第12話 アハネの危惧

「同じだよ」

「いいから」

「一回だけだよ」


 おっけーおっけー、とケンショーは何度かうなづいた。そしてその表情のまま、ちょいちょい、と僕を指で招く。何だろう、とマイクを手にしたまま。ひょい、と僕は彼のそばに寄る。


 はい?


 僕は何が起きたのか、すぐには判断できなかった。

 ただ、自分の腹のところに何でギターの弦が当たってるのか判らない、と考えたことだけ気づいた。

 だから、そのでかい手で、背中を抱え込まれてるとか、その顔が間近にあるとか、―――キスされてるなんてのは、離されてから、気づいたことだった。


「じゃあやるぞ」


 僕は目を何度もぱちくりとさせながら、それでもマイクのスイッチを入れていた。


 何なんだ何なんた何なんだ。


 しかし無情にもイントロは耳に入ってきて、僕の頭は、ああ歌わなくちゃ、という考えにあっという間に支配された。マイクを握りしめ、音に耳を傾け。……ここだ。


 え?


 その時驚いたのは、まちがいない。


 あれ?


 声が、出る。歌詞が、口をつく。


 あれあれあれあれあれあれ。


 喉が開く、という言葉があるけど、ああいう感じ。

 ぽん、と音が前に出てく。

 だけど頭はまだ何かわやわやとしていて、渦なんかも巻いてるから、何なんだろういったい。


 えーとさっき何があった?


 ……とか考えてるうちに、曲が終わった。


「はれ、ま」


 あきれたようにオズさんが、スネアドラムに肘をついて、身体を乗り出してきた。


「めぐみちゃん、さっき手ぇ抜いてた?」

「……や、そんなことは……」


 僕だって知らない。何なんだいったい。


「おいケンショー、何だよいったい」


 ふっふっふ、と問われた本人は、思った通りとばかりに顔いっぱいに笑みを浮かべている。

 そしてその顔を見てるうちに、僕はさっき何が起こったのか、ようやく理解した。


「あーっ!!」

「やっと頭が把握した? あとりめぐみ」

「ケンショーあんた! さっき!!」

「つまりだなオズ、この子は下手に考えすぎると駄目なんだわ」

「ほー。なるほど。それでさっきあんなことを」


 ……「あんなこと」に関しては別にショックも何も受けないような口調でオズさんはうなづく。


「酔ってた時に声を聞いたし。その時もどうも別人入ってたしなー」


 一部始終見てたって訳か。何となくくやしい。


「だ、だけどって、ああいうことすることないだろ!」

「ん? 嫌だった?」

「って……」


 嫌も何も。僕の頭の当座の許容量を越えてたので、それを考える余裕もなかったとしか言いようがない。


「って、あれケンショー、今まで何も手ぇ出してなかったの?」

「だから俺、今回は慎重だって言ったでしょ」

「お前は言ってないよ。俺がそう批評しただけじゃないの」

「同じこと同じこと」


 何か違うと思う。


「ま、でも歌ってみて、どうだった?」


 どうだった、って。


「……覚えてないよ」


 ふふん、とケンショーは笑った。


「それって、覚えてないほど気持ちよかった、ってことじゃないか?」

「勝手に決めつけるなよ!」


 僕は言い返していた。実際僕にだって、さっぱり判らないんだ。


「だけどさ、声が、前に出る感じって、いいと思わない?」

「……それは…… いいと思うけど」

「だろ?」


 おやおや、という顔でオズさんは肩をすくめた。


「だからさ、あとりめぐみ、正式とかそういうのはちょっとおいといて、しばらくその声を出す感じ、という奴を味わってみるのも悪くないと思わない?」


 そこで僕がはあ、と答えてしまったのは、……なりゆきだろうか?


   *


「なりゆき、ねえ」


 課外の時間に、僕が出し損ねていたデッサンの課題をやっていると、アハネはあきれたようにつぶやいた。

 ここのところおかしかった僕を彼はずっと心配していたらしく、何かにつけて様子を聞いてきた。


「だけどアハネは、すぐに断れとか何とか言わなかったじゃない」


 目の前にある石膏像に視線を集中させながら、僕は彼に向かって言う。


「まあね」

「何で? 僕は何度も奴の誘いを断ってたって言ったじゃない」

「だってお前、別に嫌がってなかったからさ」

「……なかった?」

「少なくとも、俺にはそう見えたけど」


 空いていた椅子に逆座りになり、足をぶらぶらさせながらアハネは言う。


「俺が何か言ったって、お前がそうしたいのなら仕方ないし」

「……だって」

「あ、でもね、アトリ、俺は一つ心配なんだけど」

「心配?」

「好きならいいんだ。どんなことだってさ。ただ、お前、流されてないか、と思って」

「流されて」

「そのケンショーって奴、何かお前の話聞くと、すごい強引な奴っぽいじゃないか」


 だろう、と僕も思う。

 さすがに口説かれたとか、抱きしめられたとか、キスされた、とかいうことは言わなかったけれど。さすがにそれは、この友人には言いたくなかった。

 それに、言いたくなかったのは、それだけではない。何を僕が戸惑っているかって……


「強引…… だよ。それが?」

「お前がその強引さに引きずられてしまわないかって思ってさ」

「……どういう意味?」

「どういう意味って」


 僕は顔をアハネの方に向けた。彼は少しばかり困った顔をすると、こめかみを軽くひっかいた。


「……うまく、言えない」

「……」

「何か、だから、それでお前がもしかしたら、困ることになるんじゃないか、って感じはするんだけど、俺にはそれがどういうことなのか、いまいちよく判らないんだ」


 そういうアハネの顔は、ひどく真剣だ。真剣に僕のことを思ってくれているのは、よく判る。だけど言っていることの意味がやっぱり僕にはよく判らなかった。


「で、ヴォーカル、引き受けるんだな?」

「とりあえず…… 音自体は好きだし」

「うん、好きならいいんだ。歌うことも」

「歌うことは、好きだ…… と思うよ」

「好きである、ならいいんだけど」


 アハネはそう言って、目を伏せた。

 実際、彼の危惧がどこから来るのか、何を言おうとしているのか、僕にはそれからもずっと判らなかったのだ。

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