第23話 異世界侵食

 三分の一に欠けた月を背に、その少女は何もない空中で腰掛けるように浮遊していた。

 漆喰で塗ったような白い肌、血のような赤で濡れた唇から二本の牙を覗かせ、気だるげに微笑む彼女は、忍が廃工場で遭遇した謎の存在──ザナドゥと名乗った少女だ。

 そして彼女が見つめる先には、忍の部屋があった。ついさっきマリルによって運び込まれ、キングサイズのベッドに寝かされた忍へ、閉じたカーテン越しにネットりとした視線を注いでいた。


「チャンスは逃さず、スマートに」


 右手の親指と中指を擦り合わせ、ザナドゥは景気よくスナップを鳴らす。指先で白い光がスパークし、空間に波紋となって拡がった。

 光は窓をすり抜け、眠っている忍に降り注ぐ。


「起きてください、エデン様。天界へ還りますよ?」


 囁くような呼び掛けに応え、部屋の中で忍がゆったりと上体を起こす。這いずるような緩慢な動作で立ち上がり、窓とカーテンを全開にしてベランダへと降り立った。

 ザナドゥは空中を滑るように移動し、忍の眼前まで近づく。


「ようやくお会いできましたね、エデン様。……エデン様?」


 忍に手を差し伸べたザナドゥは、そこで違和感を覚えて首を傾げた。

 忍の目は固く閉じたまま、足元はしっかりしているようで、頭の方はうつらうつらと舟を漕いでいる。

 極めつけは、わざわざ耳を澄まさずともはっきり聞こえる、


「くー……くかー……ふごっ」


 なんとも気持ちの良さそうなこの寝息である。


「……なに寝たまま歩いてるんすか、あんた……」


 呆れ返った様子で、ザナドゥは再度スナップを鳴らす。

 再度白い光が忍に降り注ぐが、それでも彼は立ったまま眠り続けている。何度やっても忍に変化は現れなかった。


「あっれ、おかしいな……人間の人格は完全に眠ってるのに、エデン様の意識がまるで感じられない……まさか?」

「まさか、なんなんです?」

「!?」


 降ってきた穏やかながら冷たい声に、ザナドゥはマンションから瞬時に飛び退き、声がした方を睨み付けた。

 忍のちょうど真上に位置するマンションの外壁に、その女は両腕を組んで

 金糸のようなブロンドヘアを重力任せに下へとなびかせ、腕を組んだ堂々たる立ち姿に不敵な笑みを讃えるのは、タンクトップにビキニパンツ、加えて裸足の山吹マリルだった。

 真冬の夜空に常軌を逸した服装に、ザナドゥの表情も困惑に染まった。


「なんだい、君は?」

「それはこちらのセリフです。人間でないのは確かですが、ずいぶんと異質な『気』を吐いてますね。西城くんに何をしようとしたかも、ついでに答えてもらいましょうか」


 ビシリと人差し指を突き付け、冷静ながら厳しい口調で問い詰めたマリルに、ザナドゥの眉が釣り上がる。


「ずいぶんと一方的だわね。人間と話すことなんてないわ」

「そうですか。ならば、体に直接訊きましょうか」

「ひどい言い草。こういうときの返答は、確か──」


 ザナドゥは右手を顔の高さまで上げ、パチンとスナップを鳴らす。白い光の粒子が弾け、夜の闇に染み渡っていく。


「馬鹿め、だったっけ」


 空気が微かに震え、マンションの屋上から音もなく二つの影が飛び降りた。

 十字架を模した長剣を手にした一組の男女が、壁に立ったマリルを背後から襲い、剣閃はあやまたずに首と腰を切り裂いた──かに見えた。

 だが背後からの奇襲を何事もなくマリルは、逆に襲撃者の背後に回り込む。背中を晒した二人を、長い右脚を鞭のように振るって逆襲した。

 キン、と甲高い音が響き、空中で振り返った二人はその顔を驚愕に染めたまま、脳天から真っ二つにされて下まで落ちていく。

 二人の体は空中で消滅して青い魔晶となり、カツンと地面を転がった。


「ふふん♪」


 得意気に鼻を鳴らしたマリルはザナドゥを指差し、続いて手招きをしてから後方宙返りして屋上へ降り立った。

 挑発に乗ったザナドゥも空中を滑るように上昇し、マリルを見下ろせる位置で停止する。

 ザナドゥは両手を白く輝かせ、空中にかざして横に滑らせていくと、彼女を中心に板状の光が次々と展開していく。魔方陣のようでもあるが、完成したそれにマリルは既視感を覚える。


