5 生徒会長との邂逅

 教務長モルガングが執務棟の廊下を歩いていると、背後から呼び止められた。

 振り向くと、学院長のグリシラが廊下の向こう端から歩み寄ってくるところだった。モルガングはぞっとした。いつもながら、足音がまったくしない。軍の特殊部隊出身だというが、薄気味の悪い女だった。


「教務長、確認したいことがあるのですが」


「なんですかな、学院長」


「先日、王都からの密使が当学院に来たとの情報が《鴉》からありましたが、私にはなにも報告が上がっていません。教務長はなにかご存じではないですか」


 肚の探り合いにかけては老練なモルガングは、胸中をまったく表情に出さない。


「知りませぬが……密使であるなら、私のような無関係な人間が知るわけもないでしょう」


「無関係なら、そうでしょうね」


 モルガングはグリシラに軽く頭を下げて階段に向かった。その背中にグリシラの声がかけられる。


「当学院は育成と研究の場です。くだらない権力闘争の場にしてはならず、そのような干渉はすべて排さねばなりません。そのために教務長もご協力くださいますね」


「……もちろん協力を惜しみませんよ」


 慇懃に答えたモルガングは足早に階段をのぼった。


(目ざとい牝犬め)


(権力闘争の場にしてはならぬ、だと? 笑わせる)


(王族と貴族の子女が集まり、王国の護りの要を育てる場所だぞ。権力と無縁でいられるわけがないだろう)


(しかし、しょせんは魔力もない、筋肉と鋼しか頼れるもののない元軍人よ。我々魔導師マグスの領分にはなにも手出しできまい)


 三階の教務長執務室に戻り、椅子に深く身を沈めたモルガングは、先ほどロベリットから受け取った報告書を広げる。

 本来、モルガングはただの中継役であり、この情報は依頼者にそのまま届けるのが筋だったが、なにかの手札に使えるかもしれない情報を素通りさせるほどモルガングは律儀な人間ではなかった。


「……信じられん。なにかの間違いではないのか」


 報告を読み、漏れたのはそんな言葉だった。


 リュカの占水結果だ。

 女子寮の大浴場の浴槽に満たした聖漿水が計測中にすべて蒸発したという。


(聖漿は魔力を吸収するのだぞ。そんな激しい反応が起きるわけがない)


 しかし、生徒会執行部の三人、生徒会事務局の二人、全員の証言が一致しているという。事務局員の一人は蒸気圧で吹き飛ばされて壁に激突し、上腕部骨折まで負っている。

 モルガングは椅子の背もたれに深く身を沈めて息を吐いた。


(王女ソニアの占水のときですら、大浴槽から水があふれる程度だったのだぞ)


(あれは第六層魔導師マグス、王国最大級の魔力の持ち主だ)


(それを凌駕する魔力量など――あり得ない)


 しばらく考えてから、モルガングはなにがしかの結論を出すことをあきらめた。報告書を小さく畳んで丸め、細い筒に入れ、蝋で封をする。

 部屋の隅の止まり木に歩み寄り、眠っている灰色梟の脚に手紙を巻きつけた。

 梟は目を開き、疑わしげにモルガングをにらんだ。しかしモルガングが手を差し出すと、従順にそこに飛び乗ってくる。

 窓まで行って、梟に届け先を小声で告げ、外に放した。


 翼影が夕空に遠ざかっていくのを見送ってから、モルガングは窓を閉めて椅子に戻る。


(この学院は一体どれだけの闇を抱えているのだ)


(さっさと討魔庁の職位に戻りたいものだ。この件をつつがなく済ませれば王族に貸しができるのだから口利きをしてもらおう)


 モルガングはそう算段しながら通常の書類仕事に戻った。


       * * *


 学院敷地内の遊歩道を、ソニアは息せき切らして走っていた。すでに日が暮れかけ、生徒会塔の長い影が大地に伸びている。

 塔の入り口で、ちょうど反対側から走ってきたエメリンと正面衝突しそうになった。


「きゃっ」


 二人の声が重なる。


「……ソニアさん、ごめんなさい。……見つかりましたか」


 ソニアは首を振った。


「耕作地の方は全部回ったわ」


「男子寮でも、見かけた人はいませんでした」


「昨日の占水の後、ずっと様子がおかしかったのよね。黙りこくっていて。もっと気をつけるべきだったわ……」


 ソニアは悔しげにつぶやく。


 リュカがいなくなったのである。

 昨日の放課後、占水の測定で信じられない結果が出た後、ソニアたち執行部役員三人は生徒会室に戻り、今後の方針を話し合った。リュカは悄然としていたので医務局に行かせた。その後、夕食時には戻ってきて食事をしていたし、翌日の授業にも出かけていったので、ソニアはとくに心配していなかったのだが、放課後になって生徒会室に姿を見せない。同じ科目をとっている初等生に聞いてみると、昼以降の授業に出ていないという。

