第十一章 火事の夢

 イワンはアリョーシャの口にグラスを当てた。わずかに力を籠めると、アリョーシャはグラスを引き取って中身を一気に飲み干そうとした。イワンが彼の手から奪うようにグラスを引き取ると、彼は抗議めいた悲鳴を上げた。イワンは弟の頭を優しく撫でた。

「もう少し、大人しくしていたら残りの薬をやるよ、だから目を瞑って」

 そう言い、彼はアリョーシャの水滴のついた頬に接吻した。彼の頬に貼ってある絆創膏のすぐ側になお、色のついた水滴があるのを見つけると、彼はそれを舐めて拭った。微かな苦みがイワンの舌の上に薄く広がった。アリョーシャは、もはや一日もこの習慣なしには眠らなかった。

 アリョーシャの瞳の焦点が緩むのを見届けると、イワンは彼を眠りのなかに埋めるように手厚く布団をかけ、彼のベッドを離れて机に向かった。火事の修復工事のために、彼の部屋の窓には隙間があり、月明りが浸透してきて彼の机上を濡らした。彼が広げているノート、そこに書かれた文字、彼が齧っていたクルミの殻が、月明りでしらじらと浮かび上がった。彼はノートに向かいつつ、無造作に机の上に手を遣って口に戻した。

「ふうん、旨いな」

 彼はノートに向かいつつ、ふいに口のなかに来た甘さに驚いた。書き物をしている間、彼は机の端に無造作に手を伸ばすことを繰り返していた。そこには彼が金槌で割った後のクルミの実もあったし、彼が壊した外殻の欠片もあったが、彼はそれらをいちいち区別せずに口に運んだ。その感触の微かな抵抗は、彼が現実を離れずにいるための、軽い錘のような役割を果たした。

「ポレノフに教えてやらないと、」

 と言いつつ、彼はノートの次のページをめくった。

「アリョーシャ、お前は子供たちを助けようとしたんだろ、」彼はノートに書きつけている内容とは全然異なることを言った。

「駄目だよ、あんなやり方をしたんじゃ。親に叩かれている子供たちを連れて、悪いことをしに行ったって、そのさきに逃げ場所が手に入るわけじゃない。ただ扉を開けて逃がしてやるだけじゃ駄目だし、助かる当てがないのに反抗をさせても成功しない。物事を狙い通りに達成するためには、それなりに準備が要るんだ。自由を手に入れるのも、

 クルミを食べるのもその点じゃ同じことだよ」言いながら、彼はまたクルミの実に当たった。

「ポレノフは生のままのクルミを齧ろうとしたけれど、準備しないっていうのはそういうことさ。自由っていうものは手に入れて、太陽に干して、その表面が黒く腐ってきたところで、表皮を剥がして金槌で叩く、そうして初めて実が手に入るんだ。その手順を知らない相手に、盗んだものをそのまま渡しても、こんなものが食えるわけがないと恨まれるだけだ」

 そう言い、彼は書き終えたノートを起こした。それから紙面を少し離して、ページをぱらぱらとめくって文章全体の体裁を眺めた。

「出来た。今度のは怖い話だよ、アリョーシャ――」そう言って、彼はアリョーシャの方を向き直った。そうして習慣になっている通り、ベッドのなかで眠りかけている弟を見てかがみ込んだ。

「むかし、むかし、あるところに――、」

 彼はいつも、同じおとぎ話のように話を始めた。彼はノートを時々めくりながら話したが、殆どの筋書は頭のなかに入っていて、実際には見ないでも良かった。またそれらの文章の幾らかは英文で書かれており、彼の他、誰も正しくそのノートの中身を読めないように工夫されていた。