「空間投影型の三次元コンソールじゃないですか!」

「くーかん……なんですって?」

「ですからそういう、空中にモニターとかタッチパネルが展開した操作盤のことですよ! SF映画じゃ昔から観られる、見るからに『未来的』なガジェットじゃないですか!」


 マリルが指摘したように、ザナドゥを覆った光のボールと、その中に無数に浮かんだコンソールとモニターらしき光の板、そしてそれらを高速で操作するザナドゥの姿は、実に未来チックであった。

 しかしザナドゥには伝わらなかったようで、首を傾げるばかりの彼女にマリルも『やれやれ』とばかりに首を振った。


「本来なら私の『特選! サイバーパンクセレクション』のVol.1~6を一緒に視聴して解説したいところですが……残念なことです」

「余裕ぶってるけど、いいの? こっちの準備はとっくに完成してるけど」


 ザナドゥが大きめのパネルにタッチするのと同時に、マリルの周囲を囲むようにして黒い靄のようなものが十個出現した。

 その靄を振り払うように、内側からカソック姿の神父と修道服姿のシスターの集団が姿を現す。いずれも十字架を模した剣や槍で武装しているが、それ以上に全員が全員とも同じ顔であることが、マリルをわずかながら驚愕させた。

 いずれも欧米系の美男と美女ではあるが、寸分違わぬ同じ顔がこうも並んでいるというのは、不気味以外の何物でもない。


「今度はクローン兵士、ですか。ますますSF染みてきましたね」

「ただの天使だよ。……やれ、お前たち」


 ザナドゥの合図で、神父型の天使とシスター型の天使がマリルに向かって一斉に襲い掛かった。

 先制した神父二匹、シスター二匹が絶妙な時間差で四方から槍を突き出す。

 マリルはそれを、軽く人間の身長以上に跳躍して避けた。

 そこを狙って別の神父二匹が飛び掛かって来るも、空中でもう一段跳躍して回避する。

 翼もなく夜空に羽ばたいたマリルは空中で身を大きく反らし、しなやかな長い脚でX字を切るように蹴りを放つ。

 瞬間、蹴り足から放たれた衝撃波が猛烈な暴風が飛び掛かった神父二匹を粉砕した。


「なにっ!?」


 ザナドゥは驚愕に目を見開きながらも、その手は淀みなく空中のコンソールを滑り続ける。

 着地すると同時に深く屈んだマリルは、剣を振り下ろしてきたシスターの頭を下から蹴り抜いた。続けて逆立ちしたままブレイクダンスさながらに大回転し、別のシスター二匹の首から上を打ち砕く。

