2.ARK824.08/特別な邂逅

「わっ!」


 両頬に衝撃。

 思わずテルミンは目を覚ました。

 痛いという程ではない。ただ、ひどい衝撃だった。耳にまでそれは響いた。

 何ごと?! はっと目を開けると、そこには、ひどく大きな瞳があった。

 見たことの無い少年が、そこには居た。少なくとも彼には少年に見えた。

 それが自分の両頬に手を触れている。


「あ、生きてる」

「は?」

「こんなとこで寝たら駄目だよ」


 ひどくのんびりとした声だった。あまりにものんびりとしていたので、テルミンは自分が一瞬何処に居るのか判らなくなった。


 こんなとこ…… こんな所って。


 彼はまだぼんやりしている頭を軽く振ると、必死で記憶をたどる。こんな事態は予測の外だ。


 ああそうだ。


 彼はようやく一つのことに思い当たる。そして思い当たったから、何となく恥ずかしくなって、ちっと舌打ちをした。

 時間を間違えたのだ。

 確かそうだったよな、とテルミンは自分自身に内心つぶやく。彼はその日、この場所に朝一番に来る様に、と新しい上官から命令を受けていた。

 転属命令を受けたのは、三日前だった。それは同時に、昇官を意味していた。

 前年に予想した通り、彼は首府警備隊での日々の勤務態度、また前年に起きた都市ゲリラの割り出しと清掃を兼ねた作戦における働きによって、大尉から少佐へと昇官することになっていた。

 そしてこの八月の恒例の配置変更時期に、それまでの警備隊勤務から、少佐として正式に、今度の場所へと転属を命じられた。

 栄転だった。だからいつもより早起きをしたのだ。そこに行くには、敬意を払う必要があるだろう。何せ今度の配属先は、首相官邸なのだから。

 彼は格別、現在の首相に好意を抱いてはいない。だがある程度の敬意はある。

 現在のレーゲンボーゲンの首府政府の首相、エーリヒ・ゲオルギイが政権を取ってから十五年。権力は奪取することより、維持することの方が難しい。この維持できる能力に対する敬意である。

 十五年。まだ若い彼には、長い年月だ。首相がその座についた時、テルミンはまだ初等学校のガキに過ぎなかった。子供時代、そして青春。人生で一番長く感じる時期を、首相はずっとその座についていたのだ。


