第四章 アレクセイ・カラマーゾフ

 Алексей Карамазов(アレクセイ・カラマーゾフ)

 ミハイルはその名前もまた、ノートの上に書き出した。彼が机上に広げているノートの白紙のページには既に、夥しいイワンの名前の墓があった。ミハイルは今度はイワンの弟の名前を付け加えなくてはならなくなった。棒線を引いて塗り潰してしまう前に、ミハイルは「それが何者の名前か」を検討しようとした。

(あれがイワンを、強くしているもの……)

 ミハイルは、瞼の裏の淡い光になっている、アリョーシャの柔らかい果実のような横顔をもう一度想像した。その名前を綴るのと、その半月のような横顔を思い描くのは、彼のなかで手触りが似た行為だった。あの鋼のようなイワンを強くする作用が、あの頼りなげな半月から出るとは想像し難かったが、今やミハイルはイワンの主張を信じるより仕方なかった。

 イワンが話したところでは、ただ優等生であることで得る賞賛や中傷――「それら全て」より、アリョーシャ一人を抱えているために得る負担の方が遥かに大きく、また彼を強くするというのだった。

「きみにアリョーシャがいないことなんか、一目瞭然だ」と、イワンは宣告するように言った。実際、ミハイルにいたのは、既に亡くなってはいたが優しい兄だった。

強いて言えば、彼にいた悪魔といえばイワンだった。しかしもしそう言えば、イワンは『自分はきみに影響を与えたつもりなどない』と笑って言うだけに違いなかった。ミハイルはイワンに何も言い返せなかった。

 ミハイルは「アレクセイ」という文字を綴りつつ、そのか細い文字があのイワンを苦しめている悪魔の名前だという現実を、どうにか理解しようと努めた。しかしその名前によって彼の脳裏に浮かぶのは、彼が現実に見たアリョーシャの、半ば病人のようにベッドで眠っている姿ばかりだった。

 イワンはその時、ミハイルに家では説明しなかったことを話し出した。

 アリョーシャ、つまりアレクセイ・カラマーゾフ、彼の溺愛する(しているように他人から見える)弟は、彼より三つ下の九歳で、彼とともにポレノフ氏に養われている、父親はいるものの死別によって母親を失った哀れな子供ということだった。彼がアリョーシャのことを話し出した時、ミハイルは早々に「あの子は病気なの?」と尋ねた。そう言ってすぐ、自分の態度を不躾だったと後悔したが、意外にもイワンは顔色も変えずに「まずそうみて間違いない」と言った。

「まず、あいつは自分の名前が書けない」

「書けないの? 九歳なのに?」

「そう、アレクセイ、までは何とか辿り着く。ただカラマーゾフ、が覚えられない。長すぎるんだろうな」

 ミハイルは後に気づいたことだったが、イワンは冗談を言う時、わざと真剣な表情を崩さないことが度々あった。

「その長すぎる名前の他、数を数えることも覚束ない。何個のクルミを盗んだのか、勘定もしていないだろう、だからどれほど叱られるのかが想像できない」

「……きみが、教えてやらないの?」

「さんざん言ったさ、そうして方針を変えた。『俺に数えてほしいと言え』と」

 取ってほしい物、書こうとしている言葉、数を数えたい物、そんなもの俺が代わりにやってやれば済む。そのことは理解した――でも一番重い病気が治らないので困ってる、と彼は言った。

 キョウシュウビョウ、とミハイルは鸚鵡返しに言った。イワンは黙って頷いた。「『郷愁病』と俺とポレノフで勝手に言ってる。あれはもう病気とみていい。昨日はどこへ行ったのか、ときみはさっき言っただろう。教えてやるよ、アリョーシャの家出を手伝ってた。あいつの健康のために」そもそも、彼らの生家はこの近くではなかった。彼は「家畜追い込み村」というようにも聞こえるような、奇妙な村の名前を言った。

「冗談と思うかもしれないが、本当にそんな名前なんだぜ」彼らは幼い時、アリョーシャとともにその家畜追い込み村から、ポレノフ氏の家に引き取られてきた。

「実家に金がないわけじゃなかった、親父はいくらかの領地を持ってる。だが母親がいなかったんで持て余したんだろう。多少の金と一緒にあの家に来たってことは知ってる。それが段々と減っているということも」