『あるところに、とても絵の上手な画家がいた。彼の仕事は王様のために絵を描くことだった。彼は王様とその家族を描いた。身につけている宝石は皆美しく、髪に波打つ光は輝かしく、年齢による衰えを感じさせないように、実物よりも少しだけ美男や美女に、そして彼らの先祖の目鼻立ちに似るように。目の前の現実から、ほんの少しだけ離れる想像力が彼の仕事には要った。彼の仕事は半世紀にわたって王家の人々に気に入られ、紅顔の少年時代を描いた王子が成長し、次の王様となってからも彼の仕事は続いた。この王様には一人の王子の他、美しい姫たちが四人誕生した。皆それぞれに父母の特徴を引いて美しかったが、末娘のナスターシャだけは、画家のそれまでの仕事の例外となるほどの特別な容貌をしていた。

 十四歳になった彼女の肖像を描いた時、画家は彼女が母や姉の印象を殺してしまうほどの美貌をしていることに気がついた。彼女の先祖の顔を、時に自らの蒐集品のように眺めてきた彼が見ても、彼女の顔がここ数代における王家の顔立ちの特徴を継ぎ合わせた、最高傑作であることに疑いはなかった。

 この血で描かれた素晴らしい絵画を、画家は自分の筆に下ろしてくること自体に苦労した。想像力が要らないばかりではなく、彼の筆に溜まった偏見の埃のようなものを取り除かなくては、彼女の肖像は現実の彼女に対する侮辱、誤解された噂でしかなくなるのだ。しかし絵師の作為の脂のしみ込んだ筆では、描かれるために出来上がったわけではない天然のなかに結晶した、彼女の透明な美は描けないのではないかと思った。

 彼は王様に言った。

「姫君が余りにもお美しいので、私の筆ではその美を描くことは出来ません」姫君の美を写せるような絵の具がなく、またいかなる画家の腕をもっても不可能だろうと言い、

「姫君が二十歳になるまで、どうか時間を賜りたく、姫君が成人された時にはそのお姿を描けるよう、命に代えて絵の腕を磨きとうございます……」

 これは方便だった。彼は単に、十代のナスターシャ姫の模造品が作られることを拒みたかっただけだった。彼女を前に画布を睨み、何度も筆を取ってはおき、その光の帯のような肌を見て怯み、(せめて彼女が歳を取ってくれれば)と思った実体験がこの嘘の原型になった。しかし画家風情が王様の命令を拒絶するなど本来あり得ないことだったため、画家としては命を賭けた行動だった。

 王様は、娘の絵を他国の王子との見合いのために必要としていたので、絵が手に入らないことを不服に思ったが、代わりとなるほどの腕の画家が他にいなかったことから、画家の条件を呑むことにした。余りの美貌のために画家が絵筆を折ったという噂が国内外に広まると、噂は見合いの絵に近い役割を果たした。

 画家はしかし、二十歳になるより以前に描けるようであれば、すぐにでも絵を完成させるようにと王様に命令された。彼はその命のために、新しい絵の具を手に入れたと言っては、姫君に接近する機会を得た。画家には妻も、遅くに出来た子供もあり、彼らへの愛情に充足していた。姫君を女と見て憧れたというのではなかった。彼はただ自分がその輪郭をなぞってきた肉や血が、自然のうちにこれほどの傑作を産んだことに嫉妬しつつ、その嫉妬の対象を眺める悦びに浸っていた。

 ある時、ナスターシャ姫が頬を怪我したように、唐突に片方の目から涙を流したことがあった。画家は不審に思ったが、彼の身分から姫君に質問することは出来ず、ただその顔を茫然と眺めていた。自分の涙が画布に描きこまれることを恐れた姫君は、彼が見たものを打ち消すようにふいに片頬で微笑んだ。画家はただ、彼女が笑う顔よりも涙を落としている顔の方が美しく見えることを感じただけだった。

 そもそも画家を悩ませたのは、姫君の眉の辺りに微かに表れる光だった。それは実際には、彼女が内奥に秘めた何かしらの不機嫌を覆うために、眉をひそめた時に表れる影と対をなす光芒だった。この眉の顰を描くことが出来れば、あるいは彼は十代の彼女でも描いたかもしれなかった。彼が命が惜しくとも無理にそうしなかったのは、その光を人間の手で作れると思わなかったためだった。彼女が指環のように個人的に所有している自然のなかにふと現れるという過程以外では、その光はこの世に結実しないと画家は確信していた。