 ……長い。


 つらつらとそんなことを思いながら、彼は石造りの、重厚だが、それ以外の何ものでもない首相官邸に足を踏み入れた。

 天井が高い。入った瞬間感じた。そして廊下が長い。

 命じられた部屋の前にたどり着くまでに、彼はひどく自分が長い距離を歩いた様な気がした。

 だが時間になっても、上官は現れない。扉には鍵が掛かっていて、入ることもできない。

 変だな、とさすがに彼も思った。そして改めて時計を見てみると、一時間早く自分が来ていることにやっと気付くことができた。

 心配症の彼は、普段なら目覚ましが無くとも起きられる。それは良いが、どうやら時計の針を一時間間違えて読んでしまっていたらしい。

 しまったとは思ったが仕方がない。とにかく彼は上官を待つことにした。

 人気は無かった。あちこちに当直の兵士が居ても良いはずなのに、その一角には、不思議なくらいに気配がまるで無かった。

 音一つしないその静けさに、彼はついつい眠気をもよおした。……その瞬間まで。


 ……慌てて彼は少年の手を外し、伸ばした腕の分だけ、距離を置いた。


 と同時に視界に入ったものに、心臓がぽん、と飛び跳ねるのを感じた。


「き、君、何って格好……」

「あぁん?」


 彼の動揺に気付いているのかいないのか、大きな焦げ茶の目を細め、ひどく気だるそうに、少年は長い前髪をかき分ける。


「何あんた…… どうかしたの?」


 どうかしたもこうしたも。頭の中に蜂が一気に飛び交う様な感触。大混乱。

 何せこの目の前の少年の格好は、およそこの首相官邸という場所には似つかわしくなかった。

 長く伸ばした髪はゆらゆらと揺れ、上半身には無造作に素肌に羽織っただけのシャツ。ボタンは真ん中の一つしかはめられていない。すき間から白い肌と乳首が見え隠れする。

 通しただけの袖は無論ボタンなど何処へやら、無造作に引き上げているだけだから、逆にその細い腕の細さが際立つ。

 下にしても。一応履いてはいるが、落ちない理由が判らないくらい、黒い細身のズボンはボタンもジッパーも開けられていた。

 目のやり場に困って、テルミンは視線を逸らしながら、少年のシャツのボタンを一つ二つとはめてやる。


「何してんの」

「……ここでこんな格好してるなんて、良くないよ」


 少年はその彼の態度に、軽く肩をすくめた。むすっと不機嫌そうに閉じていた唇が、一瞬おかしそうにぐっと突き出された。


「……ああ、もしかして、あんた俺のこと、知らないの?」

「知らない? って何が」

「はあ。そうなんだ」


 直されたボタンの前で腕を組んで、少年は納得した様にうなづいた。一体何だというのか。さっぱりテルミンには判らなかった。

 そんな彼の様子を目を細めて面白そうに見つつ、少年は「じゃあまたね」と手を上げ、官邸の奥へと入って行った。


「ちょっと待てよ、君、そこは……」

「いいのいいの」


 そして少年は振り向きもせず、ひらひらと手を振った。


 何なんだあれは。その時彼テルミンは思った。

 と同時に、奇妙に心臓の鼓動が早くなっていることに、その時ようやく気付いた。

 再度思い返す。何だったんだあれは。

 少年だよな、ととりあえず事実を頭の中で繰り返す。少年だったはずだ。だって、胸が無かった。

 だが彼は、その直後、その自分の考え方に驚いた。

 「胸が無い」から少年、ということは、一体自分の目にはあれは何に見えたのだろう?

 目の裏に、白い肌と、服のすき間から見えたうす茶色の小さな乳首が焼き付いている。

 だが何故そんなものがちらつくのか、彼にはよく判らなかった。

 確かに綺麗だった、とは、思う。

 大きな焦げ茶の瞳は、くっきりと二重で、彫りも深い。高い天井から落ちる弱い光のせいで、陰影も濃く帯びていた。

 そう、綺麗だったよな。彼は改めて考える。


 だけど、何でそんなものが、ここに居るんだろう?


 そうこう考えているうちに、足音を響かせて、手を上げる佐官の姿を彼は認めた。途端に彼は直立不動の体勢になる。


「やあ、早いな。君がテルミン少佐か」

「お初にお目に掛かります、アンハルト大佐」

「僕も早く来たつもりだったが…… 君はもっと早かったようだな?」


 アンハルト大佐は、扉の鍵を開けながらテルミンに訊ねた。


「……お恥ずかしい話ですが、時間を間違えまして……」

「へ?」


 鳩が豆鉄砲を食らった様な顔で大佐は振り向いた。


「何、君…… もしかして、一時間も早く来たのか?」

「……はい」


 その途端、アンハルト大佐はぷっ、と吹き出した。しかもそれに留まらず、大佐はそのまましばらく笑い続けていた。テルミンはさすがにむっとする自分を感じていた。


「や、済まない済まない。いや実は、今度来る少佐はずいぶんと真面目だ、とは聞いていたんだが」

「……お誉めに預かって恐縮です」

「そんな悪く取るなよ、テルミン少佐。僕は誉めてるんだよ? お、またやってしまった」


 ばり、と何やら耳慣れない音がテルミンの耳に届いた。何だろう、と彼が思っていると、大佐は振り向き、黒い手袋に包まれた手を開いた。

 は? と彼はそれを見て目をむいた。


「た、大佐…… これは…… 」

「だから、これ」


 肩をすくめながら、アンハルト大佐は開けようとした扉を指した。ノブの分だけ、穴が開いていた。


「いや、義手の調子が時々狂うんだ。なのに僕はかなりの粗忽者でね」

「義手…… なんですか」

「ちょっとばかり昔、無茶をしてしまってね」


 そしてくす、と笑ってみせる。

 ああそうだ。時々こういう者が居るのだ。自分と五、六歳違うか違わないか、という年齢で大佐という地位に居るなら、それなりの功績を上げているはずで、それにはある程度の代償が必要だったのだろう。

 それはそう珍しいことではない。任務の中で何らかの理由で身体の一部を欠損した者は、義手義足義眼といったメカニクルで補助する。時には、全身が義体化されている者も居る。外見年齢がいつまでも変わらないらしい。そう、まるで帝都政府に鎮座まします皇族や血族のように。