 生徒会の事務局員何人かにも手伝ってもらって夕刻から捜しているが、見つからない。


(なにをそんなに思い詰めていたの、リュカ)


 刻々と昏くなっていく空を見上げてソニアは考える。


「――ソニア、目撃証言があった」


 声がして振り向くとレイチェルが校舎の方から小走りに寄ってくるところだった。


「放課後すぐ、リュカが西門から出ていくのを見た生徒がいる」


「外に?」


 ソニアは唖然とする。

 もうすぐ夜だ。学院の城壁の外に広がっているのは鬱蒼とした森林である。危険な獣たちが徘徊するようになるし、なによりも悪魔に襲われる危険がある。

「……魔導師マグスの先生方に捜索をお願いしますか」とエメリン。


「いち生徒のためだけにそれはできないわ。出動要請がいつあるかわからない」


 王立魔導学院は学業と育成の場であると同時に、この一帯を警戒する魔導師マグス駐屯地でもある。悪魔出現の報に備えて魔導師マグスたちは待機していなければならない。


「生物学のネイサン先生から犬をお借りしましょう。外なら簡単ににおいをたどれるはず。わたしがひとりで捜しにいくわ」


「ひとりで……?」


 心配顔のエメリンの肩をソニアは優しく叩いた。


「大丈夫。ひとりの方が動きやすいの」


       * * *


 夜風が強まり、頭上で木々の梢がざわめいている。

 リュカは身震いして制服の襟を立てた。春といえど日没後はかなり寒い。学院の制服は意匠こそ凝っているものの防寒の役にはあまり立たないのだ。


(これからどうしよう……)


 太い木の根元にうずくまってリュカは途方に暮れる。


(なにも考えずに出てきてしまった)


(でももう学院にはいられない……)


(魔力を測るだけで怪我をさせてしまった)


(これから先もっとひどいことを起こすかもしれない)


 さりとて、行くあてもない。

 歩いて王都に帰り、てきとうなねぐらを見つけて、また男娼に戻るか。

 いや、人の多い場所はだめだ。悪魔の力が暴走したときに大きな被害が出る。

 もうこのまま森の中で野垂れ死にするしかないのではないか。

 リュカは膝に顔をうずめた。


(この腕の悪魔がいる限り、ぼくはもうどこにもいられないんだ)


(そうだ、斬り落としてしまえばいいんじゃないのか)


 しかし、すぐに思い出す。保護術式とやらのこと。

 ますます暗い気持ちになり、両膝の間に頭を落とし込んで唇を噛んだ。


(どうしようもない)


(ほんとに母さんがこの変な文字を入れて保護術式とやらをかけたのか?)


(どうして? 悪魔をわざわざ保護するなんて)


(そのせいでぼくはもうどこにもいけない)


(あとはここで狼にでも食い殺されるのを待つしか――)


 じわり、と胸の奥の方に熱を感じた。

 なにかがしたたる音、太く湿ったものが引きずられる音、そしてこの世ならざる者の飢えたしゃがれ声。

 めりめりと樹木がへし折られて薙ぎ倒されていく音。倒れた梢から鳥が驚いてわめきながら飛び去る。近づいてくる。一匹だけではない。二匹、いや、三匹……?


 顔を上げた。


 視界を埋める、ほの赤い微光に包まれた醜い肉塊。爛々と欲望を燃やす無数の眼。千の牙の間からこぼれ落ちて下草を溶かす穢らわしい唾液。


(ああそうか。おまえらでもいいや)


 エメリンが喚び出した悪魔と形が似てはいたが、大きさはせいぜいが納屋一つ分ほど。三匹、四匹と集まってきても、あの密儀アルカナのときに感じた絶望とはほど遠い。

 かぎ爪がリュカの喉をとらえ、背後の樹に押しつける。べつの一匹がリュカの右腕をつかんでねじり上げる。激痛の中、ばっくりと開かれた口の中でのたくる悪魔の舌を見つめながら、リュカは思う。


(やっぱり死にたくない)


 右腕と左脚を同時に噛み砕かれた。

 炎と黒煙が悪魔の口中から噴き出す。右腕の保護術式が作動して口腔を中から灼いたのだ。しかし術式が護ってくれるのは右腕だけだ。他の悪魔たちは意に介さずリュカの小さな身体にのしかかり、貪ろうとする。

 リュカは泣きじゃくり、つぶやいていた。記憶の中の母親と同じように。


 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。もう――


「――《砂塵の絶剣サドゥメキア》! 散らせェッ!」


 凛とした声が木々の間を吹き抜けた。

 次の瞬間、リュカの眼前に迫っていた悪魔の鼻面がばっくりと裂けて火と煙混じりの血しぶきが噴き上がり視界を塗り潰す。左脚に食らいついていた悪魔の、蛭のようにぶよぶよとした首もまた切断され、力を失った頭部がリュカの脚をぞろりと吐き出して転がる。


