第八章 イワンの友達

 ミハイルは鞄を抱えて、当てどなくぶらぶらと歩いた。学校をさぼってこんな風に道をうろつくということ自体、それまでの彼にはあり得ないことだった。彼は知り合いに会うことを恐れつつも、麻痺したような頭をもって人通りの多そうな街へと続く道を歩いた。森のなかへと歩いていけば、まだイワンと、彼に焼き殺されるために横たわる自分の姿に会いそうな気がした。

 列車の通る駅周辺に来ると、駅のホームの端にイワンの姿があるのを彼は見つけた。大人のように帽子をかぶり、外套を着て見慣れぬ格好をしてはいたが、襟からのぞく白いうなじや耳に上る微かな血色が、それが変装している子供であることを知らせていた。

 イワンは線路を眺めて何か考えているようだったが、彼を見つめるミハイルに気づくと、「ミーシャじゃないか、」と快活に声をかけてきた。ミハイルと違い、彼は学校の外にいても何も苦しまない生理を持っているようだった。

「こんな所で何をしてるんだよ、さてはさぼりだな、」

「自分こそ、」と言ってミハイルは思わず笑った。そしてイワンが快活に差し出す手を取って、ホームに上がった。彼はイワンに焼き殺されそうになった後で、何と言ったらいいのか想像することも出来なかったが、こうして明るく差し伸べられた手を取った時、ミハイルは彼との関係を新たに創造できるのだと感じた。

 この時見たイワンは、ミハイルが見て驚くほど透明度の高い明るさに満ちていた。数日間、ミハイルが机に座って苦しみ続けたのと違い、彼はどこか違う場所で別の主題に取り掛かっているらしいことが、ミハイルに柵を乗り越えさせようと差し伸べる手や、一挙手一投足に滲んで表れていた。

 イワンにとっての主題が決して自分にならないことは、ミハイルには当然のこととして受け取れた。そのことは苦痛の種にもなったが、こうして救済にもなり、他方でそれは多少苦かった。

 ミハイルはイワンの横顔を見て、彼なりに確信のある推測を言った。

「何を待っているのさ」

 イワンはミハイルに差し出したリンゴの実をともに齧りつつ、彼の推測が当たったことを知らせる沈黙を守った。「友達、」

 出し抜けにイワンがそう言った時、ミハイルの胸に微かに出血のような痛みが滲んだ。イワン・カラマーゾフに友達などというものはなく、あるとすれば自分のみで、アリョーシャのことを知っているのも自分だけだ、という自負は、今やミハイルにとっては試験の点数以上に重いものになっていたが、それが無残に破かれたのだった。

「友達って、僕らのなかの誰かなの?」

「さあ――、ずいぶん歳が離れているから。きみらの誰とも知り合いではないだろうな――知らないけれど」

 やがて彼らの前に列車が止まった。降りてきた乗客のなかから一人の長身の青年が近づくのと、イワンが青年のもとに駆け寄るのとが同時だった。イワンは青年に近づき、大人の談笑のような快活な握手をした。青年は二十四、五歳ほどに見え、癖のある赤毛の髪が帽子から覗いていた。

 彼がミハイルに気づき、イワンに何か尋ねたらしく、イワンが肩越しにミハイルを振り返った。ミハイルはイワンが全く青年の側に立って、彼方から自分を顧みるのを悲しく見守った。

 青年は豊かな笑みを目の縁に湛え、イワンの身体を陽気に押しのけてミハイルに近づいた。「エゴールだ、よろしく」

「ミハイル・カラムジンです」

 ミハイルはまるで泥棒したものを差し出すように、おずおずと自分の名前を名乗った。彼はエゴールが、学校の教師や彼の両親と違い、自分を子供だという理由でむやみに罰したり、脅したりする態度がみじんもなく、初めから友人として近づこうとしている態度に怯えた。

