第8話 1989年4月。押しかけてきた奴。

 その時の状況をFAVはこう話した。



「何よその大荷物は」


 FAVは露骨に顔をしかめた。夜更けも夜更け、もう少しで夜明けも近いぞ、彼女ですらいい加減寝ようと思った夜の三時である。

 1989年、4月。

 ついさっき――― もう前日になる。夜桜見物としゃれ込んだのですっかり遅くなってしまった。呑んだり騒いだり飛んだり跳ねたりしたせいで目は実にさえている。冷ましてから風呂へ入ったから、というのもある。

 それでもいい加減寝ようと思っていたら、いきなりぴんぽんぴんぽんと音が響いた。心臓が飛び跳ねた。

 そんな時間にチャイムを鳴らすのは何処の馬鹿だ、と思って開けたら、その「さっき」会って別れたばかりの相棒が居た。そして珍しく大真面目な顔になって、大真面目には聞けないような台詞をうめいた。


「ごめんしばらく泊めて」

「夜逃げか?」


 反射的にそんな台詞が出てきてしまう程、TEARの格好は妙だった。ベースを左の肩に、丸々とした薄手の旅行バッグを右肩に、そして左手にはまともな旅行バッグがあった。


「まあそんなもの」

「何あんた家賃でも踏み倒したかあ?」

「んにゃ」


 とにかく入れ、とFAVはここで立ち話をするご近所迷惑を考えて、ドアを大きく開く。ああ助かったわ、とTEARは大荷物を下ろしてほっと息をついた。


「あーさすがに肩疲れたわあ」

「一体何なんよ、この大荷物…… げ、何?」


 薄くない方のバッグを持ち上げようとしてFAVは驚く。何て重さよ。TEARは首や背中を音を立てて回しながら、適当に自分の場所を作って座り込んだ。


「夜逃げ正解。ただ家賃どーのじゃあなくてさ。実家から追手が出て」

「追手…… 何じゃいそりゃ」

「いや前言ったでしょーに。うちの義理の親父がどーのって」

「ああ『絵に描いたような家庭』をご要望の親父どのだっけ?」

「そ。それがとうとうあたしのとこ突き止めやがって」


 げ、とFAVは声を立てる。


「それで何かされたの?」

「いんや。ただ若い連中引き連れてきて、それで連れて帰るのどーの大騒ぎしたんでさ、大家さんが怒っちゃって」

「わ、若い連中?」

「いや別にやーさんとかじゃねーよ。だけど建物関係のご商売のウチだから、何かと若い奴とか居るじゃないですか。わざわざそんなのも引き連れてくるこたねーと思うんだが」


 TEARにしては珍しい程顔を渋くゆがめていた。


「それでよく引き下がったね」

「来年」

「は?」

「来年の今日までに、プロとしてやってく見通し立たなかったら、何がなんでも、ふんじばってでも家へ連れ返すってさ。馬鹿馬鹿しい……」

「来年!」

「そーだよ来年。何とかしなくちゃな」


 TEARは口をつぐんだ。そしてそのまま壁に背を預けて脱力しているようだった。

 PH7はこの年になってから、アルバム製作に取りかかりきりだった。「名刺が欲しい」がHISAKAの言だった。確かにこれと言った音源が無いというのは、動員数を首都圏以外で増やすには難しいものだあった。

 そのインディーズ盤のアルバムのレコーディングがやっと終わった。昨夜はその打ち上げを兼ねた花見だった。四月半ばとは言え、夜風はまだ冷え冷えとしている。

 花冷えとよく言われるように、昼間暖かいからと油断した時期の冷え込みというのは、妙に身体にしみる。だがさすがにそんな冷えも何のその、とメンバー、スタッフ、知り合いいろいろを巻き込んで騒いだのだ。


 散会したのが、確か終電がどうとか言っていたから、十一時台だったとFAVは思う。それからTEARの方の騒ぎがあったとしたら、…酔いを冷ます間もねーじゃねーの。


「……おい」


 声をかけようとして、FAVはTEARが既に眠りこんでいることに気付いた。

 来年までにプロ。

 FAVはその言葉を心中繰り返す。そうしなくてはならない。

 「しなくてはならない」というのはFAVにとってあまり好きではない言葉である。

 もちろんある程度のことは、自分でその期限を決めればだいたい何とかなる。だが「何とか」程度のものしかできない自分を思い知らされるからあまり好きではない。

 彼女が好きなのは「してもいい」だった。それではできる限りのことは致しましょう。その言葉はそういう気分にさせてくれる。

 だが「しなくてはならない」。TEARにはあまり縁の無いコトバかと思っていたが、とてつもなく大きな奴がのしかかってきたらしい。


 …さて。


 FAVはそれでも太平楽に眠りこけている奴を見ていると、何となく蹴飛ばしてやろうかと思わなくもない。が…とりあえずは止して、無造作に毛布を上から掛けてやる。

 いい加減彼女も眠かったのである。

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