「《砂塵の絶剣サドゥメキア》引き裂け! 一滴も残すな!」


 声に応え、悪魔の赤い肉塊が縦横に斬り刻まれ、木々の幹を血で汚し、下草におぞましい溜まりをつくっていく。リュカは全身を苛む痛みの中、かろうじて動かせる左手で顔の血をぬぐった。

 数百、数千の切片になって崩れていく悪魔たちの肉体の向こう側、あたたかく燃える金色の光が見える。


 少女だ。


 血なまぐさい旋風で豊かなあかがねの髪がなぶられている。


(ソニア……)


 蜻蛉の羽のように透き通って光る魔力の刃を何十と身の回りに浮遊させ、揺らめかせながら、ソニアは歩み寄ってくる。その足下には精悍な二頭の灰色の犬が付き従っている。

 ぐぼ、と鈍い粘着質な音が響いた。ソニアの背後で赤黒い影が隆起する。リュカは目を剥いた。もう一匹いたのだ。


「ソニアっ、後ろ――」


 リュカの警句は途中でばっさり断ち斬られた。ソニアが振り向きもせず、小さく左手を持ち上げたのだ。刃の動きはまったく見えなかった。ただ、ソニアの背後から食らいつこうとのしかかってきた悪魔の巨体の表面に幾筋もの断裂が生まれたかと思うと、次の瞬間には数十の肉壁の重なりへと変わり、そのままばらばらになって崩れ落ちた。

 まだ発熱を続けているぐずぐずの血だまりを踏み越え、ソニアはリュカのそばまで足早に寄ってきた。その目には怒りと哀しみが等分に混在している。


「……帰るわよ」


 ようやくそれだけ口にすると、リュカの脇の下に身体を入れて立ち上がらせた。

 全身が激痛で引き攣れる。

 左脚はほとんど感覚がない。見下ろすと、服の布地はずたずたになって血にまみれ、その下に肉が――それどころか骨らしきものまで見える。


 二匹の犬が心配そうに寄ってきて喉を鳴らす。


「……なんで。……」


 リュカもようやくそれだけ言えた。

 ソニアはリュカの身体をほとんど引きずるようにして歩き出す。


「……検査だけで、怪我人まで出て……これ以上ぼくに関わっていたら――」


「黙りなさい」


 腕に爪が食い込む。


「あなたはうちの生徒よ」


 切れ切れの声でソニアは言う。


「生徒を護るために生徒会はあるの。たとえあなたがあなた自身を見捨てようとも、生徒会はあなたを絶対に見捨てない」


 足は止めない。リュカの体重を支えながら、暗い木々の間を這うようにソニアは歩き続ける。血ではないなにかでリュカの目はぼやけ、曇る。


(どうしてぼくなんかに、そこまでして)


「絶対に。二度と、あんな……ことは」


 ソニアの声は、もはやリュカに向けてのものではなく、自分に言い聞かせているようだった。リュカは胸が締めつけられるほどの痛みをおぼえた。


(なにがあったんだろう)


(どうしてこの人は――)


 そこから先、二人の間で言葉は絶えた。ただ落ち葉と土を踏む音だけが続いた。


 どれだけ歩いただろう。やがて行く手にちらちらと揺れる明かりが見える。森が開け、城壁が現れる。西門のすぐ外に松明を手にした人影がいくつかある。二頭の犬が競うようにしてそちらに駆け出す。


「ソニアさん! リュカさんっ!」


 声がして、駆け寄ってくるのはエメリンだ。

 ソニアの肩につかまっているのが精一杯だったリュカは、目を閉じ、脱力して、暗闇の中に落ちていった。


       * * *


 リュカの怪我は二日で完治した。

 右肩の骨は砕け、左脚は肉が大きくこそぎとられて骨がむき出しになるという重傷だったが、前回と同じようにまったく傷痕も残らず再生した。


 つきっきりで看護――というよりも経過観察――していたレイチェルは目を輝かせ、一日に二十回ほども傷の様子を素描して記録していた。


「すごい。体組織が盛り上がっていくところが実地で観測できた」


 興奮気味にレイチェルは言う。


「受肉した悪魔部分の肉体の再生能力が高まった、というのはよくあるけれど、全身がこんなに再生する例なんて聞いたことがない。あの異常な魔力と関係あるのかどうか」


 知的好奇心をむき出しにしたレイチェルが寝台に上がってきて毛布の中にまで潜り込もうとするのでリュカはあわてて壁際に逃げた。


 ソニアは、まったく口をきいてくれなくなった。

 同じ部屋で寝ているときにも、ソニアとの間には衝立よりもはるかに高く分厚い壁がそびえているように感じられた。


(怒っているんだろうな……)


(しかたない。ぼくは勝手なことをして、助けられてばかりで)