「すみません」


 だがとりあえず彼は、素直に頭を下げる。


「いやいいよ。別にもう長いつき合いだし。だけど君、まあだから僕がこんな粗忽者だから、よく補佐してくれないと困るよ。ドアだったらいいけど、これが…… ね」


 いい人だ、と彼は思う。もしくは、いい人を恒常的に演じることができる。

 いずれにせよ、この今度の上官は実に有能であるだろうことは、テルミンには容易に想像ができた。だから彼は、期待されている答えを返した。


「判りました。私にできることでしたら。とりあえずは、その扉の修理は如何致しましょう?」

「君、できるのか?」

「一応」


 それは便利だ、と大佐は声を上げて笑った。そしてその笑いがあまりにも自然だったので、彼もまた、気が緩んだのかもしれなかった。


「ところで大佐、お聞きしたいのですが……」

「何だ」

「ここには首相閣下のご家族がお住まいなのですか?」

「いや? 何だそんなことも予習していないのか?」

「いえ、そうではないのですが、先程、一人の少年をここで見かけまして」


 するとそれまで晴れやかな笑いを顔中に浮かべていた大佐の表情が凍り付いた。


「そのことは、誰かに言ったか?」

「いいえ、その少年を見た直後です。大佐がいらしたのは」


 ならいい、と言いながら、アンハルト大佐はかなり大げさに眉を寄せた。そして壊れたノブを手に持ったまま、胸の前で腕を組んだ。


「いいか、少佐、彼には構うなよ。もしこの先出会うことがあったとしても。……いや、出会うとは思う」

「は? ではご家族なのですか?」

「家族、と言うには語弊がある。まあいい。我々は任務だからな」

「はあ」


 言い渋る様なことなのか、とテルミンは曖昧な返事を口にしながら思う。


「あれは、閣下の愛人だ」

「あいじん?」


 ちょっと待て、と彼は目を瞬かせる。だってあれは少年じゃないか。

 彼の記憶の中では、首相には確か妻子が居たはずだった。ただ、その家族は、首府には住んでいないはずだった。

 いや住んでいるいないはどうでもいい。妻子が居る男が、少年を囲っているというのか?


 確かに綺麗だったけど。


「それに少年、ではない。テルミン少佐、君とそう変わらない歳だと聞いている」

「まさか」

「まさかと君が思うのも無理は無い。だが閣下がそう言われた。名はヘラ。少なくとも閣下はそう呼ばれる。姓は我々も知らない。何処の出身なのか、どんな経緯で閣下のお側に居るのかは我々もさっぱり判らない」

「は…… あ」

「閣下も聞かれることを好まない。だが警備は必要だ、ということだ」

「……はあ……」


 テルミンは、そんな気の抜けた声しか出せない自分に驚いていた。



「何だそりゃあ?」


 ざわめきの中でも、その高い声は妙に響いた。しまった、とケンネルは自分の口を塞いだ。一瞬彼等の方に向けられた視線も、すぐにざわめきの中に消えていく。夕刻のビアホールでは、ありふれたものに過ぎない。

 柔らかな暖色系の灯りのもと、あちこちでジョッキやピルスナーがかちん、と合わされる音が聞こえる。笑い声とざわめき。ゆでたてのソーセージをかじるぱり、という音。リクエストがあった曲が、ピアノの即興演奏で流される。

 そして彼等の前にも、そんな場所に似つかわしい暖かい食事があった。小振りなソーセージと、揚げたての長細く切ったジャガイモがそれぞれ皿に山を作る。それにカップ型の器に入った、茶色のシチュウ。

 昇進祝いだ、とケンネルは元後輩の友人を久しぶりに夕食に誘った。

 ところがこの友人ときたら、どうも様子が変なのだ。元々そう健康そうに見える訳ではないが、どうも何かそれ以上に疲れた顔をしていた。

 よっぽど今度配置された部署は、性に合いそうにないのだろうか、とケンネルはメニュウから適当に選び出しながらも考える。

 疑問は疑問としてお祝いの言葉を向けてみた。すると、ありがとう、と言いつつも、何かひどくテルミンは複雑な笑顔を浮かべたのだ。ふうん、とケンネルはそれを聞くと、うなづいた。


