第4話

「さて、と」


 試験管を僕から受け取り、女性は中身をそのままシンクに流してしまった。


「ああそうそう、コーヒーを準備していたんだったな。一翔くん、君のリアクション、なかなか興味深かったよ。やはり一般人の口には合わなかったか」

「あの、あ、あんたは……」


 痺れた唇を動かし、何とか問いかけると、女性は再び振り返った。


「古川知美、三十二歳。このラボを任されている、薬品開発の責任者だ」


 その言葉に、僕はまじまじと女性――古川の顔を眺めてしまった。

 

「そう見つめないでくれ、照れるじゃないか。私は年下が好みだからな」

「はあ⁉」


 僕は受け取ったマグカップを取り落としそうになった。まあ確かに、目が妖し気な光沢を放っていることを除けば、美人の部類に入るかもしれないが。


 冬場だというのに、渡されたコーヒーはアイスだった。季節に逆行している。だが、部屋は暖房が効いているし、先ほどの栄養ドリンク(仮)で麻痺した口内に含むにはちょうどよかった。


 ずるずるとコーヒーをすすりながら、勧められるままに、僕は丸椅子に腰かけた。


「あの、えっと……」

「私のことは好きなように呼んでくれ」


 そう言って、キャスター付きの椅子を滑らせて僕の前にやって来る古川。長い足を組み、じっとこちらを見つめてくる。


「じゃあ、古川博士。ここはどこなんです? 僕や妹が連れ込まれた状況を鑑みれば、ただの研究施設だとは思えないんですけど」

「どこだと思う?」

「え?」


 おいおい、尋ねたのはこちらだぞ。そう言いかけたが、顎に手を遣ってこちらを見つめてくる古川の問いを無下にはできなかった。


 考えろ、伝上一翔。

 僕と流果の部屋にやって来たのは、バリバリの軍人だった。ということは、ここは政府直轄のラボで、生物兵器か何かの開発を担っているのか。


 淀みながらもそう答えると、


「お、いい線行ってるじゃない」


 と、古川は機嫌をよくしたようだ。


「ただ、予算がなくってねえ。本当なら、もっと厳重な警備と防疫設備のある立派なラボであるべきなんだけど。かと言って人手もないし、突然民間人を収容しろ、なんてお偉いさんに命令されたら、従うしかないもんねえ」


 そう言って肩を竦め、首を左右に振る古川。


「でも、どうしてなんです? 警察ならまだしも、軍が僕や流果の身柄を拘束するなんて」

「ん? ああ、それは――」


 と言いかけて、古川は慌てて口に手を遣った。自分のマグカップをテーブルに置き、腕を組んで唸り出す。


「どうしたんです、博士?」

「守秘義務、ってやつだね」

「守秘義務ですか」


 確かに、機密性は高いのだろう。流果に大怪我を負わせ、僕もろとも拘束し、ここまで連れてきたのだから。


 僕は一度、大きく深呼吸をしてから、本題に触れることにした。


「博士、流果は無事なんですか?」

「あ、ああ、一命は取り留めたよ?」

「え?」


 どうして疑問符の付くような言い方をするんだ?


「博士が流果を執刀したんじゃないんですか?」

「いやいや、私は飽くまで科学者だよ。医者じゃない」

「それでも、流果の容態については知っている。何故です? どうして一人の負傷者の生死が重視されているんです?」

「ふぅむ」


 古川は黙り込んだ。やはり守秘義務なのか。

 僕はもどかしく、焦燥感を覚えたが、かと言って古川を責めるのはお門違いだとも思う。


 誰に訊けばいい? いや、そんなことよりも、どうすれば流果に会える? いつ、どこで僕が直に彼女の安全を確かめられる?


 しばしの沈黙が、雪のようにラボに降り積もる。


 それを吹き払ったのは、穏やかな電子音だった。音源の方に振り向くと、そこには短い登り階段があり、その先には分厚いスライドドアがあった。


「おや、ボスのお出ましだ」


 古川はすっと立ち上がり、姿勢を正した。

 ボス? てっきり僕は、古川がこのラボの責任者だと思っていたが。それとも、このラボの上層組織の人間がやって来たということだろうか。


 古川につられるようにして立ち上がると、再度電子音がしてドアがスライドした。

 そこに立っている人物の姿が露わになる。そして、僕は絶句した。


 痩身で中背、白いものの混じったオールバックの髪、不似合いな国防軍の制服。

 顎のとがった顔つきに、気怠そうな目つき。

 疲労に憑りつかれたような、張りのない身体つき。


「久しぶりだな、一翔」


 そこに立っていたのは、紛れもなく僕の実父、伝上昇竜だった。


「世話をかけた、古川博士」

「いえ。伝上大佐の勅命とあらば」


 やや緊張した面持ちで、博士は父に向き合っている。


「久しぶりだな、一翔。強引に連れ出してしまって、失礼した」


 何? 『失礼した』だって?