 見捨ててくれた方が気が楽だった。

 助けてもらうというのがこんなに苦しいことだとは思わなかった。


 二日で歩けるようになったが、休日だったのでリュカは引き続き寮の部屋に閉じこもって過ごした。七日に一度の主祭日には王都からの大規模な行商団がやってきて学院の中央広場で市が開かれる。食糧品や日用品ばかりではなく、書籍、画集、画材、楽譜に楽器、装身具などの娯楽品も大量に並ぶため、学院じゅうが浮かれた空気になり、大勢の生徒でごった返す。とくに用事もないのにそんな賑わいの中に出ていくのは気が引けた。

 ソニアも市には興味がないようで、その日は朝からずっと部屋で読書をしていた。

 会話はまったくない。気まずくてしょうがなかった。

 謝らなくては――と思うのだが、なにについてどう謝ればいいのかがわからない。そんなとき、わからないままにとりあえず謝ると却って人を怒らせることをリュカは経験上よく知っていた。

 だから、寝台の上で黙って膝を抱えているしかなかった。


 ふと、窓の外がひときわ騒がしくなった。


「――殿下?」

「そう、太子殿下!」

「来てるの?」

「見に行こ、もうすぐこっち来るって!」


 ソニアが手にしていた本をぱんと閉じて立ち上がった。あわてた様子で窓に駆け寄り、外を眺め、それから小さく息を呑んで踵を返し、部屋を走り出ていく。

 なにごとかと思ったリュカも、しばし思案の末、ソニアの後を追いかけた。


 ソニアとリュカが学院中央広場に着いたとき、ちょうど正門の方から一騎の白馬がゆったりと歩いてくるのが見えた。鞍上には金髪の青年の姿がある。


 広場に集まっていた生徒たちが、ざわつきながら後ずさり、大きな円形の空間ができる。ソニアと、その後ろについてきていたリュカだけが空間に取り残され、白馬の騎乗者を出迎える形になった。


「……お兄様、またおひとりでいらっしゃったんですか」


 ソニアがあきれて言った。


「もちろんだ! 愛する妹に逢いにくるのに侍従は邪魔だろう!」


 そう言って青年は白馬から華麗に飛び降り――着地に失敗して顔から石畳に落ちた。

 集まった生徒たちがざわつく。


「お兄様、まったく……」


 ソニアが助け起こす。


「愛する妹よ! 今日もますます麗しいね!」


 そのまま青年が抱きついてくるのでソニアは投げ倒した。再び彼は石畳を噛む。


「公衆の面前です、おやめください!」


 赤面したソニアが言う。青年は今度は自力で立ち上がる。たしかにソニアとよく似た顔立ちをしている。だれからも祝福されて生まれ育ったのだろうと感じさせる、華やいだ風采の持ち主だった。


(ソニアの兄……ということは……)


「王太子殿下、今日もお美しいわ……」

「あいかわらずソニアさまへの溺愛っぷり、素敵……」

「ちょっと抜けているところも可愛らしい……」


 遠巻きにしている女子生徒たちが顔を上気させ目を潤ませてうっとりしたつぶやきを交わしている。どうやらこの学院にはちょくちょく顔を見せているらしく、人気者のようだった。

 王太子。王位継承第一位。


「そう、いずれこの僕は王になる身だ!」


 王太子は両腕を広げ胸を張って朗々と言う。


「王位についた暁には教会を国有化して僕が長となり、兄姉間でも結婚できるように法を改正すると約束しよう!」


「いいかげんにしてくださいっ! もうお兄様なんて知りませんっ」


 ソニアは真っ赤になって王太子に背を向ける。するとリュカと目が合うことになる。


「あ……」


 お互いに気まずさの極みだった。

 しかし育ちの良さの哀しさか、初対面の二人が引き合わされた場にいてそのまま捨て置いて立ち去ることはできなかったようで、不本意そうな表情をあらわにしながらも、律儀に兄をリュカに紹介する。


「リュカ。こちら、わたしの兄。ウィンザレム公フェリオ」


 それから兄のフェリオを振り返り、リュカを手で示しながら言う。


「お兄様。こちら、わたしの同室生のリュカ」


 フェリオの翡翠色の瞳が大きく見開かれた。リュカをまじまじと見つめたまましばらく動かない。


(……え……なに……? ぼく、なにか怒らせた……?)


