迷いの中に悟りがある。その悟りの中で迷っている。


迷いの世界で生きているのだから、迷って当然、悩んで当然。


悩んでいると悟りは向こうからやってくる。


道元はそう言っている。




同じ出来事を、同じ人間が体験したとしても


その人のその時の価値観、考え方、気分、体調、


その前後に起きた出来事に左右されて感じ方が変わってしまう。




誰かに足を踏まれたとしよう。


ものすごく失礼だ、腹が立つ!と思うかもしれない。


そのままそいつをこっぱ微塵にしてドブ底に捨ててやりたいほど憤怒することもあれば、あら、いいのよ、オホホホホと笑って済ませることもあるかもしれない。同じ出来事、同じ人間でも、その時、その時で感じ方も対応も変わるだろう。許せることも許せないことも違ってしまう。




同じ人間でもいつでもその人が同じなわけがない。寝不足だったり、お腹が空いてたり、人から嫌なことを言われたり、余裕のない時と、余裕のある時の感じ方も違う。




そもそも私たちを構成している37兆個の細胞だって7年経てばすべて入れ替わっている。絶えず目の前の出来事はめぐり、変化し変容している。つかみようがない。核の部分を突き止めようとすると、それが空だとわかる。そう、お釈迦様の言ったとおり。般若心経の通りだ。色即是空。欲を満たすためだけに、人生を浪費するのはなるべくやめようと決めた24歳。あれから暴飲暴食も、タバコもやめて、お酒もたまに飲むくらいになって体重も安定した。


バタフライ効果というものがある。ブラジルで羽ばたいた一匹の蝶の羽ばたきが、テキサスで竜巻を起こすという。それくらい因果は何がどう繋がるのかわからない。計測できない変数がある。この世は、不思議の、迷いの世界である。私はつくづく、不思議の国だと思っている。大人になればなるほど、この世はワンダーランドだし、不思議の国のアリスは、ファンタジーなんかではなく、この世のリアルそのものに思えてくる。




それに気がついたら、悟っているんですよ。


迷っているからといって迷いをなくそうとせず、むしろ迷えばいい。克服しなくていい。どう足掻こうと、真理は変わらんのだから、いやでも気付く羽目になる。一所懸命に生きていれば、いやでも気付くんだ。




だからではないだろうか。空だから、人はなにかその空を埋めたがるのではないだろうか。何か指標を持ちたがるのではないか。不安で、不安で仕方ないから、お手本が欲しくて、導いてほしくて、だから宗教というものを作らずにはいられなかったのではないだろうか。


そうでなければ、この迷いの世界で、つぶれてしまいそうになる夜が、なにをやっても芽吹かぬ人生の冬の季節が、だれの人生にも必ずそれぞれのタイミングで、訪れるから。あらゆる宗教のなかで、仏教は唯一論理的である。論理破綻したことは言わない。道理が通っている。だから、空を理解するのに、量子論が使えるし、脳科学が手助けになる。この世の真理に基づこうとしたからだ。空?何言ってんだ、意味わからん、という人は流石に論理で学べば、理解するだろう。言葉は的確だし、理解できるように作られている道具だから。




ただ、複雑なことをこうしていちいち言葉にして伝えようとすると、どれだけ文字数があっても足りないし、長くなる。こんな面倒な説明は、釈迦もまっぴらだったのだろう。




だから、自分が行き止まりになって、人生に立ち止まることになった時に、それぞれがその時期に学ぶ。そのくらいのエネルギーがあれば、誰でも悟れる。そしたら、くだらんこと、ばかばかしいことにも気付いて避けれるようになる。このプロセスを誰もが踏まなければならない。なぜならこの世は迷いの世界だし、肝心な部分は空だから。苦しみや悲しみや恨みや嫉妬に飲まれないために客観視が必要なので、一歩引いてみる。世阿弥の風姿花伝のように、舞台で演じている自分だけでなく、それを客席から見る自分、入り口に立って見渡す自分もいなければいけない。自分で自分のことを見ようとすると、見ている自分と、見られている自分とに分裂する。ああ、自分は二人、見るためには、見られるものがいないといけない。見られている、ということは、見ている人がいるということ。そして、量子は、観測するものがいると、動きが変わる。これはすでに科学でも証明されている。


人間における五つの欲望(財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲)のうち、自分がまだ満足していないものを満足させようとしないこと。欲望は、穴のあいたバケツに水を注ぐようなもの。そのエネルギーでまえに進めることはあるが、欲を満たすことが目的にはしない。


J・S・ミルのいうように、満足な豚よりも、不満足なソクラテスだ。


快楽にも質がある。精神的貴族気質な私にとっては快楽も質が大事。


神経を揺さぶるような、熱い涙を流せるような、心から感動するようなものを大切に想っていれば、目の前の欲などいくらでも耐えることができるし、たいしたことはない。欲、無知、勝手な思い込みによる決めつけ。


私が大嫌いなもの。この世でもっとも恐ろしいのは、これらのかたまりのような普通の人間。


天才なんか怖くはない。ヒトラーよりもどこまでも恐ろしいのは、アイヒマンの方。ソクラテスが毒を飲むハメになったのも、ワイルドが投獄されたのも、日蓮が死刑を言い渡されたのも(逃れたけど)すべて普通の人の、欲、無知、勘違い、そして思考停止によるものと言ってもいい。なにかを信仰すれば、神が助けてくれるなんてことはない。あの日蓮だって、私は法華経の真の信奉者じゃないのか?と島流しを食らってなにもかもうまくいかないときに弱気になっている。なんてことはない。なぜこんな目に遭うかというと、既得権益にへばりついていたい人間の仕業であったこと。こういう話は、古今東西変わらずにある話。どこまでも、欲、無知、思い込みの普通の人がおそろしい。




偏見も差別も無知からくるし、思考停止による思い込みが人を苦しめる。やってる方は頭を使わないのだから、楽だろう。あれらはほとんど脊髄反射で動くサル以下のなにかである。頭も神経も気も使っている方がむしろ嫌がられる。自分よりできるやつ、自分より優れている奴が近くにいるのは面白くなのだ。劣等感の強い人間は本能的に優れた人間が嫌いだしうざったいしおもしろくないと思うものである。仕方ない。それは防衛反応でもある。でも、こういう時に頭を使わずにいつ使うのだろうか。シャーデンフロイデ、人の不幸は蜜の味、幸災樂禍。これの心理状態は、自分の尊厳を傷付けられた時に発生する。嫉妬や羨ましいと思う気持ちは自然発生するものなので止めようがないが、そのエネルギーをどこにどう使うのかは自分で決めることができる。他人を蹴落とすことではなく、自己救済、自己研鑽に使え。空だと知れ。もっと迷え。それができないやつがトラブルを起こす。


魚でなければ、魚のこころを知らず、

鳥でなければ、鳥の飛ぶ道を知らない。

無知の知は全てのスタートです。知らないということをまず知ること。

人のことを勝手に分かった気にならず、自分のことも勝手に分かった気にならず

決めつけず、思い込まず、偏見を壊し、

今日もこのワンダーランドで元気に迷って参りましょう。

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