4 ひとつの転機

 ミシェルとの商談のためにとおされたグランドホテルの社交室は、気だるい午後の色に染まっていた。

 運ばれてきたコーヒーと紅茶の暗色が、空気に薄暗ささえをも添える。

 白いカップと取り揃えた白磁の器にもられたナツメをつまみながら、僕たちは販路の相談にひと段落つけた。

 予定よりもずっと早く仕事を済ませた僕たちは、近況の話をしながら余暇をつぶすことにした。


「それで、最近調子はどうなんだよ」

「最高だね」


 木象嵌トランプケースから出したカードを切る合間を、短い言葉が埋める。


「それはおまえの顔見りゃわかるさ。まだコトコと喧嘩中でさみしいって書いてあるぜ」

「君の目は常々悪くない色をしていると思っていたが、どうやらガラス玉だったようだね。生憎だが、僕は彼女と喧嘩などしていないよ」

「じゃ、俺の誤解だって?」


 僕の口先の誤魔化しに、ミシェルは肩を竦めてみせる。

 なるほど悪縁で結ばれた昔馴染みだけあって、彼はすべて見通すような目をしていた。


「コトコに避けられてるのに違いないんだろ?」

「だが、喧嘩ではない。全面的に僕が悪いだけの話だからね」


 思い返すは、先日の夕べ。母と別れ、琴子くんにすべてを話そうと決意した日のことだ。


 結局、その決意は果たされなかった。僕がなにを言わんとしているかを察したらしい彼女の様子を見て、僕が胸中を告げるのを取りやめたからだ。


 ずっと、兄のようにそばにいようと思っていた。

 だが、今になって想いを告げる気になった。

 僕の心変わりが引き起こした不信が今、彼女を苛んでいる。


 これまで兄弟のような顔でそばにいた男から恋情を抱かれていると知れば、当然ながら普通の少女ならば動揺するだろう。なにせ、ひとつ屋根の下に暮らす相手だ。気味が悪く感じたとて、彼女に罪はない。

 それがわかっていたからこそ、僕は目を閉じた。


 ――時間が必要だろう。


 深々とため息をついて、コーヒーに砂糖を沈める。さらにミルクを加え、スプーンでゆっくりと溶いているとホテルマンがやってきた。

 そして、なにごとかをミシェルに耳打ちする。直後、ミシェルが見事なオウム返しを披露したおかげて、その内容はそっくりそのまま僕にも伝わった。


「えっ、俺のコチョウが会いに来たって? すぐに案内してやってくれ。いいだろ、ユキチカ。俺のコチョウを呼んでも」

「やれ、ずいぶんな物言いじゃないか。まだ彼女は君の情人ではないだろうに」


 芸妓胡蝶とミシェル・ロレーヌは春先から今に至るまで、とある賭けを続けている。ミシェルに彼女の心を射落とせるか。未だ、その勝敗はついていない。

 だが、ミシェルはあえて現実から目を逸らしているのか――あるいは夏と恋の熱に浮かれてのぼせあがった結果、正気を失くしたか――「俺の」と強調して彼女を呼んだ。


「まあ、好きにしたまえよ。なんにせよ僕もそろそろ暇をもらうつもりだったからね。せいぜい楽しむといい」


 僕とミシェルのカードゲームなど、恋のゲームの二の次だ。僕は机の上に散らばるカードを取りまとめ、ケースに戻した。


 それに胡蝶がここに来たということは、琴子くんとの密談は済んでいるはずだった。


 ならば、僕が帰宅をしても問題あるまい。同性の人間と羽を伸ばそうとした琴子くんの邪魔にはならないだろうから。


「失礼します。胡蝶さまをお連れいたしました」


 僕がちょうど帰り支度を整えたところへ、年若いボーイに連れられて胡蝶がやってきた。


 炎天下を急いできたのか、彼女の肌はかすかに汗ばんで上気している。そのおかげか、少年はすっかり彼女の色香に参っているらしい。頬を彼女とお揃いのように赤くして、ちらちらとその姿を盗み見ている。

