第15話 忘れない方がいいことではないか、とP子さんは感じていた。

「母上ーっ、お客さん」

「あら」


 玄関が騒がしいから、と廊下に母親が顔を出した。ぴょこんとMAVOは頭を下げる。


「あ、こんばんわ、はじめまして……」

「こんばんわ。お名前は?」


 にっこりと笑って母親は訊ねる。初対面の人間と話をするのに慣れた口調だ。


「ウチの母上は先生なんですよ」


 やや照れくさそうにP子さんは言う。先生。なるほど、とMAVOは思う。


「あ、え……」


 言い掛けてMAVOははっとする。条件反射。何で今ごろ。


「……MAVOです」

「? 可愛い名。面白い名かな? 誰か美術に詳しいの?」

「え? 何で判るんですか?」

「学生のときのわたしの専攻は美術だったのよ。現代美術史」

「あれ、そうでしたっけ?」

「何を言っとる。わたしは何度も説明したぞ。覚えていない君達が悪いっ」


 はて。MAVOはそう言って娘の頭を順繰りにこづく母親を目を丸くして見た。


「ま、とりあえずMAVOちゃんこっちおいでね」


 P子さんは手招きをして二階へ向かう階段から声を掛ける。はーい、とMAVOは気を取り直した。



「うらやましいな」


 P子さんの部屋の、彼女の隣に敷かれた客用布団の上で、枕を抱えて、ぺたんと座ってMAVOはつぶやく。


「はい? 何が?」

「うーんと…… 何という訳でもないんだけど」

「何でしょうねえ?」

「変わった家族かなあ、と」

「ウチですか?」


 そ、とMAVOはうなづく。


「変わってますかねえ」

「変わっている…… でもあたし『普通』のってよく判んないし……」

「『普通』って?」

「一応ほら、『サザエさん』みたいな」

「ああ」


 P子さんは苦笑する。


「アレは『普通』じゃあありませんよ。アレは作る側のこうあってほしいって奴じゃあありませんかね?」

「そうなの?」

「まあアレと比べれば確かにウチは『普通』じゃあありませんね。親父いないし」

「あ」


 しまった、とMAVOは口に手を当てる。P子さんはその動作にすぐに気付き、


「アナタが気にすることじゃないですよ」

「んー…… だって」

「MAVOちゃんはどういう家だったんですか?」

「うち……」


 P子さんはさりげなく訊ねていたが、実はなかなかタイミングを見計らってこの質問を投げていた。MAVOが事情を抱えた子であることはHISAKAからもTEARからも少しは聞いている。

 別に熱心に聞きたいということはない。家庭環境がどうあろうと、MAVOの声は気にいっている。MAVOも自分のことは気にいってくれているようだし、それはそれで充分だと思う。

 ただMAVOが自分に訊ねたことで後悔しているようなのが少しだけ不公平かな、と思ったので。

 言いたくなければ言わなくてもいい。ただ言いたいようなら存分に言えばいい。その程度である。


「変な家だった」

「ふんふん」

「あたしも父さんってのはいないの。知らない。生まれてから記憶がない。誰かも知らない。あのひとがそのことに言った記憶もないし…… あのひとから話しかけられた記憶ってのもほとんどない」

「あのひと、というのはお母さん?」

「……とも言うわね」


 MAVOはその単語を口にしたくなかった。

 自分が彼女を自分に対する役割で呼ぶのは「母様」である。HISAKAはそれを時代錯誤な単語だと言った。でも、そう言わなくてはならない気がした。

 MAVOの通っていた学校の友達は母親のことを必ずそう呼んだから、そう呼ぶものなんだ、とインプリントされてしまったのだ。幼稚園の時。

 それ以前に彼女のことを呼ぶ単語は自分の中にあっただろうか?いや、なかった。


「うちの親父は働きすぎで死んだんですよ」

「過労死?」

「ともいいますね。学校の教頭をやってまして。なかなかそれがホネの折れる仕事だったよーです。ワタシには判りませんが」


 P子さんは布団に潜り込む。電気はどうしますか? と訊ねる。


「消していい?」

「どうぞ」


 そして天井の電気のひもを引っ張る。部屋の中は真っ暗になり、相手の顔も見えない。


「先生稼業ってさ、大変だろうな、と思うよ」

「でも親父は結構それでもその仕事を好きでやっていたようですしね…… まあ寿命が縮まったことは事実ですが…… ある意味じゃあ充実した一生という奴を送ったんじゃないかと思いますがね」

「そお?」

「ワタシが思うだけですから、実際はどうか、何て墓の中に入ったひとには聞けませんからね」

「悲しかった?」

「どうですかね」

「だって家族を亡くしたら悲しいものじゃないの?」

「アナタのお母さんは亡くなったんですか?」

「ううん、あたしじゃないけど…… でもそういうものじゃないの?」

「悲しい、という感情がまずよく判らないんですよワタシは」


 は? とMAVOは見えないながらもP子さんの方を向く。


「そのひとがいない、というときに変な感じ、は受けるんですがね、だけど、それだけなんですよ。だから、どう、という感じがワタシにはないんです」

「だから、どう?」

「いなくなったから…… 例えば食卓の食器が消えたり、靴が消えたり、いつも勝手に入ってきた声がしなくなったり…… そうなっても、ワタシはこう思うだけなんですよ『そうか、無いんだな』」

「HISAKAとは違うんだ……」

「そうですか」

「HISAKAは違うの。いなくなったひとのことをずっと探してるの。そこにいないことが辛くて、似たものを探してるの。でも変なのよね。だっていなくなったひとには絶対にできないことを代わりにはするのよ」

「ふーん……」

「P子さんがどういう感情を悲しいと思ってて、それが自分には無いと思ってるかは判んないけど…… 代わりだってことを感じる時ってのは、結構悲しい、という感情だと思うの。胸が締め付けられる」

「苦しいですか?」

「うん。でもそれがどうしてだか、あたしにも判らない」

「世界は難しいもので満ちてるんですよ」

「あたしもそう思う」


 そこでMAVOは言葉を止めた。やがて止まった言葉の代わりに心地よさそうな寝息が聞こえてくる。

 P子さんはMAVOの言葉の意味を考えていた。前半の、彼女の家族についても気にかかることはなくはないが、それ以上に後の話は気になった。


 HISAKAは誰かを亡くした。

 HISAKAはMAVOをその身代わりにしている。

 だけど亡くしたひとは決して現在のMAVOのようには扱えないひとである。

 MAVOは自分が身代わりであることが悲しい。


 その四つがMAVOの話からは取れた。

 別にそこまで聞こうとは思ってはいなかった。MAVOが言うとも思っていなかった。

 だけどMAVOは言いたがっていたらしい。TEARも以前言っていた。MAVOは時々発作的に自分のことを喋りたくなるのだと。

 それは判らなくもない。彼女に父親のことを話してしまったのは予想外だったが、自分の中にも彼女程ではないが、そういう部分がある。

 眠気が迫っていた。だが今彼女に聞いた部分は、忘れない方がいいことではないか、とP子さんは感じていた。

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