「で何、テルミン、何か嫌ぁな上官が居たんか?」

「ええ? いやいや、そんなことは無いよ!」


 手を胸の前でばたばたと横に振る。

 その間に、まずはビール、とジョッキが二つ運ばれてきた。ちん、と軽い音を響かせて二人の間でジョッキが合わされる。

 そして一口飲むと、ケンネルはさりげなく、だがやはり同じ問いを角度を変え、容赦なくぶつける。


「いや、そんなことは無いんだって。今度の俺の上官のアンハルト大佐って人は、かなりいい人だよ。まだずいぶん若いんだ。すごく有能で」

「お前がその人の副官って訳だよね?」

「そう。一応大佐がそこの警備隊を仕切っている形になっているから。俺はだからその副官で」

「いい人で有能かあ。お前がそうやって言うの珍しいからなあ。いい人はいい人だし有能は有能って言うしなあ」

「先輩……」

「だってそうじゃん。お前結構そのあたり辛辣だからさあ」

「俺はいつも本当のことを言ってるだけだよ。だってそうじゃないか。無能は無能だし、有能は有能だよ。それと人がいいとは別の話」

「そりゃあそうだけどさ。だからお前が『有能で人がいい』ってのは珍しいと違うの?」


 ケンネルは言いながら、ジャガイモを一つ二つ、と口の中へ放り込む。


「いや、だからいい人かどうかは本当は判らないだけどさ。少なくともいい人に見えるんだよ。それで満足?」


 はいはい、とケンネルは肩をすくめた。


「じゃあ何が気になったのさ」

「気になんてなってないって」

「うっそぉ」


 言葉は軽いが、一言のもとの否定。


「嘘なんてついてないって」

「だってほら」


 ぴ、とケンネルはテルミンの指先をフォークで示す。はっとしてテルミンは自分の手を見る。


「あ」


 気がつくと、自分の手が、近くのナブキンを依っていた。彼は口を歪め、一本の紐になってしまった紙を、スプーンの横に置く。


「……いいけどさ」

「だからさあ、隠したって出るんだから、愚痴があるんなら言えばいいじゃん。俺は別に関係無いんだから、聞くくらいはできるよ?」

「だけどなあ」

「だけど何?」


 なおも言い渋る元後輩を、ケンネルは自分には珍しいと思う程に突き詰めていた。

 実際、テルミンがこれだけ言いにくそうにしていることは珍しい。それだけ、自分には士官学校時代――― いや、もっと前から、言いたいことは言い合ってきた仲なのだ。

 ふう、とテルミンは脇のナプキンさしから一枚引き抜くと、胸ポケットのペンを出して、さらさらとその上に何かしら書き付けた。

 何、とケンネルはぐっとその上に視線を寄せ――― 眉を寄せた。


「ホントかよ? それ」

「守秘義務はあるけどさ。でも…… なあ」


 確かにな、とケンネルもうなづく。誰かに言いたい気持ちは山々なのだろう、と。

 テルミンは、その書き付けたナプキンに、水を染ませて握りつぶしてから丸めた。

 ああこれもいつものクセだよな、とケンネルはそんな友人の動作を見ながら思う。言ってはならないこと、だけど誰かにどうしても聞いてもらいたいことがある時、テルミンはこんな回りくどいやり方をする。

 しかしさすがに今回はそれでも言いたくなかった訳だろう、とケンネルは納得した。あの首相に、少年めいた青年の愛人が居るなんて。


「で、どんな奴?」


 肝心なところさえ暗黙の了解ができてしまえば、その事についての会話はそう難しくない。


「その様子だと、会ったんじゃないの? その当の本人に」

「先輩にはかなわないよ。うん、出会ったんだよ」


 しかも眠り込んだ時を見られた。だがそのことをどうしてもテルミンは今ここで口に出せなかった。


「何かさあ、だから、『少年』だなあって」

「何さ、それ」


 食事を再開させながらケンネルは訊ねた。

 テルミンの視線が天井に向いてしまっている。このままでは食事が冷める、とばかりにケンネルの手の中のフォークは、ソーセージやらジャガイモやらに刺さっていた。


「だからさ、俺達が日々見慣れた同じ男、とは思えないってこと」

「そんなガキに見えたのか?」

「というよりは、胸の無い女の子に見えた」


 テルミンの脳裏に、あのはだけたシャツの間から見えた白い肌がよぎる。うす茶色の乳首が、浮かび上がる。

 彼は慌てて頭を横に振った。何で俺はこんなに克明に覚えているんだ、と自分で自分にため息をつきたくなる気分だった。


「そんな綺麗だったのかあ?」


 さすがにケンネルもフォークの手を止めた。テルミンは迷わずにうなづく。


「だって先輩、あれを俺達と同じ年代の男って言ったら十人が十人、冗談、って言うよ? 髪だって巻き毛で長いし、目はでかいし、くっきりはっきりしてるし」

「お前だってでかいだろう? でもお前がそこまで言うんだから、何か並外れてそうなんだろうなあ。あ、俺ちょっと興味出てきちゃった」


 ケンネルはそう言って、両手を胸の前で組み合わせる。するとテルミンは手をひらひらと振った。


「やめてやめて。俺、出来れば二度と会いたくない」


 ぶる、と思わずテルミンは肩をすくめた。


「へ? 何で?」 


 何故だろう、と自分で口にしてしまってから、テルミンは思う。だけど確かに、そんな気持ちだったのだ。二度と会いたくはない。

 奇妙な気分が、背中を押していた。あの時の姿を思い出せば思い出すだけ。


「ま、いいよ。でも勤務先だろ? 会ってしまったら?」

「一応彼には構うな、って言われたけど」

「だったらそれにしっかり従うことだよな。上の命令はちゃんと聞くもんだよ」

「先輩がそういうこと言う?」

「俺はちゃんとやってるよ? 何せ優秀な庁員だからねえ」


 だがしかし、その言葉が自分の中で、別の意味にすり替えられることになるとは、テルミンはまだ気付いていなかった。



「あ、すみません」


 書庫の通路は狭い。だから人とすれ違うと肩が触れ合うことがある。相手は無言で首を縦に振る。


 あれ?