 だが、赤くなったのは少年だけではない。ミシェルもすっかり甘い顔をして彼女に向けて両手を広げた。


「コチョウ! どうしたんだ? コチョウから会いに来てくれるなんて、嬉しすぎて今すぐ蒸発しそうなんだが、それはまずいと思うから、ちょっとそこのグラスに入った水を俺に浴びせかけてくれ」

「ロレーヌの旦那は暑さにやられてしまったのかしら。申し訳ありませんが、今日は片桐の旦那にお話があるんです。先ほど、ロレーヌの旦那のところへ伺うとおっしゃっていたので、きっとこちらだと思って参りましたの」

「……僕に?」


 駆け寄ったミシェルを素通りして、胡蝶が歩み寄ってくる。

 すっかり蚊帳の外にいると思っていたところで突然に名指しされ、僕は顔を上げた。すかさず、ミシェルとボーイの視線が頬に突き刺さる。

 いつか本当に立派な得物で刺されそうだ、と思った。せいぜい夜道に注意するとしよう。


「片桐の旦那、電報をお送りしようかと思ったのですが、直接窺ったほうが早いと存じまして。突然押しかけた無礼をお許しください。ただ、お嬢さんがお兄さまとお出かけになったので、お伝えしたかったのです。ぶしつけながら、聞こえてしまったお話もお耳に入れたほうがよいかと思いまして……。そのお話というのが……」

「片桐さま、東京の花菱さまよりお電話がかかっています。お話されますか」


 珍しく動揺しているらしい、彼女の途切れた言葉は遮られた。別のボーイが姿を現したためだ。

 彼が部屋に入ってきたことで、あっという間に社交室は人口密集地帯へと化す。


「どうやら、今日はずいぶんと忙しい日のようだね」


 花菱家からの電話というのも珍しい。

 もとより日中は自宅を留守がちのため、いざという時はミシェルの滞在するグランドホテルを連絡窓口にしていたが、実際にかかってきたのは初めてのことだった。

 今日いらっしゃるとは聞いていなかった兄君の件だろうか。確認のため、僕はひとまずエントランスへ向かうことにした。


「そうだ。それで胡蝶、兄君はなんと?」

「それが……花菱家ご当主がご危篤、と」


 息を飲む。まるきり想定外の情報に、頭をよぎったのは琴子くんの顔だった。


(……兄君が迎えに来たのは、このためか?)


 しかし、なぜ。

 ご当主は持病もなく、健康だったはずだ。還暦祝いでお会いしてから数か月と経っていない。いったい何事が起きたのか、すぐに出た電話でもその答えは明らかにはならなかった。

 曖昧模糊とした現況に、気がかりばかりが膨れ上がる。焦燥したとて仕方ないと知りながら、落ち着くこともできずに僕は電話を切った。そして、後を追いかけてきていた胡蝶とミシェルを振り返る。


「胡蝶……、答えてくれ」


 僕のひとつの問いに、胡蝶はためらいがちに答えた。


「ですが、たしかではありませんよ。私は門からおふたりをお見送りしたにすぎませんので」

「いや、助かった。礼を言おう。……ミスター、すぐに僕の車の準備を」


 僕が出した指示を受けて、駐車した車の準備のためにボーイがエントランスを飛び出していく。その後を追うように、僕も駐車場へと向かった。ミシェルはさすがに戸惑った様子で僕の背に叫んだ。


「おいユキチカ、車で行くつもりか? 東京なら、きっと電気鉄道のほうが早いぜ」

「いいや、東京には行かない。あるいは自体が最悪の方向に動くぞ」


 足元から怖気立つような、暗澹たる兆し。それは、かすかながらにも形を持ち始めたひとつの予感だった。

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