第14話

 猫田さんとの逢い引きを考えるところから始まったはず時間は、結局、不毛にも腐りきってしまった。物が腐敗する際に発する熱が現実世界で布団を心地よく暖め、私はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 大脳参謀が議場の扉を開き、そこから漏れ出る光によって、脳内の私は目を覚ました。暗い廊下に放り出され、膝を抱えながら眠ってしまうとは、実に哀れではないか。 よく考えると数日前の状態に似ていなくもない。夢は現実世界の情報処理とは良く言うが、こんなところまで再現しなくて良い。

「すみませんでした。忙しくて。でも、落ち着きました」

 申し訳なさそうな参謀が、私を中に招き入れる。彼も免疫軍の指揮と、行軍する病原体とで頭を悩ませているのだろう。悪いことをした。

「ごめん」

 謝って彼と仲直りしてから議場へと戻った。要するに現実世界での目覚めである。部屋は明るく、日中であるらしい。

 うろ覚えではあるが夢の中の記憶は残っていた。最後は何かを飲んだとか飲んでいないとかを考えている状態だったような気がする。きっと、喉が乾いているからであろう。高熱を発する私の体をどうにか冷やそうと、貴重な水分を参謀が汗などに変えてしまうからそのような事態になる。しかし、参謀は責められない。

 何かしら飲み物を口にしたいのだが、少しだけ布団から出した手のひらによると、部屋は相変わらず恐るべき低温を保っていた。我が家には電気ヒーターであったり、暖房器具の類が無いから当然である。昨年の後悔から買おう買おうと先送りした総決算がここに来て迫られていた。今のような状態で布団から出ようものなら、凍ってしまうことだろう。これも参謀の采配の賜である。決して、参謀を責めている訳ではないので悪しからず。

 ただ、このまま、汗に浸された布団、及び寝間着で居るのも心地が悪い。私は敷き布団をそのまま、掛け布団だけを纏って歩いた。みっともない行為だが背に腹は代えられぬ。

 何より始めに水分補給だ。いつもならば、たった数秒で済む冷蔵庫までの距離を、おぼつかない足取りで、畳からの冷気に凍えながらに進む。冷気は密度が重いから下へ向かうというのに、下から足を冷やすとは何たる狼藉か。

 既に震え始めている手で冷蔵庫を開けると、更なる冷気が私を襲う。中で作り置きのお茶が「さあ、飲め」と揺れているが、手を伸ばして飲む気を損なった。こんな時は何か暖かい飲み物を飲むべきであろう。私は緑茶を飲むべく、薬缶に外の冷気で冷やされた水道の水を注いで火に掛けた。しかし、どうせなら風邪に効くと噂のなにやらを飲みたいものである。

 お湯が沸くまでの間、私は寝間着を変えようと、押入の中から衣服の類を探る。だが、探れど探れど寝間着は一着も無い。元来、寝間着など、殆ど、持ち合わせていない弊害がここに来て現れたようだ。ここまで、無いはずは無いのだが、そんなことを考えられる程、私の参謀は働けてはいなかった。

 仕方なく、時期的に役目を終えて眠りにつこうとしていたTシャツを引っ張り出して、寝間着の上とする。下はジーパンくらいしか持っていない為、このままで居るほか無い。

 用意は整ったが、着替えるには多大なる覚悟を要した。猫田さんへ連絡する程ではないが、それでも、かなりの覚悟である。だって、寒いのだ。一度、温い敷き布団の上に戻って、布団の中で着替えようと思い、布団へ戻った瞬間、私は最早、元の布団へは戻れぬのだと悟った。汗が冷たく、畳以上に私の足の裏から体温を奪ったのである。わずかな間にこれほどまでとは、恐るべき、冷却効果だ。これで私は掛け布団を剥いではならぬと証明されてしまった。敷き布団には悪いが尊い犠牲である。すぐさま、押入の前に戻って、震えたのは言うまでもないことであろう。

 ただ、こうなってしまっては、敷き布団が乾くのが早いか、私の息が絶えるのが早いか、命を賭けた戦いである。

 足を暖め続けた私は意を決した。一時の間、布団の防御を解き、素早く、着替えて再び布団を被る。最早、この術しかあるまい。怖々、開けても、冷たいものは冷たいと、私は史上希に見る勇気を持って、布団を脱ぎ去った。