 イワンはポレノフ氏に預けられるにあたり、養育費は豊富に与えられていた。物覚えがよく、幼い時から非凡な才能を発揮した彼は、氏に手を引かれて、名門と言われる私立の学校に通うことになった。その学校の名前はミハイルも聞き覚えがあった。

「入学試験の成績が良かったんで、それから三年してアリョーシャが入る時には、イワン・カラマーゾフの弟が来るって言われたぐらいさ。俺に教師が言ったよ、『イワン、今度うちにアリョーシャ・カラマーゾフが入って来るのを知っているかい』『わが校に二人のカラマーゾフを持つ幸運があった。僕らは、きみのスペアを見つけたわけだ』って ……」

 しかし当時、アリョーシャはイワンがいくら教えても、文字を書くことすら覚束なかった。一行の文字を書くのでさえ、恐るべき緩慢さで進み、時折答えを探るように兄の表情を伺うような状態だった。

 叱責する代わりに、イワンが彼の手を取って教えようとすると、意外なほど強い力で振り解いた。それから文字とも何ともつかない、彼自身の鼻歌のような筆跡をノートの上に書き散らすのだった。仕方なくイワンが手本を書いて示すようにすると、アリョーシャはそれを穴の空くほど見つめ、理解の喜びを目に溜めてイワンを見返した。

 それから程なくして、彼の隠れた才能が発見された。彼は手本を真似ることだけは喜んでやったが、文字を記号として模写するだけでなく、他人の筆跡を完璧に写し取ることが出来た。

 しかし、アリョーシャに自分が書き写した言葉の意味を理解させることは不可能だった。アリョーシャにはあらゆる文字が、意味を帯びない絵として見えているらしかった。

 イワンは奮闘の末に、弟がどのような世界に生きているのかを理解した。

 入学試験の日、戻ってきたアリョーシャはまるで排泄でもしたような、実に晴れ晴れとした表情をしていた。彼が試験で何をしたかは、その表情を見ただけで明らかだった。

「アレクセイ、帰ろう」

 イワンは、こんな風に弟と手を繋ぐことに、この時既に慣れていた。

 後日「イワンの弟」を諦められなかった教師は、イワンに対して、彼が終生忘れられない言葉を言った。

「きみは弟の身代わりを寄越したのか」

 彼はそう苦情を言ってなお、イワンに『忠告』を続けた。「きみの家には相当の財産もあるんだろう、彼は学校というより、家庭教師をつけてやった方が彼のためじゃないのかい」

「もしアレクセイにそれが必要なら、僕が彼につきます」とイワンは断固とした調子で言った。

「もしアレクセイと離れなくてはいけないのなら、『学校』は僕にとってますます不要なものになります。またあいつにこそ『学校』が要るんだということも、僕は親戚と話をして理解しています。彼がここに来られないというのなら、僕があいつの行く学校へ行きます」

 この言葉によって、アリョーシャの入学が特別に認められた。特別な生徒一人を失うより、特殊な生徒一人を例外として入学させる方が、学校にとって損失は大きくないという判断だった。

 その学校でのアリョーシャの値打ちは、入学試験のわずかな点数と、イワンの弟であるということを合わせたものだった。それは他の生徒一人の値打ちに少し足りない程度だった。

 彼は初めから教室にも入れられず、空き教室に留め置かれていた。イワンが帰ろうと声をかけるまで、アリョーシャは一人で絵を描いて過ごしていることが多かった。

 ある時、事件が起こった。生徒の一人が外套のポケットに入れていた小銭がなくなり、荷物置き場にしていた教室で、絵を描いていたアリョーシャのポケットから小銭が出てきた。アリョーシャは言い訳するほど多くの言葉を持っておらず、何を言われても耳を塞いでいるだけだった。早速イワンが呼び出された。

