第六章 大学生・ザワディ

第19話 ザワディ・1

 ザワディはベッドの上でスマートフォンをタップしながら、言葉にならない不安と戦っていた。

 アイスランドのブルーラグーンで大量の青カビが発生して施設が閉鎖されたというニュースが入ってきたとき、実は既にケニアでも青カビは増え始めていた。たださほど騒がれてはいなかったというだけなのだ。単に発生しているのが一般家庭であり、その都度家の人間に処理されていたから表に出て来なかったに過ぎないのだが。

 それがここへ来てアイスランド全土にカビが蔓延し、経済が混乱し始めているという。そのうえ同種と思われる青カビがアラスカに上陸、魚市場を直撃しているらしい。


 それとほぼ時期を同じくして、ケニアの青カビが家庭から社会へ進出を始めた。ナイロビ大学周辺が徐々にカビに汚染されつつあるのだ。

 マーケットではトイレットぺーパーやマスクの買い占めが始まり、法外な価格で転売する者が現れ始めた。アイスランドと全く同じ流れだ。むしろアイスランドを模倣したのかもしれない。そのうちにいろいろなものの価格が高騰するのだろう。


 アイスランドやアラスカの例もあり、事態を重く見たケニア政府は感染経路の特定を始めた。誰がどこから持ち込んだのかを明確にすることで、今後の感染拡大を防ぐというのである。

 SNSはもっぱら『誰がどうやってカビを持ち込んだのか』という犯人捜しでもちきりだ。


 そんなの、どう考えても自分たちに決まっている。

 アイスランドでは、ブルーラグーンに行ったあとに自分たちが移動したところが次々とカビの被害に遭っている。そして、ナイロビに戻ってきたら、恐ろしい事にナイロビ大学周辺からカビが蔓延し始めたのだ。

 それだけじゃない。帰って来て荷物を開けたら信じがたいことになっていた。その日に着た服は袋に入れて持ち帰り、戻ってから洗濯しようと思っていたのに、一度着た服はことごとくカビまみれになっていたのだ。もう洗ったって二度と着る気になんてなれない。

 これで自分たちが犯人でないなら、一体誰が犯人だというのか。


 突然スマートフォンが耳障りな音楽を伴って手の中で振動した。こんな事を考えている時に、突然の着信は心臓に悪い。

 黄色のLED、これはファティマからだ。声なんか聴かなくても用件はわかる。彼女も同じことを考えているに違いない。


『ザワディ、ニュース見た?』

「うん」

『どうする?』

「まだ考え中。ウマルと相談する。ルカはなんて?」

『ルカも考え中だって。ワンガリは何か言ってる?』

「ううん、まだ何も聞いてない」


 声の調子からファティマが怯え切っていることは容易に推測できた。ザワディだって怯えていなかったわけではない、それでもファティマよりは落ち着いていると言える自信があった。


『だよね。あのさ……ワンガリって真面目だから、きっと申告するって言いだすと思うんだ。わたしたちは何も悪いことはしていないから、申告すること自体は反対じゃないんだけど、その』

「うん、わかるよ。怖いよね。偏見ってあるもんね」

『きっとね、ワンガリは近いうちに招集かけると思うの。だけどわたし、自分で決められなくて、怖くて自分の気持ちがよくわからないんだ。正しい事はしたいけど、それがどんな結果を招くか考えると怖いの』


 ファティマの言わんとしていることはわかった。ザワディだって怖いのだ。こんな時、ワンガリほど強くなれたらどんなに良かったか。


「うん、そうだよね。あたしもそうだよ。怖くてどうにかなりそうだよ」

『だからね、だから、招集がかかってもわたしは行かないと思う。喘息持ってるから行けないってことにする。卑怯だけど、自分で決められないからみんなが決めたことに従う。ごめんね』


 ――そうか、ファティマは逃げるんだ。でももし、あたしも逃げたら、ワンガリはどうするんだろう。ウマルとルカと三人で決めるんだろうか。


「ルカには言ったの?」

『ううん。ザワディにしか言わないよ。わたし、多分ルカと別れる。地熱発電の研究もやめると思う。なんかもう、全部忘れてしまいたい』


 ザワディにはファティマの気持ちが痛いほどわかる。できる事ならザワディだって全部無かったことにしたいのだ。


「そっか。わかった。じゃあルカには適当に話合わせとくね」

『ごめんね、ザワディ』

「気にしないで。ファティマはゆっくり休んだ方がいいよ」

『うん、ごめんね。おやすみ』


 ――どうしよう。あたしもこのまま逃げてしまおうか。でもウマルはどうする? ワンガリにもファティマのことを伝えないといけない。

 実際、自分たちは何もやましいことはしていない。だけど世間は自分たちをどう見るのだろうか。個人情報だって完璧に守られるという保証はない。そのとき、世間は何もしていない自分たちをどう扱うのだろうか。


 できることなら、この先ずっとワンガリと顔を合わせたくなかった。こんな恐ろしいことになるとわかっていたら、アイスランドになんか行かなかった。地熱発電の研究だってしていなかったかもしれない。


 ぼんやりと考えていると、再びスマートフォンが手の中で着信を知らせた。ザワディは飛び上がるほど驚いてその四角い板を取り落としてしまった。ピンクのLEDの点滅が相手を知らせている。

 ワンガリからだった。

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