 強いて言えば、彼女を不機嫌にすることが出来れば、彼自身の手でその光を作ったと言えないこともなかった。しかし姫君を驚かせたりして、その驚愕が彼女の美を少しでも損ねる形で身体のどこかに、服の皺ほどにでも刻む可能性の方を画家は恐れた。

 姫君が時々眉を顰める時があることを生前に知っていたのは、この画家だけだった。それほど彼女は唐突に倒れたように見えた。ある時姫君は毒をあおって、自室のベッドに横たわったまま息を引き取っていた。画家はいつもの通り彼女を描かないために彼女の部屋を訪れ、彼女が自分という自然を叩きつけて壊した結果を発見した。

 侍女たちの嗚咽や悲鳴によって、彼はようやくそれが彼女の死なのだと理解できた。死してなお何かの蒼ざめた結晶のように見えるその肌や表情を見て、彼は姫君が似合わない化粧を施したかのように感じるばかりだった。また、死に堕した肌をみて初めて彼は「描ける」と実感した。

 王様とお妃様の嘆きは限りもなかったが、画家が姫君の絵を完成させたと聞いて大変に喜んだ。彼らはもちろん生前の娘の面影を望んだ。またとうとう画家が、姫君の美しさを自信を持って写し取れたということを聞き、彼らは自分たちが見ることを望む現実が、彼の筆先に宿っていることを期待した。

 果たして仰向けに倒れている、死してなお生けるように美しい姫君の肖像画が披露された。お妃様は悲鳴も上げずに失神し、王様は沈黙したまま絵から目を背け、画家の頭の上のある一点を睨んでいた。

 誰もが、画家が処刑されることを想像したが、寛大な王様は彼を折檻さえしなかった。画家は王様を見ることも忘れて、自分が細心の工夫を凝らした姫君のなお微かに血の透けた頬、まだ色の褪せない唇の辺りを、己の満足のために眺めていた。王様は彼に向かって言った。

「率直に言ってこの絵は私が満足するには足りない――やはり娘の美しさを絵に写し取ることなど不可能なのだ」画家は自分の描いた唇から名残惜し気に目を離して、王様を見た。

「もはや絵にも娘の姿を見ることは叶わない――それならばナスターシャのいる天国の絵を描いてほしい。優美な天使たちの遊ぶ天国の絵を見て、現実に娘の幸福を見ることの代わりとしよう」画家は承諾した。この命が下ってから、彼は自分の家に戻ることを赦されず、お城に閉じ込められて天国の絵を描かされることになった。彼は絵が出来るまではと言って、水も食事も与えられず、排泄する場所も限られ、まるで囚人のような生活を送った。この間、密かに彼の妻は殺され、幼い三人の息子と娘たちが捕縛された。子供たちはお城で、綺麗な衣装と豊富な食事を与えられ、しばしの間幸福な生活を送った。

 画家は疲労困憊し、どうしても自分の納得する絵が描けないと悩んだ。天使の絵を描こうとすれば、生前にみたナスターシャ姫の面影が浮かび、あの自然の生み出した傑作に比べて、己が天使のみすぼらしいことに絶望を感じてしまう。天国に咲く草花や小鳥の姿にもどこか欠損を感じ、このように褪せた自然が姫君を包む衣装であっていいはずがないと思い、一向に筆が進まなかった。ある日王様が、画家の苦労を察するように、彼を部屋から引き出し、たっぷりと水を飲ませて言った。

「お前はかつて子供の頃の私に言っただろう。お前が人物画をあれほど上手に描けるのは、目の前に実物がいるから、完璧な自然である人間が立ちはだかって、画家の余計な想

像力を排除してくれるためだと――」そう言い、白い木箱を画家の目の前に出した。それは羊一頭ほどが入りそうな大きさだった。

「やはり実物がないと描けないだろうと思い、準備をしておいたのだ――」

 王様がそう言うと、お付きの家来が早速箱に打ち付けられていた板を壊しにかかった。板が剥がされると、中から小舟のような形の箱と、そのなかに座らされている三人の子供たちが出てきた。彼らは一様に口に布を噛まされており、綺麗な衣装には縄目が食い入っており、目だけで叫ぶようにものを言っていた。夥しい裏切りが、彼らの瞳のなかに筋目になって残っているかのようだった。

