冷や水

「ロージー、ねぇ……」


 立ち去ろうとしていたはずのグレアムの友人は、何故かロージーたちの使っている席のそばに留まり、本を探しに行くグレアムの背を見送っていた。隣の机に浅く腰掛け、片方の手を顎に当てて、薄い笑みを浮かべている。

 物語の王子様のような、綺麗な顔立ちの男だった。左の眦にある泣き黒子が魅惑的で甘い印象を受ける。女の子は弱いだろう。だが、その顔に浮かぶ表情は酷薄なもので、なんとなく恐ろしいな、とロージーは密かに思った。

 その男が深緑色の眼差しをこちらに向けたので、ロージーは身を硬くした。山中の沼のようなその瞳に宿るものが決して好意的なものではないと、短い学校生活の経験で察したからだ。


「ロザンナ・キャラハン。お前、あいつに愛称で呼ばせてるのか」


 嘲笑めいた言葉。愛称ではなく本名なのだが、ロージーは反論することなく黙っていた。事情を話す気分にはなれなかったし、こういうときはやり過ごすのが一番なのだ、とこれもまた短い学校生活の中で学んでいた。反応すれば相手は更に悦んでロージーの言い分を曲解し、下らない噂を仕立て上げてくるのだから。

 情けなくはある。が、騒ぎを大きくしても録なことはない。キャラハンの家に迷惑がかかるようなことがあれば、母は、自分は、どうなるか。

 押し黙って俯いたロージーを、フリンと呼ばれていた男はどのように見たのだろうか。


「なあに、あいつのこと好きなの?」

「え? いえ、そんなんじゃ」


 さすがにこれは聴き逃せなくて、ロージーは慌てて否定する。そんな浮ついた気持ちでこの学校にいるのだと誤解されたくなかったし、なにより本当に親身になって勉強を教えてくれているグレアムに悪い。


「そうなのか。二人でいるから、てっきりそういうことなのかと思ったが」

「え……ええ!?」


 ずばりと指摘されて、ロージーは頬が紅潮するのを止められなかった。

 自分も真面目に勉強しているつもりで、そこに疚しい気持ちがあるわけではない。でも、グレアムを尊敬しているのもまた事実で。もしも、二人でいるのを〝お似合い〟だと思われていたとしたら――。

 ふわりとした妄想が、頭の中に呼び起こされる。ロージーは異母兄の代わりに魔法師になることを強いられた身。だが、父はいずれ、かつてと同じようにロージーを何処かへ嫁がせることも考えているに違いない。その先がもし、グレアムのところだったなら、それはとても幸福なことではないか。


「……まあ、でもあいつも婚約者がいるからな」


 失笑をまじえて放たれた言葉が、ふわふわとした温かい妄想を一瞬にして凍りつかせた。

 グレアムに、婚約者。そんな話、ただの一度も――。

 冷や水を浴びせられたようなロージーがなにを考えていたのか察したのだろう、フリンはロージーに侮蔑の視線を投げかけた。


「色目を使うのもほどほどにしておけよ、愛人の娘」

「あ……」


 またしても、冷水。彼はすべてを知って、声をかけてきたのだ。ロージーの立場も、周囲で立てられている噂も、自分さえ気が付かなかったこの想いでさえも。

 頭が真っ白になり、呆然としたロージーになにも声をかけないまま、フリンは何処かへ行ってしまった。


 ほどなくして、本を取りに行ったグレアムが戻ってきた。短めのアッシュブロンド。不愛想な顰め面。フリンと違ってきっちりと着こなした紫紺の制服は凛々しくて、とても頼りになる人で。

 近寄りがたい見た目とは違って、はじめてロージーに優しくしてくれた、とてもとても親切な人。


「待たせたな」


 低く芯のある声がやっぱり優しくて、ロージーの胸はぎゅっと締め付けられた。思わず縋るように彼を見上げてしまう。


「グレアム先輩……」


 一緒にいるなら彼が良い、と思ってしまった。あの男がなにも言わなければ、こんな希望を持つことも、叶わなくて絶望することも、どちらもなかっただろうに。


「どうした? なにかあったか」


 あの男とは違った澄んだ深海色の瞳がロージーを心配そうに覗き込む。その瞳に吸い込まれそうになって、ロージーは慌ててグレアムから目を逸らした。

 フリンが去り際に残して言った言葉が、脳内で再生される。


「いいえ、なんでもないです」


 この人には婚約者がいる。自分なんかが手の届く相手ではない。

 そう思うと胸が張り裂けそうでとても辛かったが、それでもロージーはフリンとの会話をグレアムに語るわけにはいかなかった。


「……なんでも、ないんです」


 だが、結局自分は一人なのか、と思ってしまうと、それはとても寂しくて途方に暮れてしまう。

 木枠の窓の外に見える、地面に降り積もった銀杏の葉。泥に塗れて破れ、色褪せたその黄色い葉が、今の自分の心を体現したかのようで、ロージーはそっと瞼を伏せた。

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