 しかし、どうしたことか、私を襲うはずの冷気は一向に体を包まないばかりか、むしろ、暖かく迎えてくれた。遂に感覚が無くなり死んだかと思ったのも無理はないだろう。が、いつぞやとは反対に、参謀が「生きている」と訴えかける。

 原因は直ぐに見つかった。シュウシュウと機関車を思わせる音を、部屋に響かせる薬缶であった。小さな熱源を蒸気として部屋中に満たすとは、何たる優秀な存在であろう。これなら、布団を外に干していても、部屋を暖めることが出来るではないか。私は感動しながら、着替え始めた。


 着替えの最中、読者諸君には、今更ながら、簡単に部屋の看取りを説明させていただこう。男の着替え描写など見たくも無かろうから、実に合理的である。

 私の部屋は、天井から見下ろしたとすると、盾に長い長方形をしている。

 上辺の中央部やや左側に玄関があり、その直ぐ左側の壁に接する形で台所がある。調理場の隅には泥鰌達が泳いでいて、いつ、食材にされるのか、心配そうな面もちで、自炊中の私を眺めている。また、その直ぐ横、もう少し部屋に入った場所に冷蔵庫が置かれ、買ってきた物を瞬時に調理、もしくは冷蔵できてしまう、大変、効率的な部屋であった。

 冷蔵庫の更に横には、巨大な本棚が置かれ、左側の壁は本で埋め尽くされている。

 一方、右手側上には、風呂場と便所の水場が集まった、完全に仕切られている空間がある。部屋の縦と横を走るように線を引いた、右上、約四分の一を占める一角だ。丁度、台所の真向かいに当たる部分に扉があって、そこから入れるようになっている。段差はあれど、食事後は体を清めて直ぐに寝る準備が出来てしまう。大変、効率的である。

 風呂と便所の一角の直ぐ下には、風呂に向かって開く形で押入があり、現在、私はその真ん前で着替えている。

 押入の前、つまり半分ほど残された右側の壁には、小さな机とその上にパソコン、横にはテレビが置かれ、主に執筆作業に行う場所となっている。

 そして、問題が、下側だ。採光と洗濯物を干す為か、全面ガラス戸であり、一応、ベランダもついている。ベランダと言っても、柵という方が近いのではという物で、人一人立てるかどうかというものだ。布団を干す際は、いつもその柵を利用している。


 何故、私がガラス戸を問題視するかと言えば、部屋を暖める手段を見つけた為、湿ってとても眠れぬ布団を干そうとしていたからである。

 部屋から出ないとは言え、ガラス戸を開けるという行為は、冷気を室内に引き入れるということである。冷気からの猛攻を耐えるには布団にくるまるのが手っ取り早いが、それを干すというのだから、矛盾が発生する。

 私は冷気に負けぬよう、沸き続けるお湯、本来の目的通り緑茶を煎れて、体を暖めることにした。コンロの前に座して、何度も急須にお湯を注いでは何度も緑茶を飲む。段々と旨味は薄く、苦味は濃くなっていくが、体の芯を暖める為に、胃が溺れる程のお茶を飲んだ。薬缶の中身が軽くなってしまったので、水を投入してから、私は立ち上がった。

 ガラス戸を開けると、冬がいち早く来たのかという冷気が、部屋へとなだれ込んだ。輝く太陽は一体、何のために輝いているのか。人の肌を焼いている暇が有れば、地球を暖めろというのだ。どうしようも無い自然現象に心の中で悪態吐きながら、まずは部屋中央の敷き布団を持ち上げた。汗を吸い込んだせいか、風邪で落ち込んだ体力のせいか、持ち上げるだけで、精一杯である。これを腰の当たりまで持ち上げなければいけないなんて、苦行の一種では無かろうか。