 仲間を斃された天使は、それでも怯まず攻撃を加える。今度は槍を持った神父が三人、他方向からマリルを突きにきた。


「よっと!」


 手首の力で再び跳躍したマリルは、手近な一体を蹴り潰しつつ足場にし、屋上の縁まで大きく飛び退いた。

 金網のフェンスの上に危なげなく着地したマリルは、床に降りると天使一同と絶句するザナドゥへ、これ見よがしに嘆息した。


「ガッカリですね。この分では、様子見のつもりが全滅させてしまいそうだ」

「……私の知ってる人間は空中で二段ジャンプしたり、蹴りの風圧で攻撃したりなんて出来ないけど。本当に何なの、あなた……?」

「質問するのはこちらだと言ったでしょう。何度も同じことを言わせないでほしいですね」


 マリルはやれやれとばかりに両手を広げて見せた、その次の瞬間。右脚に力を集中し、その場で強烈な蹴りを三連続で繰り出した。

 伴って発生した台風のような衝撃波が、屋上にいた残りの天使たちをまとめて場外へと吹き飛ばす。

 フェンスごと吹き飛んだ天使に体が五体満足なのは一匹たりとも存在せず、バラバラの肉片も地表に着く前にあらかた消滅、魔晶となって散らばった。

 衝撃波は屋上の床にも深い傷跡を残しており、マリルは内心で「しまった! やりすぎました!」と頭を抱えながら、不敵に笑ってザナドゥを見上げた。


「今のもだいたい、二割ぐらいに抑えた攻撃です」

「……何が言いたいの?」

「察しが悪いですねぇ。大人しく降参しろってことです」


 声のトーンを落とし、右足の爪先で床を軽く叩いてみせた。

 挑発とも恫喝とも取れるマリルの態度に、ザナドゥはしばし真顔で対峙していたが、やがて──、


「はぁぁぁぁ~……」


 今度は彼女の方が、これ見よがしに大きな溜め息を吐いた。


「侮るなよ、人間」


 さらに、それまで白かった光のコンソールが一斉に毒々しい赤い輝きに変わり、夜の闇を引き裂いて周囲を赤黒く染めていく。

 ザナドゥ自身の体にも変化が起き、表皮の内側から滲み出るように金属質の液体が全身を覆っていった。


「我らは貴様らの運命そのものだ。定めに逆らうその愚行、もはや万死を持っても償えぬぞ」


 全身に鈍い銀色の装甲をまとい、その素顔を隠した仮面は聖母のように穏やかで慈悲に満ちた表情を浮かべながら、止めどなく血の涙を流し続ける。

 くぐもった声は冷たく、おおよそ感情と言うものが見受けられない。

 赤黒く染まった夜空には引きつった笑みのような三日月だけが浮かび、まるで微睡んだ眼のように世界を見下ろす。

 様変わりした周囲の様子に、マリルも表情を引き締めた。


「驚きました。まさかここいら一帯を丸ごと異界に沈めるとは」


 測定器が無いので正確な数値は分からない。だが間違いなく異界侵食率は最大値の120spに達しているのは明白だ。

 現実と幻想の境界が曖昧になり、魔物デーモンが沸き易く、時には物理法則すら通用しなくなる。それをこうも一瞬のうちに、それも屋外に作り出すとは。

 その能力に戦慄するマリルだが、対するザナドゥは無感情にそれを否定する。


「侮るなと言ったぞ。そこはもはや異界ではなく、正真正銘の『異世界』だ」

「異世界、ですって?」

「そうだ。同時に、我らが導く楽園の一つでもある」


 ザナドゥがコンソールを叩くと、それに合わせて周囲の景色がモザイク画のように崩れ、どことも知れぬ高原へ置き変わっていった。

 どこまでも広がった大地には草花が咲き誇り、小川のせせらぎや狼の遠吠えすら風に乗って聞こえてくる。

 マリルが驚いたのは、景色と一緒に空気の臭いまでもが変わったことだ。湿った冬の日本ではなく、乾いた春風には異郷の動植物の香りすら混じっている。

 空が相変わらずの毒々しい赤黒でなければ、きっと爽やかな景観だったであろうに。


「さあ、第2ラウンドだ」


 勿体ぶった手付きで、ザナドゥはコンソール最後のキーを押す。

 またもマリルの周囲に異変が起こるが、今度は黒い靄ではなく、地面に出現した六芒星と、そこから立ち上る光の柱だ。

 柱は三本、マリルを中心に正三角形を描いた眩い光の柱、その中にはぼんやりと人影が浮かんでいるのが見えた。