 不安になったリュカが後ずさろうとすると、フェリオは大股で寄ってきていきなりリュカの両手をつかんだ。


「僕と結婚してくれ」


 リュカは口を半開きにして硬直した。


「お兄様ッ? なにを言っているのっ?」


「この学院の女子生徒は麗しい娘ばかりだが、この娘は格別だ。ぜひ僕の妻にしたい」


「リュカは男ですッ」


 フェリオは首をかしげ、まだ固まったままのリュカの全身をじっくり眺めた。


「男なわけがないだろう。ソニアの同室生だと言っていなかったか?」


「そっ、それは、その、色々と事情があるんですっ」


「事情……?」とフェリオは二人の顔を見比べる。「ああ、つまり二人はもう結婚を約束した仲だということか」


「ち、ちがっ」


 ソニアは真っ赤になるが、否定しきれないでいると周囲の生徒たちもざわつき始める。


「え、そうなの?」

「そうじゃないかと思ってた」

「でもあの子、平民でしょ?」

「どこかの大貴族の隠し子とかじゃないの?」

「いつも一緒にいるもんね」

「ソニアさまがずっと一人部屋だったのってあの子を待ってたってこと」


 話に尾ひれがつき始めたので耐えきれなくなったソニアは兄の腕をつかんで大股で校舎裏へと引っぱっていった。ところがフェリオがずっとリュカの両手を握ったままだったのでリュカも一緒に引きずられていく羽目になる。


「まったくもうっ、お兄様はなにをしにいらしたんですかっ!」


 周囲の目がなくなったところでソニアは憤然と言う。


「だから、きまっているじゃないか。愛する妹たちに逢いにきたんだよ」


「そういうことを面と向かって――」


 言葉の途中でソニアはふと気づき、口をつぐみ、あらためて兄の顔をうかがう。


「……妹、ですか。……お姉様にも、ということですか」


「そう。ユリアも僕の大切な妹だ。定期的に様子を見にくるのは兄の務めだよ」


 王太子の妹で、ソニアの姉。

 今は不在だという、生徒会長……。


 これはひょっとして部外者は立ち入ってはいけない領域ではないかとリュカは感づき、フェリオの手をそうっと外して気づかれないように立ち去ろうとした。

 ところが今度はソニアがリュカの腕をつかむ。


「お姉様のところにいくのなら、彼も一緒に。よろしいですか」


「え、ええっ?」


 リュカは面食らう。フェリオはあいかわらずにこやかなまま小首を傾げる。


「ふむ。ユリアに関してはだいぶ微妙な家族の問題なのだが……」


 しばらく考えるそぶりを見せてから、わざとらしく掌に拳をぽんと打ちつけた。


「ああ、なるほど。彼はもう婚約していて家族同然ということか」


「そういうことではありませんっ」


 ソニアは顔を紅潮させて反論した。


「ただ、……その、リュカには見せておきたいんです」


 フェリオの返事も待たず、ソニアは踵を返して歩き出す。


「わかったよ」とフェリオは苦笑した。「行こうか、リュカくん」


「……あ、は、はい」


 道すがら、フェリオはリュカを質問責めにしてきた。ソニアと同室というのは着替えのときにどうしているのか、寝床は一緒なのか、ソニアの寝相はどうなのか、服を貸し借りしたりしているのか、といった下世話な質問ばかりで、リュカは答えに窮し、これがほんとうに次代の王となる人間なのかと疑ってしまう。

 三歩先を歩くソニアはしょっちゅう振り返って「お兄様おやめください!」と顔を真っ赤にして怒るが、フェリオはまったく反省の色がない。


 一体どこに向かっているのだろう、早く到着してくれないだろうか――とリュカが祈り始めた頃、ソニアは足を止めた。


 礼拝堂の前だった。


 主祭日の礼拝はとうに終わっており、堂内に人気はない。


 中に足を踏み入れたとたん、それまで喋り通しだったフェリオが黙る。気温がいきなり下がったようにさえ感じられた。彩色窓を通して差し込む色鮮やかな陽光が床や長椅子に美しい模様を落としている。

 主祭壇の右手にある扉から《騎士の間》と呼ばれる、装飾鎧が壁際にずらりと並んだ部屋に入る。そのさらに奥に、無骨な鋼鉄製の大扉があった。


 ソニアは鉄扉の錠を外した。扉の向こうは下り階段が口を開けていた。壁が湾曲しているところを見ると螺旋階段のようだ。かなり勾配がきつい。


 リュカは、密儀アルカナのときのことを思い出した。

 地下深くへと続く暗い穴。

 察してか、ソニアがリュカを振り返って言う。


「ここが、本来の密儀堂よ。……今は使われていないけれど」


 そうだ、あのときレイチェルが説明してくれた。あの天然の洞窟を利用した密儀堂は仮設のもので、ちゃんと造ったものが他にあるのだと。

 壁にかけられていたランプを取って火を入れ、ソニアは階段に足を踏み入れる。フェリオがそれに続き、リュカもおそるおそる扉をくぐる。

 ソニアが扉をしっかりと閉めて内側から施錠するのを見て、嫌な予感をおぼえた。


 兄妹は並んで階段を下り始める。リュカは五段ほど遅れて後を追う。


 ふぞろいな足音が闇の中を落ちていく。


 ソニアの姉――ユリアという名らしい――は、密儀アルカナで事故に遭い、想定をはるかに超えた深度から悪魔を喚び出してしまったのだと聞いている。


 しかし、その事故で死んだわけではない、と。

 この階段の先に――ソニアの姉が、いる……。


 どういうことなのか、リュカにはわからない。

 わからないが、一段下るごとに、わかりそうになる。そんな感触がある。


 エメリンの密儀アルカナの日、仮設の密儀堂に向かう下り階段でも、地底に近づくほどに悪夢に似た悪寒がいや増したが、この階段はあのときの比ではなかった。冷たい液状の鉛を腹の中に直接流し込まれているようだ。それでいて心臓のあたりにはずきずきと硬い熱を感じる。


