月下の編入生

 太陽の色を映したようなその場所が、弾けた赤色に塗りつぶされたときのことを、今でもまだ悪夢に見る。

 それは幼少時の記憶。

 あのときの恐怖は長いことグレアムの脳裏からこびりついて剥がれないというのに、ジュディスは現在もなお、何事もなかったようにあのときの楽しい想い出を口にする。

 それは、仕方のないことなのかもしれない。

 しかし、その互いに一方通行な想い出が、グレアムには時折苦しくて――



  * * *



 食事を終えたジュディスを女子寮の入り口に送り届けた後。グレアムは、女子寮とは学園の敷地内を東西を分ける線を挟んで対極する位置にある男子寮には戻らず、校舎の北東に位置するドーム状の建物へと向かっていた。ガラス球が三分の一ほど芝生に埋まったような温室を思わせるその建物は、実は魔法の訓練場である。中は内周に沿って階段席が設けられ、闘技場施設のようになっている。授業では戦闘を意識したものや大規模なもの、イベントとなると魔法を使った決闘や競技大会などで用いられているが、それ以外のときは学生たちの練習場として開放されていた。


 グレアムは、自分で言うのもなんだが、成績優秀な学生だった。総合成績でいうのであれば、主席級トップクラスに位置している。ただ、その内訳をみると、得意と不得意がはっきりしていた。座学は一つ二つ問題を取りこぼすことは有れど、いかなる分野でもほぼ完璧な点数を取れている。実技においては、魔法薬調合や魔法解析が得意分野。ただ、戦闘などの魔法の展開に速さを求められる分野が苦手だった。――それでも、成績は上位に食い込んでいることには違いないが。

 普通なら、それでも満足できているのかもしれない。だが、グレアムが求めているのは研究者路線としての実力ではなく、魔法を扱う兵士――魔法師兵としての実力だった。非常時に戦える力が欲しかった。だから、グレアムは時間が空いているとこうして訓練場へ赴いて魔法の訓練を行い、自身の苦手を克服しようと試みていた。


 扉を抜け、観覧席の下を潜り抜ける通路を抜けた先にある広場は、いつも通り閑散としていた。学生たちが自由に使えるよう常時開放されているとはいえ、グレアムのように頻繁に訪れる学生は少数派。イベント以外で混雑するのは、試験前くらいなものである。


 今日もまた、同じ。玻璃越しの月明かりの下には、ただ一人だけ。


 何気なしにその一人に目を向けたグレアムは、思わず眉間に皺を寄せた。その人物は、ここに通い詰めているグレアムには新顔だった。少し小さめの身長。着ているのは、グレアムも見慣れた紫紺の女性用の制服。月明かりで判別し難いが波打った髪はおそらく栗色で、赤いリボンで纏めて右側へと流している。

 彼女は背を伸ばして壁際に立ち竦み、自分の頭の横で魔法の明かりを灯して本を開いていた。入ってきたグレアムには気づかなかったようで、熱心にページに齧りつきぶつぶつとなにかを呟いている。読んでいるのは、おそらく教本だろう。復習だろうか、随分と熱心だ。

 少女は明暗を繰り返す光の下で本をじっと睨みつけたまま、すっと右手を前に突き出した。掌の先で水の球が形成されていく。少女の頭ほどのそれは、金平糖のような角を出したり引っ込めたりと形が安定しないまま、掌の先で留まっている。制御が苦手なのか、とグレアムは判断した。魔法の光が不安定もその所為だろう。彼女も自覚はあるようで、真剣な表情に焦りが浮かんでいる。


 そのとき、グレアムの背に冷たいものが落ちた。彼女が手を伸ばした先には、通路から出てきたまま立ち止まったままグレアムがいる。

 ひゅ、と息を吸い込んで、神経を尖らせる。自身の中を巡る魔素を練り上げて魔力に変え、辺りに満ちた元素の中から望むものを引き寄せ掴む。

 形状をどんどん崩していった少女の水の球が、両側から挟み込まれたようにぐにゃりと歪んだ。魔法の水風船は押し潰され、一方向――グレアムの立つ方向に圧力がかかり、破裂する。