「父さん」


 僕は流果の安否を確かめるべく、父を呼んだ。しかし、その声は嗄れている。まるで全身が金縛りに遭ったようだ。

 僅かな間を置いて、父は『何だ、一翔?』と問うてきた。


「流果は……流果は無事、なんですか」


 思わず他人行儀な口調になってしまう。十年近く会っていなければ、親子とて、いや、親子だからこそこのような遣り取りになるのだろう。


 すると父は、僕と視線を合わせ、目を細めながら『心配はない』と一言。

 だが、その答えを聞いて僕はますます疑念を抱いた。父がいつの間に軍属になったのかは知らないが、少なくとも流果を傷つけたのは軍だ。


 僕は適当な言葉を続けられず、しかしギリッと音がしそうなほどの力で、父を睨みつけた。


「私の証言では不満なようだな。これを見てくれ、一翔」


 そう言って、父は腕時計型の立体映像投影機を展開した。簡略化した人体図が、青い光の粒子によって構成される。


「流果が撃たれたのは、こことここ、それにここだ」


 父が指をさすのに合わせ、人体図に赤いマークがつく。一つ目は右胸、二つ目は左腰、三つめは左足の付け根。


「危ないところだったが、辛うじて急所は外してある。国防軍東部方面隊、第一小隊の面目躍如といったところだな」

「何だと?」


 僕は自分の顔が真っ赤になるのが自覚できた。腹の底から怒りが湧き上がってくる。


「どうして流果を撃ったんだ⁉ 自分の娘だぞ!」

「できうる限り発砲は避けろと命令したんだがな」

「そんな! 流果が危険物を持っているわけが――」


 持っているわけがない。そう言いきろうとして、僕ははっとした。

 流果は、反政府組織『ディジネス』と浅からぬ繋がりがあるらしいのだ。となれば、銃器の扱いはお手の物だったのではないか? だから撃たれた。そういうことか?


 正直、ゾッとした。自分の妹が、そんな殺傷兵器を使いこなしているかもしれない、だなんて。悪い冗談にもほどがある。だがそれは冗談なのか? 

 父の目からは、その是非を窺うことはできない。


 僕は急激に体温が下がり、いつの間にか膝が震えだしているのに気づいた。


「どうした、一翔? 寒いのか?」

「……あんたは……」


 僕は冷え切った表皮の外側で、拳が握りしめられるのを感じた。たとえ武器を持っていたとしても、流果を……!


「あんたは自分の娘を殺しかけたんだぞ! 発砲は避けろと命令したって? 白々しい! 初めからあんたは流果を殺すつもりで――」

「動機があるまい?」


 その一言に、僕は再び沈黙を余儀なくされた。


「確かに私は、お前と流果を捨てるような真似をした。許してくれとは言って、済まされる問題ではないだろう。だが、わざわざ殺しに来る理由があるか? 刺客を差し向け、捕縛しろと指示すべき事由はあるか?」


 あるわけがないだろう。そう言って、父は掌を上に向け、やれやれと首を振った。

 一見すると挑発しているように見えるかもしれない。だが、少なくとも僕には、父が心底呆れかえっているようだと感じられた。


「それに、お前についても同じだ、一翔。私はお前に頼みたいことがあって、ここに招いたんだ。強引な手段を取らざるを得なかったことに関しては謝罪する」


 慇懃に頭を下げる父。だが、その馬鹿丁寧な態度が、再び僕の心の火に油を注いだ。


「お前、それでも人間か!」


 僕は古川博士を突き飛ばし、一気に父の下へ突っ走った。デスクにぶつかり、ビーカーが落ちて砕け散る。しかしそんな些末なことに拘ってはいられない。


 ゲーム内とは正反対に、僕はまともな喧嘩というものをしたことがない。だが、それでも父を許せなかった。憎んだ。殺してやりたかった。僕の唯一の家族を返せ――!


 こちらに頭を下げ、隙だらけの父。

 せめて一発、ぶん殴ってやる。そして、目を覚まさせてやる。


「うおおおっ!」


 思わず雄叫びが喉を震わせ、ラボ中に響き渡る。しかし、僕の拳が父に届くことはなかった。

 限界まで引き絞った僕の拳は、父の頭頂部に至る軌道上で静止していたのだ。


 何が起こったのかを理解するより早く、逆に僕が殴られていた。形勢逆転だ。僕は右の頬を殴られ、尻餅をついた。


「ぐふっ!」


 僕は視線を上げ、そして息を飲んだ。

 いつからそこにいたのか、父のそばには大男が立っていた。筋骨隆々で浅黒い肌をした、スキンヘッドの大男。それが、僕と父の間に立ち塞がっている。どうやら僕の鉄拳は、この大男に受け止められてしまったのだろう。

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