(この熱は……)


(もう何度も味わってきた)


 体内の悪魔がうずいているのだ。

 どれほど下っただろうか――

 やがて、階段の先に仄赤い明かりが見えてくる。


(この光も知っている)


(なつかしい血のぬかるみの火……)


 階段が尽き、視界が開けた。


 リュカたちは巨大な円形の竪穴の縁にいた。礼拝堂ひとつを丸ごと呑み込めそうなほどの直径がある。深淵そのものが口を開けて獲物を待ち構えているかのようだ。穴の縁をぐるりと幅の広い回廊がめぐっていて、金属の柵がしっかりと円周すべてを囲っている。穴の底から立ちのぼってくる禍々しい赤い光が、手すりや壁や天井を妖しく照らしている。

 壁面は継ぎ目がほとんどわからないくらいに磨き上げられた石組だ。天井にも放射状の梁が渡されている。天然洞窟をほとんどそのまま使っていた仮設の密儀堂とはちがう、人の手になる建築物だとわかる。


 本来の、密儀堂。


「……前に来たときよりも瘴気がずっと濃くなっているな」


 フェリオが眉をひそめてつぶやいた。

 その口調からは、地上にいたときの明朗さも軽薄さも完全に消え失せている。


「はい。じきにお姉様でも抑えきれなくなるでしょう」


 ソニアも硬い声で答える。

 フェリオは手すりへと一歩、また一歩近づいた。

 と、穴の縁からあふれ出てきた赤い靄がフェリオの足下でわだかまり、濃さを増し、凝固したかと思うと、一気に膨れ上がった。


「――ィイイイギィヴゥウゥヴゥィイイイイイイイイイッ」


 脳が直接掻きむしられるような不快な奇声が響いた。靄の塊は今やねじくれた四肢とのたくる胴体を備えた獣に変わっていた。頭部らしき部分がばっくりと横に裂けて、牙がびっしりと生えた口がフェリオを捕らえようとする。


(悪魔!)


「お兄様ッ」


 ソニアが引きつった声で叫んで駆け寄ろうとしたそのとき――


 フェリオの腕が一閃した。


 なにが起きたのか、リュカには視認できなかった。ただ、悪魔の胴体が両腕の付け根のすぐ下のあたりから真っ二つに切断され、石床に崩れ落ちて熱い血しぶきを撒き散らすところを茫然と見つめていた。悪魔の肉体が臭気を放ちながら溶け始めたところで、ようやくリュカは気づく。フェリオの右手には細身の剣が握られている。その瞬間まで、彼が帯剣していたことにすら注意が及んでいなかったのだ。


「……第一層だな。このくらいなら自分で処理できる」


 フェリオはそうつぶやいて剣の血を払い落とし、鞘に収めた。

 戦士の貌だった。まるで別人だ、とリュカはおののく。


「しかし、瘴気から直接実体化するほどになっているのか。想定以上に進んでいるな」


「お兄様、お気をつけて」


 ソニアは兄に寄り添い、手すりに近づいていく。途中で足を止めてリュカを振り返り、ついてくるようにと目で示した。


 怖かった。見てはいけないものが手すりの向こう、地の底に横たわっていることが感じられた。穴に溜まったどろりとした赤い光は、リュカを深淵へといざなう腐敗の光だ。


 けれど、見届けなくてはいけない。


 震える足を進め、ソニアの隣に並ぶ。

 柵の手すりをつかんだソニアは、赤い光を顔に受けながら、穴の底を指さした。


 息を詰め、身を乗り出す。


 どれほどの深さだろう。生徒会塔最上階から見下ろす地上と同じほどの遠さだろうか。円筒形の竪穴の底面ほとんどを占める、なにか巨大なものの影が、赤い炎と血の海の中に見える。広げて伏せられた三対の翼は蛾を思わせる。無数に伸びる節くれ立った太い脚の先は血だまりに沈み、脈動して波紋を生んでいる。


「悪魔……」


 リュカは戦慄してつぶやく。


 エメリンの密儀アルカナで喚び出されたあの個体でさえ、絶望が具現化したかのような巨躯だった。しかしいま眼下にうずくまっているあれは、その何倍の巨きさだろう。


「《黄昏の宣剣サトゥルニア》」


 ソニアがつぶやいた。


「もう名前もわかっている。わたしの《砂塵の絶剣サドゥメキア》と対になる第七層の悪魔。東南東を統べる凶王」


 リュカはソニアの横顔を見つめ、また奈落の底の影に目を戻す。

 第七層。国を滅ぼすほどの化け物が、ああしてほぼ全身を実体化させているというのに、なぜ動いていないのか。

 よくよく見れば、悪魔の胴体のそこかしこに太い金属の鎖が打ち込まれ、壁につながれている。壁側の繋留具の周囲には複雑な呪紋がびっしりと描き込まれている。


(術式でつなぎとめているのか)


(でも、あれだけで動きを封じられるものなのか?)