 ふとテルミンは立ち去って行くその人物の色合いに違和感を覚えて立ち止まった。両手に積まれた資料が急に重みを増す。

 少なくともあの色は、レーゲンボーゲン星域の軍服ではなかった。濃青では、ない。

 この時代、帝都直轄の正規軍の軍服はカーキに赤のライン、と決められていたが、星系によっては、独自のデザインを採用する所もある。特に辺境の星系になればなるほど、その傾向は大きい。

 この星域の軍服は、濃青だった。しかも詰襟の正規軍に対し、ここでは開襟である。その上に階級章は華々しく存在を主張する。大きなダブルのボタンも、ラインをきっちり見せつけるようなポケットも同様である。

 膝の曲げ伸ばしが容易であるように、と緩やかなズボンは膝より少し下まであるブーツで裾はきっちりと束ねられている。ブーツの底は固く、廊下を歩くと硬い、乾いた音が響くのが通常だ。

 だがこの場でその音を立てることは何かしらテルミンにはためらわれた。

 この時彼が居た首府中央図書館の地下一階にある書庫は、その日もひどく静かだった。官邸から程近いそこは、テルミンの憩いの場所となっていた。

 地下と言っても、中庭から直接入ることもできることから、圧迫感は無い。そこでは午後から夕刻にかけて、その小庭に面した窓から光が入り込む。

 本や資料の保管庫という場所には、湿気も決して良いものではないが、直射日光はもっと良くない。書庫の何処へ行っても、まず直接光が入り込む所は無い。他の窓は殆ど恒星光の一日中入らない方角に向いている。

 その場所がかろうじて夕刻の光が差し込む様になっているのは、そこが「休憩所」だったからだろう。少なくともテルミンには、そう見えた。

 別段そこが「休憩所」と書かれた看板を下げている訳ではない。ただ、彼にはそう見えたのだ。

 客観的に見れば、そこは「廊下」である。決して広くはない。ただ、その「廊下」の片隅には、何故か少し大きめのテーブルと、椅子が何セットか置かれていた。

 おそらくは、その資料をその場で見る者のために置かれているのだろう。だが書庫を使用する者が少ないのに比例して、その場所を使う者も少ない。

 さすがに中央だけあって、椅子やテーブルのほこりは毎日綺麗に拭われていたが、最初に彼がその椅子に座ろうとした時、ぼん、と椅子のクッションに一度強く手を置いたら、内側に溜まっていたほこりが一気に舞い上がった。

 すると、そのほこりは、きらきらと窓から入り込む夕刻の光に輝きながら、ゆっくりと降りてきた。ほこりにむせながらも、テルミンは苦笑し、妙にその場所が愛しくなった。

 そして彼はそこの常連になった。


 そもそもは、彼に「空き時間」ができてしまったことが始まりだった。

 転属したばかりの新しい配属場所である首相官邸で、彼は最初の日にとんでもない相手と出会ってしまった。そして出会っても構うな、と上官に忠告された。会いたくないな、と彼も思ったのだが。


 なのに、だ。


 友人と飲み明かし、二日酔いとまでは行かないにせよ、いつもより酷使してしまった胃の重さを感じながら職場へ出向くと、ひどく複雑な表情の上司にこう言われた。


「早速だが…… テルミン少佐、君に一つ、特別な職務が与えられた」


 はあ、と曖昧な返事をすると、彼は次の言葉を待った。何かひどく嫌な予感がした。

 そしてその予感は当たった。


「実は、昨日君と出会ったという…… その、あの人物が、君を…… 専用の警備員に欲しい、と言うんだよ」

「……専用の、警備員…… ですか?」


 そうなんだよ、とアンハルト大佐は答えた。


「あの人物って…… あの人物、ですよね?」


 自分で聞いていても間抜けだ、とテルミンは思った。だが「あの人物」としか言い様もないような気もしていた。「首相の愛人」という生々しい言葉を使うには、「あの人物」は自分の記憶の中では、ひどく浮き世離れしていた。