 イワンは彼の怯えを、あえて見るまいとするように顔を背けていた。

「きみも何か言えよ」

 とエゴールがイワンに向かって笑いながら言った。

「ミーシャ、彼は俺の友達」

 イワンは不貞腐れたように外方を向いたまま呟いた。どちらがどちらに紹介されたものか、その場にいる誰にも伝わらなかった。エゴールは快活に笑い、

「ワーニャ、今のはおれにも分からなかった」

 と言ってイワンの背中を叩いた。ミハイルはエゴールの振る舞いを恐る恐る見つめ、彼らの群れに加わろうとして、自分でも正体の分からない微かな笑いを吐いた。

「見ても分からないだろ、」イワンはエゴールから受け取ったメモを覗き込んでいるミハイルに向かって言った。ミハイルはエゴールがホームでの別れ際に言った「ミーシャ、きみも殺人鬼の情報でも知ってたら教えてくれよ、ワーニャの友達ならいつでも歓迎する」という言葉を反芻しつつ、その走り書きのメモの内容を読み取ろうとした。

「英語?」

「そう、あの人はそっちの方が楽だというんだ、書く分にはね。ロシア語はどうも速記には不向きらしいな」

 そう言うと、イワンはそのメモを惜しげもなく手のなかで丸めた。ミハイルが小さな悲鳴をあげると、イワンはたしなめるように言った。

「持ってたらいけないんだよ、後で燃やす」

 そう言い、自分が『燃やす』という単語を口にしたのに気づいて、

「あの時は脅かして悪かったよ」

 とメモでも破り捨てるように簡単に笑った。

 それからイワンは、彼が学校を休んでいる間にしていることについて喋り出した。

 彼らの上には晴天が広がり、列車が規則正しく乗客を吐いてまた去った。彼らの群れのなかには時折、こんな時間にひまを潰しているらしい少年たちに冷たい視線を送る者もいたが、ミハイルは今やそうした視線の前に、イワン・カラマーゾフが立ち塞がっていることの喜びを感じていた。

 ミハイルは単独で埒を離れることに、自分が心細さを感じる人間だと知っていたが、イワンがこうして埒の外に平然としていられる人間だということを知って驚いていた。イワンはさぼりだな、と言ったが、彼自身は自分の本来の務めを、学校通いだとは感じていないらしく、その頬には彼が今仕事についていることを表す緊張の色すらあった。

 イワンが言うのには、エゴールはペテルブルグに住む新聞記者で、こうして時折列車に乗ってこの地方に来る。大抵は何か別の用事のついでだが、時折は本当にただイワンに会うためだけに来るのだという。

 彼らを結びつけたのは、イワンがかねて新聞に行っていた投書だった。エゴールは何度かこの投書を読むうち、その書き手であるカラマーゾフ氏に興味を持ち、個人的な質問を含めた手紙を送った。

 受け取り手であるイワンは、エゴールの真情からくる敬意あふれる文面に接し、世のなかで初めて、自分のことを自分が見るように見てくれる他人が現れたと思った。彼のことを神童だという教師は数多くいても、それは彼以前にいた神童に見劣りしないというだけの評価で、イワン自身が内心抱えている煩悶までを見抜いてくれる他人はいなかった。

 エゴールの書き送ってきた質問は、イワンがそれまで誰にもしなかった告白の核心をついたものであるようにさえ感じた。イワンはこの時初めて、他人の知性を畏怖した。

 実際には、エゴールの手紙は子供を脅すようなものではなく、丁重な質問者の文体を持っていた。イワンはまず、この質問者の誠実さに対等でありたいと願い、エゴールへの返事で、自分は彼の想像するような読者ではないこと、一地方に住む中学生に過ぎないことなどを明かした。その上で、当時紙面を賑わせていた強盗殺人事件に対し、彼がその不幸な生い立ちを持つ犯人に個人的な同情を寄せていることを吐露した。

 また投書にはしばしば、彼自身の考えとは異なる意見も書いたこと、本心としてはむしろ犯罪者たちに心が惹かれること、密かな友のようにも思えること、しかし彼らの方が自分のような者と友情を結んでくれるとは思わないが― ―ということを、親しい友人に打ち明けるように書き記した。イワンはそれまでに友人というものを持たなかったが、単にエゴールに会わなかっただけのことのように彼には思われた。

 手紙への返事の代わりに、エゴールが列車に乗って彼に会いに来た。イワンはそれまで持ちえなかった友情というものの姿を、この風変わりな青年の姿で見た。それはこれまで肉親から無視され、放置されてきたイワンに初めて差し伸べられた、彼自身と結びつこうとする他人の手だった。イワンは彼の生活に差し込んできた、この光明のような手を堅く握ろうとした。