 ソニアの冷え冷えとした声が続く。


「一対目の翼の付け根あたりを見て。わかる?」


 言われてリュカは目をこらす。


 頭部にいちばん近い翼の、間。

 赤黒くぬらぬらと炎を照り返す体表に、ぽつんとなにか黒いものが引っかかっている。


 制服だ。ソニアが着ているのと同じ、この学院の女子制服の上衣。


 袖に巻かれた赤い腕章までが、ソニアと同じだ。

 リュカは息もできなくなる。


「あれがお姉様」とソニアはつぶやく。


 教えられた今、はっきりと見てとれる。悪魔の体表にただ制服が引っかかっているわけではなかった。人間らしき形をかろうじて留めた肉塊が、悪魔の皮膚に食い込んで埋まっているのだ。下半身ほぼすべてと右半身が赤黒いぶよぶよした肉に同化している。顔と左胸から手にかけてだけが、わずかに――。

 ソニアは息苦しそうに続ける。


「お姉様は第六層を喚び出す計画で密儀アルカナを執行した。万全に術式を組んだし、指だけを授肉して第四層魔導師マグスを目指す計画だったから、お姉様の力なら確実なはずだった。でも、喚び出されたのはあれだったの」


 悪魔のかすかなうめき声が海面を揺らし、壁に踊る炎の影を乱す。


「抑えきれなかった。介添人のわたしも、……なにもできなかった」


「自分を責めるのはよせ、ソニア」


 フェリオが深みの赤い炎を見つめながら厳しい声でささやく。


「第七層だぞ。だれが介添えしていようと、どうにもならなかったはずだ」


 ソニアは首を振る。


「わたしが、もっと強ければ。……あのとき、もっと力のある魔導師マグスでいれば」


 自分自身の言葉によってソニアは切り裂かれ、傷ついていく。


「ああして《黄昏の宣剣サトゥルニア》を封じていられるのは、お姉様が強かったから。お姉様はあそこでまだ生きている。侵蝕圧に耐えて、苦しみ続けて――押しとどめている」


 生徒会長は死んでいない。

 今も生きている。

 死んでいた方がまだ救いがあるほどの、痛みと熱の中で。


「だからわたしは、だれよりも強い魔導師マグスになる。そして、あれを斃す。もう二度と、だれも、あんな地獄に連れていかせはしない」


 手すりの上でソニアの拳が握りしめられる。

 リュカは唇を噛みしめ、苦痛の海に浮かぶ赤い腕章を見つめる。


(この地獄をずっと抱えて、生徒会を続けてきたのか。会長代行として)


(それなのにぼくは、つまらない自分自身のことだけを考えて……身勝手ばかりで)


 気丈に固められたように見えていたソニアの拳は、その実、弱々しく震えている。リュカはだいぶ迷ってから、そっとその上に自分の手を重ねた。ソニアの手はぴくりと反応し、けれどリュカのぬくもりを受け入れる。

 ふつふつと沸き立つ血の海のつぶやきを遠く眼下に聞きながら、リュカは思う。


(ぼくの命は、この人のために使おう)


(この身の最後の一片までも、血の最後の一滴までも)


(この人を護るために――燃やし尽くそう)


 地の底から響く水泡と瘴気の音は、まるで何千もの人々のすすり泣きのように聞こえた。


       * * *


 王太子の見送りは、妹であるソニアひとりきりだった。

 帰り際、学院の女子生徒のほとんどが正門前広場に集まって見送りをしたがったが、ソニアはぴしゃりと言った。


「大事な家族の話があるので、わたしだけで」


 ところがあまりに真剣そうな口調だったために妙な誤解を生んでしまう。


「大事な家族の話……?」

「結婚のことよ、きっと」

「えっ、リュカくんと? 認めさせろってこと?」


 ひそひそ話をしている全員を一列に並べて座らせてきつく説明してやりたかったが、フェリオを早く帰さないと日が暮れてしまうので、ソニアは渋々無視して自分の馬に騎乗した。


