第三章『うごめく人影たち』1

 目的とする御山みやまビルヂングまではゆっくり歩いても二十分ほどという。

 歩くことには人並み以上に慣れているつもりの楓であるが、赴任に伴う大荷物を抱えていればなんらかの交通機関に頼っていただろう。二年の滞在を見こんだ荷物はそれほどまでに多い。列車から現地に運んでもらうよう赤帽に頼んでおいてよかったと思う。


 駅舎を出て歩き出してほどなく、楓は鼻にまとわりつく異臭に顔をしかめることとなった。臭いの発生源は駅前を無数に行き交う自動車の煙だ。ひっきりなしに吐き出され、路上にうっすらと立ちこめている。蒸気機関車が吐き出すものよりも臭気が強い。

 鼻腔がじわじわと侵されていくような感触を覚えた楓は、鼻元を袖でおさえた。

 自動車を動かす小型蒸気機関は、機関車の大型蒸気機関と比べて格段に性能が落ちる。性能の低い蒸気機関は燃料の不完全燃焼を起こしやすく、さらには煙を除去する除煙じょえん装置の出来も粗雑なので、排気と燃え殻の悪臭が鼻につくのだ。

 そうしたものを積載した自動車が片側五車線もある通りを数限りなく走っている。ひっきりなしに近寄っては遠ざかっていく車列はさながら猛烈な濁流だ。排煙とて無視できる量ではないはずだが、誰かの言葉通り帝都の者は慣れっこなのか、みな平気な顔で行きかっている。

 楓は鼻をおさえながら、一方で自動車が無数に走る光景に圧倒されてもいた。

 故郷では自動車そのものが高価で珍しく、保有できるのは大資産家か社会的な地位のある者ばかりであった。なのにここ帝都では、両の手足では足らぬ数の自動車が通り過ぎていくではないか。

 この街にはどれほどの素封家がいるのだろう、とは楓の感。

 彼女には、帝都では上位の中間層までもが車を持つ購買力があるとの事実はおろか、帝都の経済力にも想像がおよばない。ただ数の多さに驚いているばかりであった。

 多量の車を許容してなお広さを感じさせる道路も規格外である。

 駅の前を東西に貫く大手どおりは東部市の大動脈だ。幅広の歩道と広大な車道、柏並木の植樹帯が、帝都の中心部から郊外へ向かって伸びている。

 その大手通の側道と歩道の間を、小型の客車が単行でごとごと走り抜けていく。

 ――あの列車はいったい?

 列車というだけで楓の意識はそちらに引きずりこまれる。

 よく見ると路面に軌道が埋めこまれていて、その上を客車が駛走しそうしている。

 駅舎の少し先に乗り場があるようで、後続の車両が停車して人々が乗りこんでいる。さらにその向こうには、反対から到着した車両が人々を降ろしていた。ちん、ちん、とベルを鳴らして発車した客車が、先のそれと同じように駆動音と継ぎ目を渡る音だけを響かせて通り過ぎていく。

 それを見て楓は違和感を抱いた。

 車両からはが出ていないのだ。


 ――蒸気機関じゃない?


 走る列車には煙突がなく、煙と蒸気を吐いていないのである。

 そんな車両の存在を楓は初めて知った。

 動力がなんであれ、それが鉄道というのであればぜひとも乗ってみたい。そんな欲求が油然ゆうぜんと湧いてくる。おおむね物事に恬淡てんたん な彼女であるが、こと鉄道が対象となると心の動きが大きく変わってくるのであった。

 が、乗車してどれほど時間がかかるのかが不透明見であるし、そもそも帝都に来たばかりで乗り方はおろか、乗る資格があるのかもわからない。

 だいいち先を急ぐ身ではないか。

 楓は後ろ髪を引かれながら通りを歩く。もっとも彼女がしばらく進む方向へと謎の鉄道も伸びていて、自分を抜き去る車両を恨めしげに見送るのであった。


 通りの左右には高層建築物が連綿と並び建っている。

 様々な様式のビルが自らの意匠を誇るように並ぶさまは華やかだ。しかし振り返って街並みを視界に収めた楓は、それぞれの主張が強すぎて調和性のなさが際立ってしまっているのを残念に感じた。しかし大手通の西の突き当たりに《時計塔》がいまだ埋没せず屹立しているのに心づいた途端、それらの参差しんし とした街並みが《時計塔》を中心に引き絞られ、かえって威容ある光景に転じたのである。

 またそのために、超然とした《時計塔》の存在感もいっそうと強まった。

 そこにこの塔の魔力を垣間かいま見た楓は、我知らずこうつぶやいていた。


「時計塔は象徴であり、守護者であり……、支配者」


 そうした《時計塔》も、別の通りに入るとさすがに見えなくなった。

 往来を行く人々はぐっと数を減らし、ざわめく都会の雑音や、集団がかもす体臭や香油の臭いも薄まる。自動車の排気音や煙の臭い、鉄道の走行音も間遠になった。

 先までわずかに射していた茜はすっかり煤煙に塗りこめられ、空がなおいっそう煤けはじめる。

 黄昏の感傷はどこにも漂っていない。

 いや、そもそも帝都には黄昏というものがなかった。

 夕方は味気なく、気付いたときには完全な闇夜に包まれているのだ。


 さらに小さな通りへと入りこんでいくと、人の姿がぱったりと途絶えた。

 いささか心細さを覚えるも、帝都に不案内な楓としては示された経路に従うしかない。それは老技師の好意に報いるためでもあった。

 ――こういう時に心細くなるのも奇妙な心理です

 過去には人跡まれな山道や獣が駆る荒れ野を渡ることだってあった。そうした場所に比べれば、多くの人間が息衝く帝都の道は、いくら路地裏とはいえまだまだ人の気配がする。

 それなのにわずかでも心細くなってしまうのが、彼女には不思議だった。

 他方そうした自分を俯瞰できるほどの心的な余裕はあった。

 薄ら明るい裏通りには蒸気が漂っている。

 さながら湯煙のようだ、と思う楓は、蒸気も湯気も実体は同じものであるのを失念している。表通りに比べるといくらか温かい気がするのは蒸気のせいか、ちょっと前に暖冬という言葉を聞いたせいか。