「けど、昨日の今日ですが…… そんなことを一存で決められるのですか?」

「どうだろうな? とにかく昨日、君が帰った後に閣下も戻って来られたから…… その時にでも」


 言いかけて、アンハルト大佐は失言だ、とでも言うように首を横に振った。


「とにかくその辺りは大丈夫だ、ということなのだろう。だから君には済まないが、僕の副官と平行して、その任務についてくれ。君はよく気がつくという報告が、前の部署からも来ているから、僕としても非常に惜しいのだが」

「判りました」


 命令は、命令である。テルミンに逆らう気はなかった。


「警備員、というのは他にも居るのですか?」

「いや、今までは居なかったらしい。閣下が付けろ、というのに、何故か『そんなものは要らない』とばかりにふらふらとしていたらしい」


 テルミンはさすがに眉を寄せた。



「だってさ」


 そしてそれを問いかけると、「その人物」は、あっさりと答えた。


「馬鹿ばっかりだし」

「それは……」

「別に、俺は自分の身くらい自分で守れるよ。それにだいたい俺が誰かなんて、フツーの奴はわかんないし」


 それはまあ、とテルミンは思う。自分だって、信じられなかったくらいだ。この目の前に居る人物が、「首相の愛人」だなんて。


「それで、お前、俺のこと何って聞いてるの?」


 官邸の広い庭の、あずまやの様な場所で、「首相の愛人」ことヘラはそうテルミンにそう問いかけた。テーブルの向こう側、椅子の上にだらしなく腰掛け、ヘラは半ば伏せた様な目で、ちらと彼の方を見る。


「え」

「だってお前、あん時俺のこと知らなかったじゃない。でも今は仕事でここに居るんだし。お前さ、お前の上官に何か聞いているんじゃない? アンハルト大佐だっけ」

「…… 一応…… 首相閣下の……」


 愛人、という言葉はやはりどうしても言えない。だがその隠れた言葉をヘラは引き取る。


「そ。囲われてんの、俺。囲い者。ほら言ってみ」


 テルミンは言葉に詰まった。きちんと掛けた椅子の上、ひざの上に乗せた手が汗ばむのが判る。どう言っていいか判らなかった。


「……ああごめんごめん。いじめるつもりじゃないけどさ」


 大きな焦げ茶の目を伏せる。濃い長いまつげが、影を落とす。

 あの朝には無造作に広がっていた長い巻き毛は、やっぱり無造作にだったが、後ろで一つに束ねられていた。背中の半分くらいあるだろうか。

 そしてその髪と、薄いたっぷりしたシャツに覆われている背中も、ひどく華奢で、薄い。

 テルミンは、自分自身に関しても、決して筋肉質や良い体格とかとは縁があるとは思っていなかったが、どうもこの目の前のヘラという青年は、それとはもっと別種のものであるとしか思えなかった。あの時思った「胸の無い女」というのがやはり近いのかな、と思った。

