第3話 異物紳士

 その人が来た時は、すでに夏の盛りだった。

 シグルドたちの住まう川原にも草が生い茂っていた。

 その草に半分埋もれるようにしてシグルドとエステルの住まうテントはあった。

 草原の遊牧民が使うような大きなテントである。

 ちょっとした、小屋くらいの大きさがあった。

 この中にいくつかのベッドと錬金炉を運び込んで、エステル=メイジは細々と医業を営んでいるのだった。

 だから、その紳士が来たのも患者としてである。

 早朝のことだ。

 ちょうどその時錬金炉(アタノール)に鍋をかけ、ソーセージを茹でていたエステルは急に頓狂な声を上げた。

「あらら」

「どうしたのエステルさん?」

 すぐ隣に座って剣の手入れをしていたシグルドが怪訝そうに尋ねた。

「いえ、多分もうすぐお客さんが来ますよ」

 その声はどこか弾んでいるようだった。

「なんで分かるの?」

「腸占いですよ。このソーセージが私に運命を囁くのです」

「腸占いって、動物の腹を裂いて、腸の形で未来を占うっていう…」

「ええでも、私くらいになるとソーセージでもできちゃうんですね。これが」

 エステルは、胸を張り得意そうに言ってのけた。

 シグルドは胡散臭く思ったが、ほどなくして本当に客が来た。

 テントの入り口に吊るした訪問を知らせる鈴の音が響き、エステルが迎えに出た。

 シグルドの目には、彼女の肩越しに一人の男が立っているのが見えた。

 身なりのいい男だった。

 資産家か、あるいは貴族様なのかもしれないなとシグルドは思った。

 草をかき分けて来たのだろうその高級そうな脚衣が朝露にぐっしょり濡れていた。

 白いサテンのプールポワンもところどころ土で汚れ、草の切れ端がはりついている。

 しかし紳士は衣服のことをまるで気にしている風はなかった。

 ただその顔に苦悶の表情を浮かべるばかりだった。

 顔色は青ざめ、額にはすごいほど脂汗が滲んでいた。

 男はエステルの姿を認めると、ためらうことなく草の上にひざまずいた。

「おお、占星医術師エステル=メイジよ。どうか取り除いて下され。この私の苦患(くげん)を」

 エステルは泣き出しそうな男の頬にそっと手を触れた。

「もう大丈夫ですよ。さぞお辛かったでしょう」


 そして、その日のうち手術が行われ、男の肛門からは異物が取り出された。

 禍々しい毒蛇のごときそれは、エステルが手にした皿の上に蟠(わだかま)ると、大人の手で拳三つ分ほどの塊となったのだった。


 このごろ巷で流行る病は、鉛中毒と尻の穴に異物が詰まってしまうビョーキだった。

 ほとんどは、繊維質の何かが腸の奥深くにまで入り込んでしまう症状である。

 それが正確には何なのか、どんな数奇な運命を辿ってそこに存在(あ)るのかは杳(よう)として知れない。

 医者がそのことを問いただしても、患者たちは一様に口を噤(つぐ)んでいたからだ。

 ただ、一般にそれを取ってくれと、医者の許を訪れるのは裕福な階級に属する者たちだったので、いずれ贅に飽いたやんごとなき方々が倒錯を追及し、風雅(みやび)に興じた結果なのであろう。

