第16話 「本当に、あなたなど拾わなければ良かった、としみじみ思いますよ」

 本気なの、とHISAKAは訊ねた。


「本気です」


 マリコさんは静かに言った。


「どうして」

「前から考えてはいました。ただ、タイミングを見計らっていたんですが」

「タイミング?」

「あなたがた、もうこれからメジャーへ行くでしょう? 行ってからではしがらみが多くなってきて、私という存在の居ることが判ってしまうではないですか。今なら離脱できます」


 HISAKAは形の良い眉をひそめた。


「離脱… そう言うとまるで戦線離脱したように聞こえるわよ」

「誤解しないで下さいね。私は単に戦線を拡大しようと言っているたけなんですから」

「ええそれは判っているわよ」


 マリコさんは、傍目には冷たいと思われるくらいの無表情で話し始めていた。

 だが無表情な顔をしていたからと言って、中身まで無表情ということはない。むしろその逆だろう。彼女の中にはなかなかに大きな溶鉱炉があるのだから。

 戦線離脱は、ある意味では嘘ではないだろう。マリコさんは、正直言って、あたしと同じ所にいるのが辛いのだろう。少々やりすぎたかな、とも思う。

 リスクは大きいだろう。少なくともこの「家庭」もどきをそれらしく維持していたのは彼女の力だ。あたしとHISAKAだけでマトモな生活ができるとは思えない。あたしはともかく、HISAKAは。

 この音楽と、それにまつわる工作には素晴らしい働きを見せるこのひとは、生活面においては全く役に立たない。それをHISAKAも自覚していたからこそ、「適材適所」なんて言葉を使っていたのだ。全くそれは至言だ。


 だが。


「残念だな」


 あたしがそう言った時、明らかに、彼女はあたしを一瞬にらんだ。HISAKAは時々ひどく鈍感だから、こんなことには気付かないだろう。

 戦線離脱の本当の理由を知っているあたしとしては、そういう言葉しか発する資格はないだろう。

 おそらくマリコさんはこう感じた。あの時あたしの呪縛から解放されてから。

 自分は目的のためにHISAKAの側を離れるべきだろう、と。

 だがHISAKAにはこう言うしかないのだろう。


「敵のことを、もっときちんと知らなくてはならないですよ。向こうはこっちが敵と思っていることなど全く知らないはずですし。一方的にこちらがそう感じているだけなんですから」

「それも何となくしゃくね」

「好都合、と言って下さいな」


 少し寂しげにHISAKAが――― 彼女の従妹のハルさんが笑う。さすがにあたしが見ても、彼女のその無神経さには、マリコさんが可哀そうに思えてしまうくらいだ。まあHISAKAの鈍感さは、あたしにも降りかかってくるのだ。人の心配などしている余裕などない。


「私のことなら心配しないで下さい。今まで私が心配させるようなへまをしたことはないでしょう?」

「そうね、マリコさんはいつも大丈夫な人だものね」

「ええそうです。私は大丈夫ですから」


 いつだって、どんなことがあったって。それはあたしと正反対のスタンスだ。

 凍り付いたような笑みを浮かべ、マリコさんは自分と正反対の相手を見る。あたしはあたしで不安げな表情という奴を作る。



「そう言えばマリコさん、聞きたかったんだけど」


 HISAKAがスタジオに再び篭もったすきに、あたしは彼女に訊ねた。


「何ですか?」


 明らかに警戒と好戦的な態度が見られる。それまでのポーカーフェイスが嘘の様だった。


「あの彼女の服、結局どうしたの?」

「あなたの『タンスのこやし』ですか?」

「そうよ」

「ご心配なく。あいにく私は『できるところからエコロジー』の人なんです。活用してくれる所へ回しましたよ」


 と言うことは、古着屋か何かに回したのだろう。質はいいものだったから。


「もういいでしょう? 私を解放して下さい」

「解放なんてとうの昔にしているじゃない。あなたが逃げ出すのよ。この家から。あたしから」

「本当に、あなたなど拾わなければ良かった、としみじみ思いますよ」

「本当にそうよね」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る