 だが奇妙なもので、ぱっと見には女性にも見まごう美貌、という形容がぴったりなのだが、近くでまじまじと見てみると、やはり男性以外の何者でもないことに彼は気付く。

 奇妙なバランスが、そこにはあるのだ。一体それが何処から来るのだろうか、彼には判らない。


「何見てんの」


 不意に目を開かれ、テルミンははっとする。


「い、いえ、失礼しました」

「……そういう言い方、俺はやだな」


 へ? と彼はタイミングを外され、心臓が飛び上がるのを感じた。


「何っかやだ。そうゆう敬語、俺に使われたって、敬意なんかこもってないの判るし。やめやめ」

「それでは自分が困ります」


 手をひらひらと振るヘラに、テルミンはすかさず反論する。


「お前が困ったって俺知らないもの。とにかく俺に敬語なんか使うな。聞いていて気色悪い」


 はあ、とテルミンはやはりそこでもうなづくしかできなかった。


「……では…… あなたのことは何と呼べばよろしいのでしょう」

「また敬語だ。まあいいさ、だんだん止めてくれ。ああそぉだな、奴が居る時には敬語。お前の上官とか部下が居る時には敬語。だったらいいだろ?」

「は」

「お前の顔立ててやろうってんだ。この俺が。我慢しろ」


 我慢って。


「とにかく、俺は俺自身を軽蔑してる様な奴等から敬語使われるなんて嫌なんだよ。気色わるい」

「わ…… かりました。で……」

「俺のこと? お前名前聞いてる?」

「ヘラと呼ばれている、と」

「そうヘラ。そう奴が呼んだからな。つまんない名前だ。だけどそう呼ぶんだから仕方ないだろ。お前は何って呼びたい?」


 テルミンはまた黙った。呼び捨てはまずい。いくら何でも。何処で誰が聞いているか判らない。

 だけど「様」なんて付けたら、きっとこのひとはまた怒るだろう。…… 敬意なんか確かにはない。だけど。


「ヘラ…… さん」


 するとヘラはへの字に口を曲げたまま、眉をぽん、と上げた。良くないのかな、とテルミンはその表情の裏側にあるものを読みとろうとする。ヘラは腕を組む。首をかしげる。


「ヘラ・さん」


 言葉を繰り返す。ふむ、とうなづく。


「それでいいよ。お前、テルミン、俺と居る時にはそう呼べ。他の呼び方は嫌だ」


 そしてくくくく、と肩を震わせて笑った。


「ところでヘラ…… さん」

「何」

「その、何度か口にされた『奴』って…… 」

「決まってるだろ。ゲオルギイの奴だ」


 それが首相の名であることを思い出すのに、テルミンは十秒ほど掛かった。



 ところで、テルミンは「警備員」という任務をもらってしまったばかりに、彼はそれまで暮らしていた士官の独身寮を引き払って、この官邸の一室に住居を与えられた。

 専属の「警備員」と言ったところで、本来の意味でヘラの身をも含めた官邸のそれは、結構な人数が交代で勤務していた。よって彼は、自分の任務はそういう「警備」ではなく、殆どがその「首相の愛人」の暇つぶしの話相手なのだ、ということは理解していた。

 実際厄介だ、とは感じていた。無論同時に、この官邸でのアンハルト大佐の副官としての任務も兼ねているのである。軍に入った以上、プライヴェイトな時間など殆ど無くなるだろう、と覚悟はしていたが、少しばかり彼もため息をつかずにはいられなかった。

 だがしかし、彼の予想は多少外れた。

 彼はヘラの専属の、「私的な」警備員だったから、朝から晩まで、ヘラが必要とする時には、側にいなくてはならないはずだった。

 ところが、その時間が、意外にも少ないのだ。

 まず朝。任命された次の日に、軍人としての彼がごく当たり前に「勤務時間」として訪ねていったら、当の本人は、まだベッドの中だったりする。

 目が半分閉じたままのヘラによく聞いてみるとこう言った。


「奴がしつこいんで、俺は寝不足なんだよ」


 翻訳すると、夜が遅いので、朝も遅いのだという。

 だったら、とテルミンは、まず出勤すると、アンハルト大佐の元に出向き、その場で必要なことを手際よく進めておくことにした。

 彼は大佐の副官である以上、大佐の任務をスムーズに進める準備をしておかなくてはならない。必要な下調べや、準備を自分の部下に手分けして命じておくのだ。

 下手に彼が一日中詰めているより、それは効率が良かった。任された方は、振り分け方の上手い若い上官に対し、それなりに真面目に仕事をこなしてくれる。彼は「警備員」の仕事が退けてからそれをとりまとめるだけで済んだ。

 無論それはアンハルト大佐と、彼の元に居た元々の部下の質が良かったから、ということもある。テルミンは自分の力を過信することはなかったので、そのあたりはきちんと心得ていた。

 そうこうしているうちに、陽も高くなり、一段落したところで、ようやく彼はヘラの元に出向く。

 すると大体この本人は、最初出会った日の様に、ボタンを一つしかはめなかったり、髪は解いたままだったり、だらだらとした格好で「朝食」を摂っているのだ。時計の針は、どう見ても「昼食」の時間だったが。

 しかし確かに、話し相手でもいないことには、何をすればいいのか判らない様な暮らしだ、とテルミンはヘラに一日ついてみてよく判った。

 何をしているか、と言えば、何もしていないのだ。

 朝起きて、食事をして、昼間何をするでもなく、広い部屋の中で、フォートの綺麗な雑誌を眺めたり、大きな画面のヴィジョンを眺めたり、この星系外で流行っているという音楽を聞いたり…… 

 遊んでいる、というにも気力が足りない生活だった。そんな生活に縁が無いテルミンは、もしそんな生活を強いられたら、自分には耐えられないだろうな、と考える。

 しかし不思議なことに、外出することはまず無い。

 買い物やキネマや何やら、そう言ったことでもしていれば退屈は多少紛れると思うのに、ヘラは滅多にしなかった。

 何かを強烈に欲しいと思うこともないらしく、部屋の中のクローゼットの中身も、皆似たような、シンプルな形のシャツとパンツばかりが数だけは多く並んでいた。

 しかしそうやって考えると、この長く伸ばした巻き毛も、単に面倒だから切らないのではないか、とかんぐりたくもなってくる。恐ろしいほどそれは似合っていたのだが。


 だが、ヘラは官邸の敷地内はよく動き回っていた。


 この首相官邸自体が、ひどく広い敷地の中にあった。あちこちに作り込まれた庭もあった。放って置かれた荒れ野もあった。

 その広い敷地の中を、ヘラはぼうっと歩き回ったり、時には池の中に足を突っ込んだり、自転車を乗り回しているらしい。専用の自転車が、窓の下に置かれているのをテルミンも目撃した。

