第十三章 校長杯

「一日で読み込め、」

 と言い、イワンは過去十年分の総長杯の受賞作の脚本をミハイルの机に積み上げた。

「過去の情報を取り込むこと自体に時間はかけるな、必要なのは咀嚼と分析だ、それに割いていいのは三日だけ。読みながらあらすじは考えておけ、時代考証に必要な資料は俺が調べる。きみは書き出すものの想像を膨らませることだけやっていればいい。この二週間の計画表を作っておいた」

「ちょっと、イワン」

 ミハイルは堆い資料の山と、それに付けられた印に目を通すだけで目を白黒させた。

「これぜんぶ、きみがやったのかい」

「そうだよ、アリョーシャが出来ると思うか」

「そもそも、どこでこんなもの手に入れるの」

「愚問だな、俺が成績に執着する理由は、大人から手に入れるものが増えるからさ。あいつらはえこ贔屓したいんだ。それは彼ら自身も気づかない慰めで道楽だよ。大人は生徒たちに禁止事項を植え付けておいて、自分たちの仲間とみなした奴だけに特権を与える。俺はそれが欲しかった。いろんな場合に役に立つ、俺自身のためでなくとも」

 そう言い、彼は自分で集めてきた脚本の束をかかえて数え直した。その仕草を眺めているミハイルに対し、イワンは目を上げずに言った。

「きみがやらないと言うのなら、俺だってこんなことしない」

 彼は黙ってページをめくることを続けた。

「別に構わないよ――俺に強制する権利はない」

「でも僕は、」

 とミハイルは言った。

「自分のノートに書いているだけで、まだ誰にも自分の作品を見せたことがないんだ……」

 愚問だな、とイワンは低く言った。

「だから何だ。そのノートが素晴らしければいいじゃないか。また素晴らしいと判断するのはきみじゃない。審査する連中が何をもって素晴らしいとみなすか? それを分析するために過去のノートを見ろと言ってるんだ、こればかりは代わってやれないから自分で読め」

 ミハイルは押し黙り、イワンが抱き抱えて数えている紙の束が、日に灼けたり何らかの染みを作ったりして、十年という年月が確かに刻まれているのを見た。そこにイワンがしたと思われる注意書きだけが、生々しい光沢を保って目立っていた。「あった、これだな。第五回の受賞作、『野ばら』」

 イワンはそのなかから一つの束を抜き出し、ミハイルの前に投げ出した。「細部はともかく、内容はそれが一番面白い」

 イワンが断定的に言うので、ミハイルはそっと広げて見た。ところどころの台詞がいかにも大仰で、文学少年の趣味を想像させた。

「設定も変わってる。砂漠で遭難しかけた兵士が、そこで奇妙な少年と出会う。この少年は他の星から来た王子で、恋人である薔薇の女王のいる、自分の星に帰ろうとする。高慢な薔薇の女王は、王子にだけは心を開いていて、王子も薔薇を守ってやることを自分の使命だと考える。狐にそそのかされた王子は、それが自殺だと分かりながら、毒蛇に身体を噛ませて命を落とす。兵士は『まるで死んでいるように見える』王子をみて、彼が星へと旅立ったことを知る……」

 なんだ、とイワンはミハイルの茫然とした表情をみて言った。

「あまりに早口で分からなかったか」

「きみが、イワン」

 とミハイルはぼんやりと自分の言葉を追うように言った。「『薔薇』とか『恋人』だとか、そういう言葉を口にすること自体に驚いてた」

「シェークスピア気違いのくせに、そんな言葉が珍しいのか」

「そういえば、きみの本棚にもあったね……」イワンは露骨に不快気な表情になった。

「全集を読んでいるきみの知識には劣るがね、俺の家には原書で書かれたあの一冊きりしかない」

 それに今言った通り、『野ばら』の作者はドストエフスキーにもかぶれてる、とイワンは言った。

「いま授業でやっている『白痴』に筋書が似てるんだ」

「『白痴』ってこの間、きみが出来ないと言って投げ出していたやつじゃないか」

「読んでない、とは言ってない」と言ってイワンは続けた。

「絶世の美女であるナスターシャ・フィリポブナが薔薇、王子が公爵、きつねは商人だろうな、この三人の関係性とその最期、死が肉体の終わりでなく、他人に承認された時点で迎えるものという解釈が似ている。俺が何を言いたいのか分かるか」

 ミハイルはかぶりを振った。その時、教室のなかを吹き通る微風で、積み上げられた脚本の一枚が落ちた。

「『悲劇』には型がある。過去の作品に類似性が見つかるのは、野ばらに限ったことじゃない。単にそれが悲劇だからさ。あまりに独創的な展開では、他人はその結末を自分にとって悲劇だとは認めにくい。万人が口に入れて甘いと感じる砂糖のような成分を、悲劇は必ず含んでいる。

 喜劇は、場合によっては悲劇の仮装した姿とも捉えられかねない。また冒険譚には独創性が不可欠だ。材料の手に入れ易さ、組み立て易さから言えば、悲劇にするしかないだろう、きみに残された時間と才能でやるなら」

「まだ僕の作品なんか、何も見ちゃいないくせに」

「なんだ、俺がきみをどういう人間だか知らないとでも思ってるのか。きみが隠しているこのノートだろう? それほど自信があるなら拝見しようじゃないか。きみは『野ばら』には感心しなかったようだが、きみの参考書くらいにはなると思うぜ」

 そう言ってイワンが彼のノートをめくる間、ミハイルは拷問のようにその単調な音を聴いた。ミハイルは自分自身に残された仕事として、イワンの言う通りに過去の作品を読み進めた。これほどの賞金がついたためしはなかったにせよ、受賞作とされた作品の台詞、筋書には、彼の力では到底及ばないと思われるものがあった。

(そもそも読んでいる本の量が違う……)

 すぐにあの作品と類似している、と指摘したイワンと自分との違いも彼は感じたが、彼の教材として広げられている受賞作の作者の筆にも、ミハイルは自分とは別の人種のような力を感じた。

(これほどの努力の成果と、ぶつかって勝てるのか、あと二週間しかないのに)

「分かった」

 と言ってイワンはノートを閉じた。途中、何度か念入りにページを戻ったりして、彼なりに丁寧に眺めていたらしいことが、余計にミハイルの胸には痛かった。

「きみの好きなものについては想像がつく――俺自身もこうしたものは嫌いじゃない」

 想像していたよりも優しいイワンの言葉に、ミハイルは素直に嬉しいような気がした。

「だがそれとこれとは別だ。きみの目的は共感者を得ることじゃない、勝つことだ」そう言って彼は机を降り、

「俺の言ったことを明日までにやっておいてくれよ」と言って出て行った。

「作品についての講評は別途する、きみが俺を殺してくれても、それはそれでかまわない」

 学校の玄関までの足音は高く響いた。どこかに急いでいる風だった。

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