 兄妹はあぶみを並べて正門を出た。


「彼とは仲良くやっているようだね。よかった」


 白馬の背でフェリオが笑って言う。


「お兄様まで、おやめください」


 ソニアは栗毛の馬の背でぷいとそっぽを向く。


「実は今回学院に来たのは、妹たちに逢うためでもあるけれど、あのリュカという子の様子を見るためでもあったんだ」


「……え?」


 驚いて兄の横顔を見つめる。


「お母様に頼まれてね。ずいぶん気にしていたから」


「お母様が……? なぜ? リュカのことを知っているのですか」


「あの子を魔導学院にねじ込んだのはお母様の指示らしい。防疫局から聞き出した」


 ソニアは目を見張る。


 たしかに、奇妙な入学だった。密儀アルカナなしで受肉した珍しい人間ともなれば討魔庁のどの研究機関も欲しがっただろうし、平民だからなんの配慮も要らずに徴用できるはずなのだ。それを横から攫うようにして学院に入学させたというのは相当な無理筋であり、王族くらいの権力が働かなければ通らなかっただろう。


「ただ、理由についてはさっぱりだ。お母様に訊いても、なにも教えてくれないんだよ」


「そう……ですか……」


(リュカとお母様にどういう関係が……?)


(みんなが噂しているように実はリュカは王族の血筋を引いているの?)


(ま、ま、まさかお父様の隠し子っ?)


(それだとわたしとリュカは異母兄妹ということに――)


「兄妹でも結婚できるように僕が法を変えるから大丈夫だよ」


「なっ、なんの話ですかお兄様っ?」


 ソニアの声は裏返る。


「リュカは、そっ、そういうのではありませんから! あくまでもひとつの可能性として」


「ほんとうにそんなことを考えていたんだね、ソニア……」


 フェリオも少々あきれている。鎌をかけられたと知ったソニアは真っ赤になる。その様子を見てフェリオは笑った。


「ほんとうにそんな事情だったら、お母様も僕には頼まないさ。自分でこっそり見にくるだろう。あの人だって学院の卒業生だからね、一応の口実もある」


「お兄様は普段から遊び歩いているからあれだけの騒ぎで済んでいるんです。お母様が同じことをしたら大変です。王妃ですよ。軍が動くかもしれません」


「それはそうだ。あっはっは」


 笑い事ではない、とソニアは思う。

 しかし、フェリオがこうして単騎で気軽に城外へと遊びに出たり、妹への色情を隠さずにあらわしたりするのは、半分以上演技なのである。


 丘をひとつ越えたところで、フェリオは手綱を引いて馬を止めた。あたりを見回し、付近にだれもいないことをたしかめてから声をひそめて言う。


「学院に来た一番の目的は、警告のためだ」


 兄の顔からは笑みも明るさも完全に消えている。


「先日、諸侯の長子らを招いて交流のための狩りを開いた。そこで僕は命を狙われた」


 ソニアは目を剥いてフェリオを凝視する。


「これまでも殺されかけたことは何度もあったけれどね、実際に刺客が確認されたのは今回がはじめてだ」


「……だれの手の者だったんですか」


「わからない。歯に仕込んでいた毒で自害した。ただ、使っていた毒が南方イズール由来のものらしい。そうそう手に入るものじゃない」


 イズールは海を隔てた異教の国である。交易できる者は限られている。


「ときに、副会長のエメリン嬢が密儀アルカナで死にかけたそうだね」


「……はい。お聞き及びですか」


「状況がユリアのときと似ていると」


 そこでソニアはレイチェルの言葉を思い出す。密儀アルカナの失敗は何者かの作為だった可能性がある、と。


「狙われたのはエメリン嬢ではなく、ソニア、おまえかもしれない」


 ソニアは息を呑む。フェリオは冷ややかに続ける。


「僕の兄三人は、僕がまだ物心もついていない頃にみんな死んでいる。疫病で、という話だが、怪しいものだ。我が国の王位継承は直系優先だからね。僕の言っていること、わかるね?」


 王の直系子孫すべてがいなくなってはじめて、傍系――兄弟姉妹関係の血縁者へと継承権が移る。

 現国王アランシス四世の六人の子のうち、三人は幼少期に病死し、第一王女ユリアも公的には死亡扱いとなっている。王太子フェリオと第二王女ソニアが、子を成す前に死亡したとすれば、王位は――


「……ロンバルシス叔父様……が……?」


 王弟ロンバルシスとその一族は、王室の一大勢力だ。


「王室は毒蛇の巣だ、とお父様はおっしゃっていたよ。まるで他人事みたいに」


 フェリオはそう言って哀しげに首を振った。


「ともかく、気をつけるように。正直なところ、あのリュカという子も、お母様が入学させたという話を聞いていなければ疑っていたところだ」


「それは――」


 たしかにそうだ。最近いきなり学院にやってきた人間で、身元も不確かなのだ。


「僕の方でもお母様を問い詰めてみる。生死に関わるんだ、隠し事なんてしている場合じゃないとわかってもらうしかない。そちらもなにかわかったらすぐ梟で報せてくれ」


 フェリオは手綱を持ち上げた。


「無事を祈る。愛しているよ、ソニア」


 白馬は丘を駆け下りていった。


 ソニアはしばらく馬上でうつむき、じっと物思いに沈んでいたが、やがて手綱を引いて馬の首を巡らせ、学院への道を戻り始めた。

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