 だがそれでも、その敷地の外に行くことはまず無いのだという。雨が降ったら、それこそこの広い官邸の中をひたすら歩き回っているだけのこともあるという。

 実際この官邸は広かった。入植当初から、この建物はこの地を統治する人間の持ち物であり、代替わりするごとに少しづつ増築していくものなのだ、とテルミンはアンハルト大佐から聞いた。

 当初はひどくシンプルな建物だったらしい。だがそれは次第に入る人間や、増築を命じられた人間の趣味が入り交じり、現在ではひどく複雑怪奇な内部の建物になってしまっているのだ。

 そしてヘラはそんなこの官邸の中を歩き回るのが好きらしく、よくこの中で行方知れずになっては、見つけようとする警備員をからかったりするのだという。

 夕刻に、「昼食」を摂り、夜中に首相のゲオルギイが戻ってくる。来ない日もある。

 また逆に、昼間に空き時間ができた、ということで首相が戻ってくることもある。

 いずれにせよ、そんな時間に、テルミンはその場を離れなくてはならない。無言で、一礼して、ヘラの細い肩を抱いて部屋の中に入っていくのを見て見なかったことにしなくてはならない。

 彼は小さな胸の端末が自分を呼び出すまで、何処かで待機していなくてはならない。

 あまり遠くてはいけない。予想はつくのだ。あの首相が、あの愛人と逢っている間、だけなのだから。ただそれはどれだけの時間なのか判らない。三十分なのか、一時間なのか…… それとももっと長いのか。

 テルミンはその中途半端な時間を持て余した。もともと根が真面目なので、その時間を何やら他の暇な兵士や士官と共に遊んで過ごそう、と思うことはできなかったのだ。

 そんな時に、彼の目に飛び込んできたのが、最寄りの首府中央図書館だった。そうだここなら、と彼も思った。

 この程度の距離なら、呼ばれても十分小走りに駆ければ、元の場所に戻ることができる。

 そして、数日その場所に通ううち、彼は書庫の存在に思い当たった。自分の勤務先を司書に述べたら、あっさりと彼はフリーパスを手にすることができた。

 そして、地下の書庫に、彼は足を踏み入れたのである。



 一度足を踏み入れると、そこは彼にとって興味深いものが多いことに気がついた。例えば、入植当時の資料。例えば、長い戦争の間の人々の生活の記録。

 彼は士官学校では、どちらかというと社会科学系のものが得意だった。友人で先輩のケンネルが自然科学系のものが得意だったのに対し、彼の興味はあくまで人間と、それが作り出す社会にあったのだ。

 実際その学んだ知識が現実のこの職務の上に役立つことが無くとも、それはそれで面白いものだ、と考えていたのだ。

 だがさすがにこんな資料が目の前にあると、自分の気持ちが晴れやかになっていくのを彼は感じていた。何せ、そう一般人には見られるものではないのだ。一般兵士であったとしても。

 そんな心地よい、夕刻近い時間を彼はこの場で過ごすことが多くなっていた。上階のオートショップでパックの飲み物を買うと、この「休憩所」で、あまり無理しない程度の資料に読みふけることが多くなっていた。

 そしてその日も、そんな風に一日が過ぎていくはずだったのだ。

 だったが…… 


「熱心だね」


と、声がしたのでテルミンは顔を上げた。あれ、と彼は思った。先刻通路ですれ違った男がテーブルの脇に立っていた。


「ええまあ」


 彼は曖昧に答える。そしてもしかしたら、自分は実は前に会っていた人物なのだろうか、と記憶の中をまさぐる。いや、やはり見覚えはない。


「最近、よく見かけるけど、君はこの近くに赴任しているのかい?」

「……ええ。すぐ近くの邸宅に」


 それで通じたのだろう。男はにっこりと笑った。


「それは奇遇だな。僕も近くに赴任しているんだよ」


 テルミンは首を微かに傾げた。すると男はそんな彼の様子に気付いたのか、こう付け加えた。


「僕は帝都からの派遣員なんだよ」

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