「眺めながら、描くのだ」

 そう言って、王様は舟のなかに黒い油を並々と注ぎ入れた。それは余りにも夥しかったため、舟から溢れて舟底を濡らした。兄弟のなかで最も幼い弟は、舟の模型が水中に出たかのように喜び、縛められた手を伸ばそうとし、幼い姉が触れてはいけないと制した。それが画家の見た生きている子供だちの最期だった。彼らを浸した黒い油に松明に灯された火が触れた。画家は悲鳴も上げずにその光景を見た。

 舟は木製でよく燃えたが、天国へ行く舟を模しているらしく宝石が付けられ、それを包んでいた箱の天井に触れるような天蓋までついていた。その天蓋から垂れ下がる布、舟に打ち付けられた宝石などが炎のなかで閃くように輝き、子供たちの悲鳴を覆うようだった。画家は子供たちの悲鳴を聞くでもなく、ただ穴の開いたような目で、じっとこの光景に煙に包まれていく様子を見守っていた。

 わずかに何か言いかけた声のように伸ばした手は、子供たちを助けようとしたものにも、またその中に閃く灼けた宝石を掴み取ろうとしているようにも、どちらとも区別のつかない状態で突き出されていた。

 やがて子供たちが焼け終わると、彼は眼窩から目をこぼしてしまうように、片目からごぼりと涙を一筋落とした。この光景をみて彼が示した生き物らしい反応はこれきりで、彼は確かに悲劇が起きていることを理解していたらしく見えるのに、叫び声も上げなかった。

 また彼自身は縛められてなどいなかったのに、目の前で焼かれる子供たちに一歩も近寄らなかったことが、王様の残虐さ以上に彼の残酷さとして評判になった。

 その日のうちに彼は自室に戻り、一息に天国の絵を描き上げた。彼は業火から逃れようとし、狭い舟のなかで身を庇い合い、助かろうとする子供たちの表情に、本物の天国が映るのを確かに見ていた。そしてもう片方の目から涙を落とし終えるように、地上で見られるなかで最も完璧に近い天国の幻を、絶望に打ちのめされているがゆえに、余計な想像力の拭われた筆で写し取り終えると、彼自身もまたその桃色の幻のなかへと旅立った――』



「そうして彼らはみんな、幸福になりました」

 そう言い、イワンはいつもと同じ締めくくり方をしてノートを閉じた。

「いいかいアリョーシャ、だから天国なんていうものを手に入れることは、」

 イワンがそう言った時に、アリョーシャの片方の目から、涙が玉になってぽろりと落ちた。イワンは、それまで自分がノートの上に広げていた想像の涙に比べて、弟の涙がガラスのように硬い表面を保ったまま頬を滑り落ちるのを、軽い驚きとともに見つめた。現実は常に、彼が想像に描いたものより少し硬く、他者に侵されないだけの明瞭な輪郭を持っている点が異なるようだった。

 しかし彼が手を触れていないアリョーシャの涙の玉には、イワンが文章によって描いた百の暴力の影がずらりと並んでおり、アリョーシャが瞬いたことで、彼の身体から抜け落ちたようにイワンには見えた。

(これしか、方法がない)

 彼はそのしるしを自分の犯罪として眺めつつ、手のなかにあるノートの端を握りしめた。

(アリョーシャが家で大人しくしているためには、これ以外に何の手だてもない。もう手だては尽くした)

 イワンは再びクルミの欠片をつまんで口のなかに入れた。微かな咀嚼の音が部屋のなかに響き、彼自身が習慣に戻ったことを表した。

 それからなお、アリョーシャの目は暴力の影のない透明な涙を何滴か落とした。

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