第30話 「お別れの歌を一曲、歌ってもいい?」

 きっぱりと、俺は言った。彼女の大きな瞳が、読んで字のごとく、丸くなる。信じられない、という感情と、何をこんなところに好きこのんで、と言いたげな嘲りとが入り交じった笑いが、口元に浮かぶ。


「正気か? ミン」

「あいにく、俺は正気も正気だ」


 は、と彼女は大きく息を吐き出す。瞬く間に、その息はきらきらとした氷に変わってその場に落ちて行く。


「冗談は顔だけにしろチュ・ミン。お前の言うことが本当かどうか私は知らないが、戻らん?」


 彼女は最後の言葉をひどく強調した。ああ、と俺は大きくうなづく。


「それではお前は、我々の軍を脱走するというのだな」

「そう取りたかったら、取ればいい」

「どう取ったってそのものだろうが!」


 あははは、と高い笑い声が、きらきらと光りながら落ちていく。そして、俺にくっついている歌姫にその時やっと気付いたかのように、そのコートの端をむんずと掴んだ。

 ぐい、とその細いにも関わらず強い手が、歌姫の襟元を強く掴んだ。帽子が落ちる。彼女は歌姫の顔を無理矢理自分の方へと向けた。


「何を…!」


 高い声が、俺の耳に届く。胸に走る痛み。彼女もまた、一瞬顔をしかめた。


「…なるほど」


 黒い目と、赤い目の視線が、ぶつかる。


「メゾニイトの歌姫か。お前、これに捕らわれたな」

「そう言いたければ言えよ」

「堕落したな、チュ・ミン」

「俺は変わってはいない。お前が知らなかっただけだ、アニタ」


 歌姫はその時どうやら、彼女が俺にとっての何であるのか理解したらしい。奴ははっとして、彼女の顔を改めて見据えた。

 彼女は押し戻すようにして、歌姫の身体を自分の元から離した。奴はバランスを崩して、その場にへたりこむ。


「知らなかった? 私が知らなかったというのか? お前を」

「知らなかったさ」

「私は知っていたよ。お前の知らなかったお前の素質を。だから私はお前をも誘った。間違ってはいなかった。お前は私と共に、アルビシンを率いる… いや、私の上で率いることも、できたはずだ。そういう素質は、あったのに!」

「そんなもの」


 ぽろ、と俺の口からそんな言葉が漏れる。自然と首が横に振れる。


「そんなもの、だ?」


 彼女は声を張り上げる。

 俺はちら、と横に視線を飛ばす。

 敬愛なる司令官どのと、親愛なる撃墜王の口論を彼らははらはらしながら見ていた。司令官と空戦隊補佐がそういう関係であったことは、兵士の中では知られたことだった。

 しかし訓練のせいか、手から銃は手放さない。それが彼女の命令なのだろう。俺はどうしようもなく、自分達の間には埋めようもない溝があることを思い知らされてしまう。そして彼女もそれを知っているのだ。だが、彼女はそれを埋めたがっていた。

 ただし、その方法を彼女は見誤っていたのだ。


「俺が本当に望んでいたものを、お前は知っていたか?」

「…何」


 彼女は眉を大きく寄せる。

 知っていたのかもしれない。だがそれを決して彼女は認められないだろう。俺はそれだけはよく知っていた。

 一緒に駆け回った子供時代。なし崩しに関係を持つようになった頃。

 俺は、彼女とただ一緒に居るだけでよかった。彼女は前向きだった。前向きな彼女と、ごくごく平凡な、だけど毎日が新鮮な、そんな日々を過ごしていく、それだけで良かったのだ。

 だがそれを認めることは彼女にはできないだろうことは、俺も気付いていた。それに気付いて、それを認めて、それを実行することは、彼女が彼女であることを否定するものだった。

 だからそれは構わない。彼女が自分のやりたいことに向かってまっしぐらに進む姿は、それはそれで綺麗だった。魅力的だった。そこにはやがて理想が芽生えた。それもいい。それはそれで構わなかった。

 だがその理想を俺にも押しつけようとした時、そこには溝が生まれた。

 それでも俺はできる限り、彼女の理想を一緒に見ようと思った。そうしてきたつもりだ。

 ただその理想そのものを、彼女がその手で壊した時、全ては終わったのだ。

 彼女が必要としていたのは、俺じゃない。そんな素質のある者なら、俺じゃなくても、良かったのだ。


「それではお前の本当に欲しいものを、その歌姫はくれたというのか?」

「そうだ」


 俺は即座にうなづいた。歌姫はまだ腰をついたままだった。

 そして何やら手で妙な具合にあたりを探っている。何か落としたのだろうか?いい加減に立たないと、身体を冷やすというのに。

 そして目の前の彼女は、ぎゅっと手を強く握りしめた。殴られるだろうか、と俺は一瞬身体を固くする。

 だがそれは間違いだった。

 握りしめた右手をぱっと開くと、高々とそれを空に向けた。


「この裏切り者を拘束しろ! 脱走兵だ!」


 兵士の間に、ざわめきが起こる。まさか、という声が中には上がる。俺はあっという間に、両脇を固められ、後ろ手に捕まってしまった。


「そういう気か」


 俺は彼女に向かって言った。そうだろうな、と俺は思っていた。予想はついた。


「…司令官閣下… この… このひとはどうしますか」


 焦げ茶色の一人が、まだ腰を下ろしたままの歌姫を指して上官に問いかける。滅多に司令官に直接問うことはないのだろう。寒さも加わってか、声が震えている。

 変だな、と俺は思う。

 妙に冷静だ。こんな、捕まってしまって、アルビシンに連れ戻されたら、脱走兵として処分されるのは目に見えている。

 処分。いやそれ以前に、「見つからなかった」として途中で殺されることだってありうる。いやまずそうだろう。

 それとも、俺は何かをまだ期待しているのだろうか。

 横目で歌姫を見る。まだ何やら、雪の上を撫でているようにも見えた。


 一体何してるんだよ、お前。


 と、その手が止まった。

 そして不意に歌姫は顔を上げた。

 ゆっくりと立ち上がる。ぱんぱん、とコートについた雪を払う。

 赤の視線は、焦げ茶色の兵士を通り過ぎ、彼女の方に向けられる。


「このひとを連れて行ってしまうんだ?」


 奇妙に可愛らしい声だ。やや高めに作ってるのが判る。何でまた、わざわざ作っているんだろう?


「そうだ」

「じゃ、お別れの歌を、一曲、歌ってもいい?」

「歌か?」

「好きなひとと、永久に別れるんだもの。そのくらいのことはいいでしょう?」


 普段の奴だったら、やめろ恥ずかしい、と絶対にわめくような言葉。

 あれからずっとそうだ。端末でも俺でもあの都市の彼女でも、少しでもその気配があると手を大きく振ってやだやだとわめいていたくらいなのに。


 …お前、何を考えている?


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