「誰をかばってるんだ、言ってみろ、」

 とイワンは人前でわざと大声を出した。揺さぶられるごとに、アリョーシャのポケットから涙のようにぽろぽろと小銭が落ちた。その様を見ていた生徒たちの間から笑いが起こった。

 イワンの見たところ、アリョーシャは自分で泥棒をしたのではなく、犯人呼ばわりされている恐怖で竦みあがっているだけのようだった。そもそも、人のいない時を見計らって泥棒が出来るような弟ではなかった。彼は小銭のぶつかる音だけで、驚いてそれを放り出しかねないぐらい臆病だった。

(誰かに嵌められた、たぶん、俺を嫌っている奴がアリョーシャに目をつけた)

 お前じゃないはずだ、こんなこと、とイワンに言われても、アリョーシャは怯えて黙り、何かを否定するように首を横に振るだけだった。

「お前がこんなこと出来るもんか、犯人を言ってみろ、俺が殴ってやる」

 するとアリョーシャは黙って人差し指を上げた。その指は、目の前にいるイワンの鼻先を指していた。周囲にいた生徒がどっと笑い声を立てた。

「ばかなアリョーシカ、何を言われてるのかさえも分かっちゃいない」

 という声が、笑い声とともに囃し立てるように起こった。誰もイワンを真犯人だとは思わず、アリョーシャの愚かさを笑うことで全員の意見が一致していた。

 イワンは溜息をついた。それから「そうです先生、僕がやりました」と言い、アリョーシャのポケットの底に残っている小銭を掬いとり、自分の小遣いの小銭を足して言った。

「これを盗まれた当人にあげてください」

 そういう事件が度重なった。彼らはその度に学校を変わった。

「どこで何があったか、もういちいち全部覚えちゃいない」イワンは低く笑った。

「二週間で変わったところもあったからな。あまりに急だったんで、俺まで主犯格の一人に数えられている所もある。いま、あいつはどこの学校にも行っていない。ポレノフに言ったんだ、せめて俺が認められるまで時間がほしいって。学校は場合によっては『特別な生徒』のために、他の生徒のすることに目をつぶることがあるからな。あいつが何かしても、泥棒ぐらいなら免じて貰えるようになるまで、しばらく時間が要るんだ。

 今の学校に来て、この三か月がそれさ。俺は一番にならなくちゃ意味がなかった。そうでなければ何の特権もない、ということは今までの経験から知ってる。きみがいつも二番にいるのは知ってた。もっともそれが何だという風には考えもしなかったがね。

 アリョーシャを学校に行かせず、ただああして人形のように寝かせておくことに、ポレノフは賛成したよ。俺たちの学費として貰った金を管理してはいるが、もうアリョーシャには愛想を尽かしてる。『いい生徒になんかならなくとも、あの子はただの人間にさえなってくれたらそれでいい』と言うんだ。……無理もないがね、実際、あいつに必要なのは教育の前に治療だ」

 ミハイルはこの話を聞いて、しばらく沈黙した。イワンがなぜアリョーシャを重荷呼ばわりしたのか、何となく事情が?み込めたように感じた。

 しかし、アリョーシャがしたことのなかでも「家出」というものの内容が気になった。それはつい昨日、イワン自ら手伝いさえしたというではないか。

「家出って、きみもついていったんでしょう」

「そうだよ」

「どこに行ったの?」

「あいつの家、『家畜追い込み村』の方」

 そう言い、イワンは口のなかから、石の欠片のようなものを取り出した。それは何かの木の実らしかった。彼らは帰り道の森のなかで、切株に腰を下ろしていたが、イワンはその辺りの木の葉の堆積の上に、自分で噛んでいた木の実の欠片を投げ捨てた。

 神童と呼ばれ、模範的優等生とされている彼だったが、こうしてミハイルが近くで見ると、悪童のような行儀の悪さをも備えているようだった。

「硬いな、」

 と彼は自分で吐いた木の実のようなものに文句を言った。「……あいつが行きたがるところは分かってる。あいつが生まれた家だよ。それも召使の小屋だ。母親が死んでからは、俺たちは召使夫妻に育てられてたんだ。馬小屋みたいなところでさ。