 古びた集合住宅が並び建つ通りは人影もなく寂然じゃくねんとしている。

 道のかなたがぼんやりとかすんでおり、幻想的というよりはうっかり白昼夢に足を踏み入れたような幻惑的な光景であった。

 概して活気というものが欠落しており、寂しさに拍車をかけている。

 しかしまったく人がいない、というわけではなさそうだ。

 現に楓は蒸気の向こう、廃屋のような建物から飛び出す複数の人影を認めた。

 それらが駆けて来たかと思えば、紗がかかったような蒸気の霧を挟んでちょっと先で立ち止まる。楓としては通せんぼをされた形である。

 自分は何かをしただろうか。

 思案顔の楓も立ち止まって目を凝らす。人相はよく見えない。

 ただ、


 かっちきん、かっちきん、かっちきん、……


 と、奇怪な音が、漂う蒸気の向こうから聞こえてくる。

 まるでかみあわない歯車を無理に稼働させているかのような音だ。

 それらは人影から鳴っているようであった。

 こんな音をさせながら、立ちはだかる人影は何も言ってこない。

 ――また、面倒に巻きこまれたのかな

 よく物事に巻き込まれる経験から、相手が道を閉ざした時点でこの後の流れはおおよそ決している、との判断を下せた。下り坂を転げるがごとく事態は悪い方へと運ばれていくものだ、と。

 予想的中というべきか、案の定というべきか、楓はすでに後戻りもできなくなっていた。

 いつのまにか後ろにもう一人立っていたからだ。

 彼らの意を忖度そんたくしかねた楓は、「あの、私にご用でしょうか」と相手を刺激しないよう、やや高めの、よく通る声で謙抑けんよくして問う。


 いらえはない。


 首から上の影の動きで、彼らが無言のまま顔を見合わせたのがわかった。

 にわかに強い風が吹く。

 蒸気がさっと晴れ、影の正体が明らかになった。

 男たちの顔を見た楓は驚きの声こそあげなかったが、脇と背筋に大粒の冷や汗をしたたらせていた。


 仮面――男たちは顔に欧風な仮面をつけていた。

 簡素な線で表現された目鼻や口は表情の特徴をよくとらえており、〈喜び〉、〈悲しみ〉といったそれぞれの感情がしっかり伝わる造作ぞうさくをしている。また、彼らが蒸気の霞の中で影のように見えたのは、真っ黒な詰襟を着ていたからであった。

 敵意のようなものこそ感じられないが、軍服のような詰襟姿に白い仮面といういでたちは、奇っ怪を通り越して無気味でさえある。

 仮面男たちが再び楓の方を向く。

 いまや路地に不穏な空気が瀰漫びまんしている。


「あの――」


 もう一度口を開きかけた楓に向かって、前に立つ仮面の男がさっと拳を突きだして飛びかかる。

 楓をつかもうとした男の手が、その二重廻しの表面を擦過さっかして勢いよく空を切った。

 かと思えば、次に男は背中と尻をしたたか路面に打ちつけて、つかもうとした楓を見上げる形で真っ逆様に倒れこんでいた。体を斜めに逸らしてかわした楓が、すかさず男に背を向けて回りこみ、突きでた腕を担いで背負い投げたのだ。

 楓はそのまま油断も息継ぎもせず、すかさず後ろの男の懐に飛びこむ。

 抱擁するような体捌きで左手を腰に、右手を襟元に回して軽く力をこめれば、二人目もたちまち石畳に叩き伏せられていた。

 しかし当の男たちは固い地面にぶつかったのに呼吸を絞りだす様子を見せず、


 かっちきん、かっちきん、……


 例の不気味な音をさせている。いったい何の音か楓には見当がつかない。

 残る一人、〈喜び〉の仮面をつけた男がゆっくりと迫る。

 次はどう避けようか。

 楓が相手の出方をうかがっていると、霧の向こうから仮面男めがけて何かが飛んでくる。

 それはみごと男のすねに命中して路面に転がり落ちた。

 小さなつぶてだった。

 こんなのが急所に当たればうめき声のひとつでも上げそうなものであるが、〈喜び〉の仮面男は苦悶も叫びもあげずに、


 かっちきん、かっちきん、……


 やはり気味の悪い音だけを裏路地に響かせたまま、飛んできた方に首を向ける。

 先に倒された二人の男たちもゆっくり立ち上がろうとしていた。

 どちらも大きな怪我をした様子はなく、楓は内心ほっと息をつく。

 襲われたとはいえ負傷させてまで撃退する気はなかった。


「早く逃げろよ!」

 と、甲高い声が礫の飛来した方から聞こえてくる。

 楓は仮面男から意識を逸らさぬよう横目を向ける。薄らぼんやりとした影が蒸気の霧の向こうで揺らいでいた。誰が投げたのかはわからないが、仮面男の意識が逸れたのは好機だ。声も早く逃げろと言っている。

「ごめんなさい! あなたもすぐ逃げてください」

 大声で向こうの相手に伝えて、楓は一気に駆けだした。


 こうしたやり取りを見ている第三者がいるのにも気づかずに。

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