「放っておけば坊主にでもなりかねない奴なんだ」

 エゴールは自分の友人に引き合わせる時、イワンのことをそんな風に言ったりした。

「だから世の中に出すまでは、おれがこうして見張っているんだよ」

 イワンは半ば強引に連れられ、半ば自ら期待しながら、エゴールの友人たちの間に交友関係を広げていった。エゴールの予定に合わせるため、彼は学校を抜け出さざるを得ないこともしばしばだった。学校生活のなかで、ある程度の行動の自由と、教師の信頼を勝ち取っておくために、彼は少ない時間のなかで一層勉強をする必要に駆られた。

 彼のそんな苦労をみても、大人であるはずのエゴールは平気でこう言うだけだった。

「学校がそんなに煩い所なら、辞めちまえばいい」

 イワンはこの友情に慣れた。それから同級生たちからはあらゆる面で遠ざかった。

 エゴールはしばしば、周囲の大人たちに先に話題を提供し、反応を見た後で、密かにイワンに向かって「どう思うか?」と尋ねた。イワンが意見を述べると、時折はただ感心したように笑って頷き、時折はさらにいくつかの質問をした。彼が本当にその意見を気に入った時には、人前に出て行って「ワーニャの言ったこと」を披露した。

 エゴールはこんな繊細な親切さで、ただの秀才の田舎中学生のイワンに、彼の助けとなるような人間関係を作らせようとしてくれた。

「初め、彼が憎かったぐらいさ」とイワンは笑った。

 他方、庇われている彼自身、自分で足場を作らねば、エゴールがいかに親切に引き立てようとも、大人と友達になどなれないということは理解していた。エゴールはイワンのそうした緊張をすら見抜いて、彼に最大の贈り物をした。

「目撃者」という筆名がそれだった。

「目撃者、だったら何も問われることはない。きみはただ目撃しただけなんだ。イワン・カラマーゾフであることを世間に明かす必要はない、ただきみ自身が稀有な素晴らしい目であることを隠さないだけで、それだけで世の中の利益になるとおれは信じている」

 イワンは友情を持ったことがなかったが、初めて宝石を手に入れた人がその磨かれ方に驚くように、このきめの細かい思いやりの姿をみて、殆ど恐れにも近い感動をした。エゴールの友情の本質が、この言葉に表れているように感じた。

 他方、何がエゴールを自分に対してこうまでさせるのか、それがこの理屈っぽい少年の関心のたねとなった。まずイワンが思い当たったのは自分のいる境遇だった。もし都会の、富裕な家庭に留め置かれている子供であったなら? 

 こうは彼の友情の恩恵にあずかれただろうか?

 彼はエゴールがアリョーシャに過剰な関心を示すのではないかと警戒し、わざと彼を伴って会ったこともあった。しかし、これは双方が互いに殆ど関心を示さないという結果に終わった。イワンにとって、最も嫌な仮説が否定された後で、彼はようやくこの素晴らしい友人の仕事に関わることを承諾した。

「子供だから入れるような所もいくつかある、」とイワンは鼻で笑った。

「主にエゴールの目の代わりさ。子供だから役に立たないというわけでもないぜ、その逆が起こりえる。人の口も軽くなるしな。彼の指示する通りにして調べたことを『目撃者』として書き送るんだ。あっちじゃ、『目撃者』の正体は記者のエゴールらしい、ということすら奇妙な噂として語られているらしいが、実際には田舎の中学生だというわけだ。エゴールの道楽だよ」

 そう言って、イワンはポケットから出した紙幣を一枚、ミハイルの鼻先に付き出した。

「やるよ、」

「何だよ、要らないそんなもの」

「カラマーゾフが学校をさぼって新聞記者のまねごと、これだって立派な情報だ。病気で倒れているわけでも、哀れな弟の世話のためでも何でもない、ただ俺自身のための時間というわけさ。言いつけるんなら、きみに金をやって防ぎたい。これ一枚きりじゃ足りないか」

 ミハイルは彼の手から紙幣を毟り取ると、それをくしゃくしゃに丸めた。

「なんだ、要るのか要らないのかどっちなんだ」

「あとで燃やす」


 イワンは自分の言った言葉を聞いて吹き出した。彼らの前に再び列車が来て、イワンが息を殺す気配がした。

「降りて来る人間のなかに、車椅子に乗せられた老婦人がいたら教えてくれ」

 その列車にはイワンの言ったような乗客の姿はなく、彼らは再び沈黙を共有した。

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