 何を教えても覚えないくせに、あの小屋のことはよく覚えてて、時々帰りたがる。『イワン、帰ろう』って。もうここが家なんだと教えても、分かってるのか、分かりたくないんだろうな。『ここに柱があった』とか、『マルファが薬を飲む日』だとか、俺自身忘れてたようなことまで言うんだ。それで『イワン、あそこに帰ろう』って。

 俺が知らない振りでいたら、夜中に一人で抜け出して、保護されたこともある」

 イワンはそう言い、ポケットから出した木の実を再び口に入れて噛みだした。「だからってきみは……学校を休んで連れていってあげてるの」

「そう」

 イワンは木の実を歯に咥えたまま言った。

「列車に乗って……ここからだと行くだけで半日はかかる。とても学校が終わってからなんか連れていけないから、仕方ないんだ。あっちに行っても、遠くから家を眺めるだけだよ。あんまり頻繁に行ったりして、養家から逃げてきたなんて思われても面倒だしな。もちろんポレノフには事前に全部言ってある。小遣いだってくれるさ。『あの子がぐずりだしたら、これで口を塞ぐものを買ってやれ』……。

 安いもんだよ、あいつがもめ事を起こすより前に、あいつが見たいものを見せてやるだけで済むんなら、その方がずっといい。時々そうしてやらないと、ああして川に落ちたり、泥棒を働いたりするんだ。もし頭がまともなら、不平や不満を言葉にしそうなものだけれど、あいつはそうじゃない。

 この頃、俺が勉強や何かで構わなかったから、鬱憤が溜まってたんだろ。よく眠る時は却って危ないんだ、何かしでかそうとする時、決まってあいつは大人しく眠るようになる。身体を休ませるのと、俺たちを油断させるためだろうな。そういう、動物みたいな知恵はついてくるくせに、一向に人間らしくはならない」

 そう言い、イワンは自分の口から出した木の実を前方へ投げた。それは木の葉に隠れた石に当たって乾いた音を立てた。イワンは苛立っていた。しかし彼の癖になっているらしいこの仕草も、ミハイルはアリョーシャの前にいる時のイワンからは想像がつかなかった。弟を本人の前では厄介者と呼ばないのと同様、彼はアリョーシャの前では、こんな微かな暴力すら隠蔽しているのではないか。……

 イワンはふと「でもいつまでこうしていられるか」と言った。ミハイルは呆然と、イワンが投げた実の放物線の跡を眺めていて、意識を呼び戻された。

「この学校にだって、いつまでいられるか分からない。ああして学校に行っていなくても、泥棒騒ぎなんか起こしてるんじゃ、また近所の噂になって、この町にも伝わってくるかもしれない。今までがその繰り返しだった。ようやくカラマーゾフの兄弟を知らない、こんな遠くの学校にまで逃れてきたっていうのに、あいつがあんな調子じゃ、いつまた学校を変える羽目になるか分かったもんじゃない」

(あの子が消してくれる、イワン・カラマーゾフを)ミハイルは歓喜に胸を躍らせつつ、アリョーシャの名前をノートに書いた。それは新しい、イワン・カラマーゾフの名前の墓だった。彼は期待と悦びの表れた筆跡で、ページいっぱいにアレクセイ・カラマーゾフの名前を書き連ねた。

(ずっとそうだった、他の人もみんな、ずっとその方法で成功してきたってことだ……みんなアリョーシャに目をつけて、あの子に問題を起こさせることで、イワンを視界から消してきた。

 最初に思った通りだ。あの子は優しい、天使だった。イワンにとっての悪魔、腫物。あの赤ん坊のような優しい目、あれは僕が手にしていい宝物だったんだ。

 見ていろイワンめ、僕がきみに勝てなくたって、きみ自身に弱点がないというわけじゃない。僕がやらなくたって、あの子に消してもらえばいい。二人で一緒に、どこにでも行けばいいさ。僕の目の前から消えていなくなってしまえ)ミハイルがページをめくると、そこには以前に書きつけていたイワンの名前が一つあった。彼は快活にイワンの名前を二重線で消した。あとは習慣で、見えなくなるまで黒く塗りつぶした。

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