ」

 「ホントかなぁ。私には、それ以上の関係に見えなくもないけどなー。もしや、昔何かあったなー?」

 「何もないですし、部長には教えません」


 先輩はぶっきらぼうにそう言うと、私から離れて天体望遠鏡の手入れに取り掛かります。部長さんは、「えー? 努くんのけちー」と言って山田さんに思いっきり甘えています。うわ、見てるこっちが砂糖吐きそう。

 それにしても。

 先輩の態度は百歩譲って納得するとしても、釈然としない気分です。そりゃ、過去の事なんてほじくり返されたくないのも分かりますけど。

 むー、先輩のばか。

 私はもやもやの気分を晴らすべく、先輩にとっておきの悪戯を仕掛けてやろうと画策するのでした。

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