第23話 「書きたいことを書くのよ。あなたの一番書きたいことを」

「どうしたの?」


 明るい照明の下、あたしは訊ねた。


「やっぱり後悔してるんだ?」

「そういう訳じゃないけど」


 そういう訳じゃない。だが彼は混乱している様だった。


「誘ったのはあたしよ。タイセイさんがどうこう思うことじゃない」


 そうだ。彼のせいじゃない。あたしはそうさせたのだ。彼はひどく不思議に思っているだろう。

 知っていた。彼はHISAKAを敵に回してまであたしをどうこうしたい訳じゃないことくらいは。態度を見れば判る。好きは好きでも、そういう「好き」じゃない。

 誰かを敵に回してまで奪いたいという激しい感情ではない。

 TEARだったら。彼女はFAVが自分で離れようとしたら、決して追わないだろうが、誰かが彼女を取ろうとしたら、それこそ死にもの狂いで取り返すだろう。非常に分かりやすい。そして、ひどくうらやましい。

 だけどHISAKAは。

 予想がつかない。確かにあたし達は、そもそも恋愛じゃない。契約だ。同じ目的を、遂行するための同志に近い。彼女はそう言った。だからそれは事実だ。信じられる。

 だけど、最初は。最初はそうじゃない。あの時、あたしが、無意識に誘ったらしい、あの時。

 彼女がそうしたのは、決して目的がどうとか、そんなことはまだ無かったはずだ。そんな状態の時に、いくらモラルが揺らぎかかっていた頃だとは言え、拾った女の子をそうするだろうか? 少なくとも、それまでは男と付き合っていた彼女が。

 彼女があたしに特別な感情を持っていると、信じたいのだ。だけど、信じられない。

 あたし達は、同じ目的を持っているから、一緒に行動を起こした。一緒に居られる。同じ目的について、本心を言い合える。手を伸ばして、抱き合って、一緒に眠れる。

 だけど、同じ目的を持っているからこそ、彼女の言葉が信じられないのだ。それは、同じ弱味を持った同士が、傷をなめ合っているだけなんじゃないか?


 ひどい矛盾だ。


 そしてそれ以上に、あたしは、そう考えてしまう自分が嫌だった。



 考えてしまうきっかけは、書けない歌詞だった。

 それでも一曲は良かった。TEARの曲だったから。

 彼女の曲はまだ気楽に付けられる。その歌詞の中に居るのが自分でなくとも、通じる気がするのだ。歌詞の中だけに存在する「誰か」を設定して書くことはできる。物語を書いているようものだ。フィクションだ。


 ところがHISAKAの曲は。

 HISAKAは言った。


「この曲は、絶対に、上手く流通に乗れば、売れるの」


 それはプレッシャーというものよ。


「だからMAVOちゃん、歌詞を書きなさい。あたしの曲よ。TEARのじゃない」


 それは、リーダーの命令じゃなかった。同じ目的の同志からの、通告だった。


「書きたいことを書くのよ。あなたの一番書きたいことを」


 それが何を意味しているのかは、あたしが一番よく知っている。


 「あのひと」に書け、と。

 「あのひと」に、自分が居ることを証明しろと。

 「あのひと」を、憎んでいるんだ、ということを。


 そしてその通告が下ってから、HISAKAはあたしに触れない。もうずっと。

 もちろん、それまでも一週間や十日、あたし達の間で、何もしないことはあった。

 だが、その時には理由があった。例えばツアーの時、例えば曲作りの詰め… 単純にタイミングの問題というものもあるが。

 だが今回は別だった。

 そして、昼に起きたら、HISAKAの姿が何処にもなかった。

 あたしは捜しまわっていた。だけど何処にもいなかった。キッチンのホワイトボードにも何も書いてなかった。寒々とした家の中には、何処にも。

 あたしは、ひどく寒くなった。

 寒いのは嫌いだった。頭が凍りつく。何も考えられなくなる。寒い寒いと考えるだけで、他のことが何も考えられない。

 それでも、書かなくてはならない。何が何だか判らなくなる。もともと寒い以外のことは考えられない頭なのに、無い頭で言葉を絞りだそうとするから、変になる。苛々する。

 部屋の家具を蹴飛ばしてみる。ベッドはだけど、黒いスチールは、ただ冷たいだけだ。

 クローゼットに大きく、両手を打ちつける。

 ばんばん、と音が響く。手が痛い。でも手は熱くなる。何度かそんなことをしているうちに、目がじんわりと熱くなった。足から腰から力が抜ける。その場にあたしはへたり込んだ。喉の奥が、ケイレンする。

 思わず声が出ていた。喉の底から、Aの音が、Aの形で。目が熱い。そして、濡れだした。

 そのまま、大きく手を振り上げて、絨毯を敷き詰めた床に手を打ち付けた。

 ―――どのくらいそうしただろう。いつの間にか、あたしは絨毯につっぷせて、ひたすら泣いていた。大声を立てて泣いていた。泣かずにはいられなかった。止まらなかった。息が苦しい。胸が苦しい。止めようとするのに、止まらない。

 きっと、涙腺の何処かが、壊れているんじゃないか、と思うくらい、止まらなかった。頭の中の涙腺も、壊れているんじゃないかと思った。

 はあはあ、と肩で息をつく。ひきつけたみたいに、喉の奥からひぃひぃと音がする。そしてその詰まり方がまた涙を引き起こす。


 だがいつまでもそれを繰り返す訳にはいかなかった。

 階段を上る音が聞こえた。あたしは思わず息を呑み込んでいた。


「どうしました? 何か壊したんですか?」


 レコーディング期間に入って、ハウスキーパーを雇った。外で忙しくなったのは、HISAKAだけではなくなったからである。


「何でもないわっ!」


 あたしは声を張り上げた。


「でも…」

「何でもないから! 大丈夫だから!」


 階段を降りる音が聞こえる。あたしは耳がいい。

 大声を無理矢理立てたのが良かったのだろう。発作のような嗚咽は、それでも治まっていた。

 何をしているんだろう、とやっと冷めた頭の半分で考える。寒いから、だった筈なのに、頭に血が上っていた。

 身体を起こすと、ドレッサーにはひどい顔の自分が映っていた。顔も目もまぶたも真っ赤だった。頬にはじゅうたんの模様すらついている。


 …何をやってるんだろう。


 そして顔の腫れがひくのを見計らって、あたしは外へ出たのだ。

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