第4話 「呼ばれたくない名はあるけど、呼ばれたい名は特にはないな」

「何が?」

「だってこの家は、ハルさんの思い出が」

「まあそれはそうだけどね」


 彼女は苦笑しながら、あたしの頭を撫でた。微かにマリコさんが目を逸らしたのが視界に入る。ハルさんからは見えない位置だ。


「だから、よけいにハッピーエンドのシーンを見たいのよ」

「うん」


 ああそうか。このひとはわざと、自分にとって大切なものを捨てているのだ。

 そしてそういう彼女にマリコさん流の感想が飛ぶ。


「背水の陣ですか」

「ま、そんな所ね」

「そうですか。じゃあそういうことで手続きを進めますから…」


 マリコさんはそう言うと、食事も早々に、台所に入ってしまった。台所は彼女の居城とも言える。

 そしてTVのかかったままの居間には、ハルさんとあたしだけが残された。

 そんな光景がこの時期、妙に多かった。


「嫌いなのかな」

「ん?」


 つぶやきに、彼女は耳を止める。


「マリコさん。あたしのこと」

「どうして?」

「何か最近、名前で呼ばないんだ」

「ああ」


 言葉の中には、やっぱり、という感触がある。ハルさんも気付いている。マリコさんの態度が何処か変わった。


「別にまほちゃんのせいじゃないわ」

「うん。だけど」

「でもいつまでも『まほちゃん』じゃややこしいわね…… あなたが本当の名前を使いたくないなら、別の名前を付けてあげる」

「他の名前?」

「そ。もちろん戸籍上は、あたしの妹の名前を使ってもらわなくちゃならないけど」


 どうやらさすがにハルさんも、この名前で呼ぶことの問題に気付いたらしい。

 この名前は、彼女の妹のものである。

 前の年の終わり頃、ハルさんは家族を飛行機事故で失った。両親と、妹。その妹がマホと言ったらしい。あたしはその妹の名で呼ばれ、妹の部屋で暮らしている。

 ピアニスト志望だったハルさんは、やっぱり音楽系の学校でヴァイオリンをやっていた妹のマホさんと一緒のオーケストラで演奏できるようになるのが夢だったらしい。マホさんの方も、結構な才能の持ち主だったらしい。現在あたしの住む部屋の中にも、その才能の名残があちこちに見られる。例えば賞状の数々、例えば写真の数々。

 だが姉の夢に反して、妹はいつの間にかドラムに手を染めていたらしい。それが何故なのかは判らない。ハルさんはマホさんが通っていた楽器屋の店員のひとから何やら話を聞いたらしいけれど、その事に関しては、あたしに一言も語らない。

 呼ぶたびにその妹のことを思い出す名前をつけるというのはどういうものだろう?


「ほら、あたし達、ロックをやろうって思ってるでしょ? 結構みんな、バンドネームって付けてるじゃない。そういう奴をつけよう」

「あだ名みたいなもんだよね」


 そういうものをつけられた記憶は無いけれど。


「そうね。そんな感じかな」

「ハルさんはそのまんまでも充分バンドネームっぽいよね」

「うーん……」


 彼女は首をひねる。


「でもあたしはあまりその名で呼ばれたくないのよね」

「そうだったの?」


 あ、と彼女は口を押さえる。


「ううん、そうじゃないのよ。まほちゃんは別にいいのよ。そうじゃなくて、ほら、家族じゃなくて、不特定多数の人間に呼ばれる名として、ね」

「ああ」


 つまり自分の名は親しい人間にしか呼ばせたくないということか。


「だったら、名字の方がいいな」

「日坂さんでしょ? でも結構これって名前っぽいよね。字は違うけれど、名前でそういうの聞いたことあるし」

「うん。いっそそれで通してもいいな」


 彼女は納得したようにうなづいた。

 たこ焼きを一つ口に放り込み、飲み下した後、あたしは口の中で何度かヒサカさんヒサカさん、と呪文のようにつぶやく。そしてやはり納得したようにうなづいてみせる。


「うん、結構呼びやすいし、それでもいいよね。どっちかというと、カタカナ的だけど。あたしは?じゃあハルさん、どういう名がいいの?」

「呼ばれたい名ってある?」


 ううん、と首を横に振る。そんなものはない。


「呼ばれたくない名はあるけど、呼ばれたい名は特にはないな」


 呼ばれたくない名はある。「あのひと」が呼んだあたしの名だ。

 「あのひと」は、あたしの名前をある五文字で呼んだけれど、その中の姓に当たる部分は母親のはずの「あのひと」とは全く違った。名前にあたる部分は、何故かいつも自分を呼ばれている感触がなかった。

 学校であっても同じだった。学校は子供の頃から、友達どうしでも姓を呼び合うようなところだった。あたしのことを名で呼ぶのは「あのひと」とハウスキーパーしかいなかった。

 ふーん、とハルさんはうなづいた。


「ところでマリコさん」

「ああ?」

「その話だったんじゃない、最初は」

「ああ、そうだったわよね」


 マリコさんが最近あたしを避けていることは彼女にも判っているだろう。正確に言うと、あたしとハルさんが一緒に居る光景を、だ。


 ハルさんをも含めて、その光景から逃げているのだ。


 まだ出会ってから大した時間は経っていないけれど、あたしはマリコさんの理性は信じている。そんなことで自分の「役割」を放棄する人ではない。

 だがそういう人でもさすがにショックは受けるのだろう。何せあの隙の無い人が、あたし如きに「嫌われているんじゃないか」と思わせるような露骨な行動を取っているのだから。


「でも、だから、それは、まほちゃんが嫌いな訳じゃあないと思うわ」

「じゃあどうして?」


 あたしもそう思う。だが、あえてそう訊ねてみる。

 おいで、とハルさんは手招きをする。言われるままにあたしは彼女に近付く。横に座らされる。腕を回される。肩を抱かれる。

 暑い日で、熱いものを食べていたというのに、引き寄せられた時の感触はそう悪いものではない。


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