「ふっふっふ」


 シャドーボクシングでやる気マンマンをアピールするマリルは、一瞬だけザナドゥへ不敵な笑顔を向けた。


「今度は歯応えのある相手なんですよね、とーぜん?」


 ザナドゥは答えなかったが、仮面の上からでも分かるぐらい、露骨に表情を険しくする気配が伝わってくる。


「……女神ザナドゥの名に置いて命ずる。八つ裂きにしろ、勇者達よ」


 ドスを効かせた威厳のあるザナドゥの号令に答えて光の柱は消失し、三人の男女が姿を現すのだった。




 一方、その頃。


「ちょっと、忍! 起きなさいったら、忍!」


 ベランダでボーッと突っ立ったままの忍を懸命に揺する弥恵だったが、まるで起きる様子がない。


「はぁ~。駄目だわ。ゼノビアちゃん、お願い」

「らじゃ」


 ゼノビアは、鉄骨でも入ってるんじゃないかというぐらい重い忍を片手でひょいと持ち上げると、部屋のベッド目掛けてぽいっと放り捨てた。

 衝撃でスプリングが軋んだ音を立てるが、キングサイズの高級ベッドはさすがに頑丈で、忍を柔らかく受け止めた。


「ごめんなさいね。この人、一度寝入ると滅多なことじゃ起きないのよ。前にも外で寝ちゃって動かせなくなったことがあってね」

「自由すぎじゃないですか? ……むぅ」


 ゼノビアはベランダから上を向いて身を乗り出し、屋上の様子を窺った。

 先程急に静かになり、マリルともう一つ、得体の知れない気配が忽然と消失した。

 出来れば様子を観に行きたいが、マリルからはこの場を守るよう命じられていた。ここには相手の狙いであるらしい忍だけでなく、弥恵や花代といった戦えない一般人もいるのだ。

 忍に関しては記憶が無くとも二級戦闘員、放っておいても死にはしないだろうが、他の少女たちはそうはいかない。


「ごめんなさい、ゼノビアちゃん。忍のせいで迷惑掛けて」

「気になさらないで。民間人を守るのが狛犬の業務ですし。西城さんの怪我も元はと言えば私が……」

「だけど、やっぱりマリルさん一人じゃ……」


 俯いてしまった弥恵は、その表情も不安に曇っている。

 しかし対するゼノビアは弥恵の発言にキョトンと目を丸くしており、やがて堪えきれないとばかりに噴き出した。


「ゼノビア、ちゃん?」


 今度は弥恵の方が目を丸くする。そんな彼女に、ゼノビアは「のーぷろぐれむ」と人差し指を振って余裕の笑みを返した。


彼女マリルに心配は無用です。あれでも私の師匠ですから。べらぼうに強いんですよ、ああ見えて」

「そ、そうなんですか?」

「はい。もちろん──」


 繊細で無機質なまでの美貌に野性味全開なスマイルを浮かべたゼノビアは、振り向きながらその手に刀を造り出す。


「この私もね」


 その切っ先を、窓から部屋を覗く二対の紅い瞳へと差し向けた。


「──ッ!?」


 ベランダの手すりの向こうに、いつの間にやらそいつはいた。

 人型のシルエットでありながら、節々が角張った青い金属質の装甲で覆われた姿は、装飾こそないが日本の戦国甲冑のようでもある。

 耳から後頭部に掛けて羽根状の飾りが着いたフルフェイスヘルメットには顔の部分にX字型の溝が走り、その交差点には赤く光るカメラレンズのような瞳が妖しく明滅していた。

 ゼノビアの背に庇われながら、弥恵は謎の闖入者を、思わず、


(カッコいい……)


 と、恍惚の表情で見つめていた。


(デザイン的にはパワードスーツより搭乗型のロボットに近いわね。日本の甲冑的なデザインは昭和後期の特撮が一番近いかしら。でも00年代のサイバーパンクな雰囲気も混じって──)


 そんな弥恵隠れオタクの心情など知らぬであろうは、空中を音もなく滑り降り、手すりや窓をすり抜けて室内へ押し入ってくる。


「……何者だ、お前?」


 切っ先をほんの僅かにも揺らさずに、ゼノビアが静かに、しかし有無を言わさぬ迫力で詰問した。

 呼吸音すら立てないそいつだったが、ゼノビアを正面から見据えると、くぐもった冷たい声でこう告げた。


「……楽園の女神、アルカディア」

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