 同時に、彼女の傍の光も消えた。

 月明かりの下、びゅ、と飛び出した水が真っ直ぐ飛んでくるのを察し、グレアムは左下から右上へと自分の右手を振り払った。軌道に沿って半球面系の透明なバリアができあがり、傘となる。

 水が膜に叩きつけられる音が、辺りに響いた。


「え……」


 水流が止まり、周囲が再び静寂に戻ると、少女は手を突き出した格好のまま呆然とグレアムのほうを凝視した。次第に目を大きく見開き、わなわなと身体を震わせて、勢いよく頭を下げる。


「ご、ごめんなさい! わたし、気が付かなくて!」


 この広い場所でもなかなかの大きさの声に、グレアムは大きく溜め息を吐いた。


「まったく……気を付けろ。濡れるところだった」

「はい、その、すみません! ごめんなさい!」


 異なる謝罪の言葉をひとしきり繰り返した少女は、少しだけ顔を上げ、おずおずとグレアムのほうを見た。


「あの、お怪我は」

「幸い、なんとか防げた」

「それは良かったです」


 胸に手を当てて安堵する姿に、グレアムはそれ以上なにも言えなくなった。

 それからじっと少女を見る。女性にしても小柄だが健康的な身体。波打つ栗色の髪に囲われた顔は小さく、そこに嵌まった大きな眼は黄色味を強くした琥珀色。鼻は小さくて少しばかり低く、不安げに窄まった唇はさくらんぼように艶やか。化粧っ気はない割に、頬は綺麗に薔薇色だった。――やはり、見たことのない顔だ。


「あの、なんですか?」


 少女の戸惑った声に、ようやく他人をじろじろと観察してしまったことに気が付いて、グレアムは気まずげに視線を逸らす。


「ああ、いや、すまない。見ない顔だなと思って」

「わたし、編入生なんです。今は四年生」


 なるほど、道理で見たことがないわけだ。グレアムは納得した。彼女の身分は知らないが、貴族の家の出であれば、入学する年頃になっても、家庭教師を雇っているから、と学校に通わない選択をすることもよくあることだった。だが、家庭教師が止めるなどの諸事情で方針を転換して編入という形で入学することがある。彼女はそれだというわけだ。


「ロージー……じゃなかった。ロザンナ・キャラハンです」

「グレアム・アクトン。五年生だ」

「じゃあ、先輩なんですね」


 改めて失礼しました、と今度は落ち着いた様子で頭を下げる。


「でもやっぱり五年生にもなると経験豊富なんですね。あそこでとっさに対応できるなんて……」


 すごいなぁ、ときらきらした目でグレアムを見上げてきた。気まずくなったグレアムは彼女から視線を逸らす。


「……大したことじゃない」


 確かに今は上手くいった。が、グレアムはもともと素早く魔法を使うことは苦手なのだ。今回は身の危険を感じて咄嗟にやったことがたまたまうまくいっただけで、こんな風に尊敬されるようなことではない、とグレアム自身は思っている。


「そうなんですか? わたし、四年生っていっても本格的な魔法の勉強をはじめたのって今年学校に入ってからなんです。だから、みんなすごく見えて……早く追いつきたいと思っているんですけれど」


 さっきみたいに何度やってもうまくいかないのだ、とロザンナは言った。どうしようか、と悩み、この訓練場の存在を知って、今宵ここで練習することにしたのだという。

 真面目だな、とグレアムは感心した。そして共感するところもある。グレアムもこうして、苦手を克服しようとここへ来たのだから。

 そうすると、どうにか力になってあげられないものか、とお節介な気持ちさえ湧き上がってくるものだ。


「……見せてくれ」

「え?」

「もう一度魔法を使ってみてくれ。なにか問題が分かれば、助言しよう」


 少女の顔がぱっと輝いた。


「本当ですか!?」


 グレアムは頷いた。努力する彼女に感心したのも確かだし、他人に教えるということは自らの学びにもなる。グレアムには損することなど何一つなかった。


「ありがとうございます! じゃあ、やってみますね!」

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