 どうにか、一枚、干し終え、次の掛け布団へ手を伸ばそうとして、私は愕然とした。ベランダから遠く押入の前に置き去られているのである。

 加えて、寝間着の下を着替えなかったことが、ここに来て悔やまれる。休息に冷えて、私の体温を奪い取っていった。

 何たる失策。

 思案の末、私は静かにガラス戸を閉めた。何も無茶をすることはない。

 再び、台所の前に戻って暖を取り始める。

 一度、押入前によって掛け布団を被ろうともしたが、やはり、外気に当てられ冷え切っていた。そんなもの身に纏おうものなら、風邪が悪化しそうであった為、押入前に置いている。放置ではない。あくまで乾燥である。

 お湯をまだ沸いていないようであったが、火が近い為、暖かい。夢から覚めて、まだ、そこまで時間が経っていない。眠気もしばらくは来ないであろうから、私は再び猫田さんとの逢い引きを完璧にするべく思案を始めた。

 今回の目的は、あくまでダーツだ。そのように、誘ってしまったのだから、ダーツは必ず行うとして、一体、何処でダーツが出来るであろう。

 近場で言えば、当然、私が勤務する店だろうが、これは論外である。自分の勤める店を利用するということは、その次の出勤の際に根ほり葉ほり聞かれることを覚悟しなければならない。別に聞かれること事態は良いとしよう。ただ、その時に親友と紹介するのは大変心苦しい。好きな相手を、堂々、恋人と紹介出来ない辛さは、先日後輩に紹介して味わった。そんなことを繰り返して何になる。

 であれば、別の場所を探さなければならないのだが、そうなると、慣れ親しんだ街ではないから、一体、何がその街に有るのかが分からない。逢い引きの筆頭、映画館であったり、水族館であったりが存在しているのかも分からない為、入念な下調べが必要となる。何だったら、予行演習も必要になるだろう。しかし、今の状態で実地へ赴くことは出来かねる。演習は出来ないにしろ、入念な調査に関しては、文明の利器を以てすれば、意図も簡単に調べ上げることが出来る。私は早速パソコンへと向かった。

 電源は点いているが省電力の状態から、パソコンを復帰させるべく、キーボードに触れると、何たることか、水に濡れている。基本的に電化製品が水に弱いことは言われずと知れたことであろう。当然、私も知っている。

 そんなことを知っている人間が、電化製品を水に濡らすなど、破壊目的以外でするはずが有ろうか。私は破壊されたく無いから、論理的に考えて、私が行ったものとは考えられない。良く見ればキーボードどころか、パソコンの画面、机、テレビ、壁に至るまで部屋中が水に濡れていた。まるで、部屋が水浸しになったようである。水物といえば台所。振り向くと、熱く痛む頭でも一発で分かる原因があった。

 薬缶の蒸気である。確かに温度の高い蒸気は室温を上げてくれるが、湿度も驚く程に上げてしまう。それでも、増え続ける蒸気が行き場を失うと、冷たいものに水滴として付着してしまう。良く窓なんかで起きる現象が、部屋全域にわたって起きていた。ガラス戸を開けて冷気を引き込んでしまった為だろう。

 そんなことにも気が回らないとは。それに、ガス代も馬鹿にならないだろうに。請求時、今日の自分を殴りたくなるだろう。室温の低下も無視できないが、他に無視できない物が多すぎる。私としたことが、随分と焼きが回ったものだ。確かに、熱は回っているが。私は火を止め、乾くことなく、より湿った布団を被った。

 パソコンが全く使え無くなる程の蒸気量では無かったようで、買い置きのちり紙を泣く泣く存分に使って、細かい水滴を全て拭き取り、画面の前に座る。病気の時にやるべきでないことは重々承知であるが、思い立ったが吉日。即時、調べ上げなければ。

 他人に使われないよう、また、他人に情報を抜き取られないよう、掛けられた鍵を解除すると、そこには、彼女の最寄り駅から良識の範囲内で移動可能なダーツの出来る店を調べた痕跡が有った。私はいつの間に調べたのであろう。しかし、考えることが一緒である当たり、やはり、私と言うべきか。

 出てきているのはバーや酒場であった。何処も入るにはどうも敷居が高そうである。きっと、店側としてはそんなことは無いのであろうが、異性一人に連絡を入れることに勇気を要する私に、お洒落な店に入るだけの勇気があるはずがない。過去の私もそこで困り果てたか、力尽きたかをしたのだろう。