 このテのアホにかぎって世間の目を気にするものだ。

 だから必然、裏社会の闇医者紛いを頼ることになる。

 例えば、エステルのようなである。

 対するエステルの方は、大喜びであった。

 ―なんて素敵なカモ。

 そんな紳士に対する想いが隠し切れずその表情に表れていた。

 普段は、大八車でかき集めても、ひと山幾らにもならない患者ばかりを相手にしている。

 それをあちらからお越しいただけるだけでも有難いのに、大抵は口止めの意味も含めてたんまりと報酬をもらうことが出来るのだ。

 自然と口元も緩んでしまう。

 一方、面白くないのはシグルドであった。

 それは、いつまでもこの男がテントの中に居座っていたからだ。

 エステルによれば、術後の経過をみるために、二週間程度の入院が必要だということだった。

 勿論その間には、別途入院費が発生する仕組みになっている。

 元々、神経質なところのあるシグルドである。そもそも自分たちの暮らす家に患者が居るという状況が落ち着かない。

 それに、とりわけこの紳士はいけ好かなかった。

 別に嫉妬しているわけではないが、エステルがあんなに上機嫌なのが、この男のことを

 想ってであると考えると、何故かもやもやした気持ちが胸の内にわいてくるのだった。

 ―畜生。

 だから、シグルドは、紳士を空気のように扱うと決めた。

 無視(シカト)である。

 こちらから、話しかけることなど絶対にない。目が合えばすぐにそっぽを向いてしまう。

 それが、シグルドの自らの心を守る流儀だった。

 しかし、あちらから話しかけてくる分にはどうにもならない。

 それは、エステルが、大八車を引いて行き倒れに救いの手を差し伸べに行っている時のことだった。

 紳士と二人きりでテントの中に取り残された。

 さあ、絶望だ。

 なにか良いクエストでもあれば、外出の口実にもできるのだが、エステルに地下ダンジョンへ行くことを止められてから、他にシグルドの嗜好に合った求人もないのだった。

 仕方がないので好きな本を読んでこの気まずい時間をやり過ごすことにした。書物の世界に耽溺することで紳士の存在を頭の中から追い出そうという作戦である。

 その時だった、

「君は、勇者本が好きなのかい」

 どきん。

 シグルドは咄嗟にその書物を手で覆い隠した。

 病床の上にうつ伏せになって、尻だけを突き出すように寝ていた紳士が不意にシグルドに話しかけたのである。

 優男風の外見に似合わぬ太くダンディーな声であった。

 恐る恐る紳士の顔を窺いみると、その顔に微笑が浮かんでいた。

 それを見てかっと全身の血が熱くなる。

 羞恥と怒りがないまぜになった感情が胸の内で煮えたぎった。

 シグルドにしてみれば裸を見られたようなものだ。

 それぐらいこの本は、シグルドの心の柔らかい部分と繋がっていたのである。

 ―勇者本、それは一群の書物に冠せられた呼称である。

 かつて魔王フグリースを倒し、世界に平和を齎した歴史上の勇者ティンガス=ド=ホークェ。その活躍を虚実織り交ぜてケレンミたっぷり、ちょっぴりエッチに描いた物語を一般にそのように呼んでいた。

 つまりライトノベルである。

 その俗悪で煽情的な内容が青少年の心を鷲掴み、常に一定の支持を得ているジャンルであった。

 冒険者の中には少年時代に勇者本を読み、感化されたものも多い。

 何のことはない。シグルドもそのうちの一人なのである。

 自分の根っこ、いわば魂のふるさとはそこにあると彼は思っていた。

 それを嘲笑われたような気がしてシグルドは腹が立ったのである。

 シグルドは、今度は真正面から紳士をにらみつけた。

 このとき初めてこの人の顔をちゃんと見たような気がした。

 男もまたうつ伏せの状態で、左の頬を病床にくっつけたままシグルドの顔をうち眺めていた。

 そんな状態でもわかるほどに。紳士は整った顔立ちをしていた。

 美男の部類に入る。

 肌が白い。

 年の頃は中年であろうが、張りのある皮膚であった。

 傷やシミはおろかほくろの一つもない、白磁のような肌だった。

 男は鬚(あごひげ)を蓄えていた。

 しかし、男性的な印象は希薄だった。

 かと言って女性的というのとも違う。

 どこか無機質な感じのする容貌であった。

 男はまだあの微笑を浮かべたままだ。

 しかし、笑っていても、そこに生々しい感情が感じられないのである。

 不気味な男であった。

 特に目が怖い。

 彫りの深い顔に大きな目が嵌っている。

 空虚なその眼差しは、何も見ていないようだった。

 昏い深淵のようなその瞳に、魂まで吸い込まれそうだった。

 爬虫類。

 人形。

 紛い物。

 人によってはそんな言葉でこの男を評するのかもしれない。

 ところで、シグルドの偏見の中では、こういうのは利口者の面なのである。難しい書物を読み、時に人を食ったような議論をふっかけては悦に入っているインテリである。

 大衆文化を見下し、俺たちをバカにしている連中だ。

 畜生。

 さすがに我慢の限界だった。

 くそ。

 くそ。

 くそ。

 ケツの穴に異物を詰めた分際で、人を嘲るのか?

 俺は、一度だってそんなへまをしたことないぞ。

 シグルドの意識は、いつしか傍らに置かれた剣へと向けられていた。

 しかし、次に発せられた。紳士の言葉は意外なものであった。

「俺もだよ」

「はえっ?」

 紳士の一言に、シグルドの殺意は動揺した。頭の中に描かれた、血塗られた映像は雲散霧消し、にらみつける眼差しも困惑の色彩を帯びた。

 紳士は畳みかける様にさらに言った。

「俺も好きなんだよ勇者本。その表紙は、実話勇者ックルズだろう」

 そういって、紳士は、シグルドの指の間からのぞく本の表紙を指さした。

 確かにそれは『実話勇者ックルズ』だった。

 シグルドの本を覆う手の力が緩んだ。

 露わになった表紙にはビキニアーマーのお姉ちゃんがデカデカと描かれている。その大きな乳を覆うブラを、邪悪なヤシガニが引きはがそうとしていた。むっちりとした太ももには淫猥なチンアナゴの魔物が群がっている。

 分かる人には分かる。こんな下劣なデザインは『実話勇者ックルズ』をおいて他にない。

「ただ、俺は週刊ブレイブボーイも好きなんだ。あっちは読んでるかい?」

 シグルドは、その質問には答えなかった。

 代わりに一度大きく唾を呑み込んでから言った。

「卿。いけるクチですか?」

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