 ただ、ここで、今の私は、過去の私とは違い、少し成長していることを示そう。

 会話に不安があるなら、共通項を探すでも、猫田さんの興味を引けそうな話題を探すでも無く。全く別の物に頼るというのはどうであろう。

 平たく言ってしまえば、お酒の力を借りると言うことだ。太古より酒は百薬の長とされ、様々な薬の中でも優れている薬らしい。だったら、私の会話下手にも利くのではないだろうか。

 会話下手の対処として、酒に頼るとは、成長でなく、退化でないかという者は、よく考えて欲しい。欠点から自分を見直すのも成長である。そして、欠点から対処法を見つけたのなら、最大の成長である。

 現に、私の中に潜む好色漢はそうしている。バーでカクテルを嗜み、隣の席に座った女性を甘い言葉で誘っているではないか。かつて友原と好色漢について話したところ、誤ったイメージと呼ばれたが、断じて違う。我が内なる好色漢である。間違いはない。

 これは良い考えだと納得した途端、私は身震いした。

 熱源を止めてしまった影響ではない。間接的にはそうかも知れぬが、原因の大部分は、お茶の飲み過ぎ、水分の取り過ぎにあった。要するに余分な水分を排出する生理的欲求、もっと言えば、尿意が私を襲ったのである。

 布団を引きずり、台所の前にたどり着いた私は、風呂と便所の一角へ通ずる扉を前に、茹だった頭が更に煮詰まる程の苦悩に陥った。何度も言うが、寒くて布団から出れば寒いのである。便所に布団を持ち込むことは出来よう。しかし、それは、もっと人間として大切な何かを、置いていってしまうように思われた。そして、すぐ後ろには水が入った薬缶とコンロ。短所の方が大きい、暖房器具が私を誘惑する。

 お金と部屋の各所を犠牲に部屋を暖めるか、風邪の延長を覚悟で寒さに身を踊らせるか。寒さのせいで風邪を引いた私が選ぶ道は決まっていた。

 自らの体調の代わりに、畳と壁と機械を多少犠牲にしてしまうのは致し方ないだろう。家計に痛いが、背に腹は代えられぬ。


 台所に寄りかかって、頭まで布団を被っていると、金属が震える音が鳴る。顔を出すと、そこは昔、私が住んでいた部屋であった。

 どうやら、また、眠ってしまったらしい。こうなっては起きるまで待つしかない。寝起きがひたすらに悪い私は、夢の内容に無条件降伏する。

 思考が私の上空を飛んでいるかのような、働かない頭で考えると、どうやら、風邪を引いているらしい。頭の下の凍った枕と、布団の直ぐ横に置かれたお粥の残骸が、それを物語っている。悪寒が酷く、体は熱いのやら寒いのやら混乱を極め、掛け布団を取ったり被ったりした。

 そのまま、どうすることも叶わず、掛け布団を仰ぎながら、天井を穴が空くほど眺めていると、扉を開いて母がやってきた。手にはお盆を持っており、その上には、かつて愛用していたマグカップが乗せられている。流れるように私の横へお盆ごとマグカップを置くと、代わりにお粥を持って去っていった。教育者であるから、病原体を移されてしまっては困るのであろう。

 マグカップからは滾々と湯気があふれ出ており、白みがかった黄金色に輝く液面が中身を満たしている。慎重に口をつけると、強いけれど、決して強すぎることのない、柔らかな甘さが口に広がる。とろみの付いた液体は、最低限の甘みだけを下に残して、胃に落ちて行く。そうして、悪寒を和らげるように、私を暖めた。

 そうだ。かつて、私が薬の代わりに飲んだ物はこれだ。

 当時、名前は分からなかったが、お酒を許された今なら分かる。この黄色なのだが、ただのものではなさそうな黄色に、生菓子のような甘さは、どう考えても卵酒である。苦みは一切感じなかったから、恐らく少量入れて良く酒精を飛ばしていたのだろう。

 寝起きの疑問が腑に落ちたところで、夢とは言え確かに感じる懐かしい味に、ついつい全て飲み干してしまった。

 それが、現実世界に如何なる影響を及ぼしたか、そんなことは言うまでもないことであろう。

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