魏志倭人伝の記述通りの墳丘墓が宮崎市にある!!

 アマチュア研究家日高祥氏の調査した墳丘墓は、氏の著書でも表記が一定しませんが、宮崎市大字瓜生野の笠置かさご山という場所にありますので、本稿では「笠置山墳丘墓」と呼称します。


 前方後円墳(または前方後円型墳丘墓)は、何故あのような形状なのでしょうか。

 今もって謎です。ですが長年の研究により、例えば応神陵や仁徳陵のような完成形に至るまで、トレンドがどのように変化していったのかはおおよそ判明しています。


 まずは「帆立貝式」。丁度ホタテの貝殻のように、大きな後円部にちょろっと小ぶりな・・・・前方部が付属します。

 この帆立貝式は、古墳時代を通じてずっと築造されているようで、その外観だけで築造時期を推定するのは困難です。


 初期型として一番明確なのは、「柄鏡式」でしょう。丁度手鏡のように、大きな後円部に細長い・・・前方部が付属します。

 もう一つが「バチ型」と呼ばれるもので、大きめの後円部に、やはり比較的細長い前方部が付属します。前方部と後円部接続部分のくびれ・・・が顕著で、前方部終端に向かって幅が緩やかに広がっています。丁度三味線のバチのような形状をしているため、バチ型と呼称されるわけです。

 なお、そのバチ型のうち、前方部が寸詰まりのタイプが全国に散見されます。弥生墳丘墓であることが確認されており、最初期型と見做されています。このタイプを特に「纏向型」と呼んでいます。


 つまり前方後円型墳丘墓は、最初はいずれも前方部が細かったようです。それが槨構造を有する古墳となり、前方部も次第に幅広に変化し貫禄がつき始めます。そしてくびれ部も太くなり、デッキのような付属部(造出つくりだし部)が生じたりして、私達がよく知る応神陵や仁徳陵のような形状へと発達するわけです。


 大きな前方後円墳は現在、大概樹木などに覆われていて、正確な外観が分かりません。ですが調査資料の測量図などを見れば、私達素人でも、

「あ、これはバチ型だから相当古いな。おっと、こっちはくびれ部が太いから中期以降だな」

 といった具合におおよその判断がつきます。


 宮崎県内には、全長100mクラスの初期型前方後円墳が多数あります。いや、一部は弥生墳丘墓かもしれませんが。……

 そういった古墳の変化を見るに、かの有名な西都原古墳群(宮崎県西都市)は、卑弥呼邪馬台国時代より少々後に発達したと考えられます。

 西都原古墳群には300を超える古墳があり、幸田も過去、頻繁に足を運んでいます。

 またその近隣にも膨大な古墳が存在し、全国有数の強大な勢力が存在した事を証明しています。ですが最初期型の古墳と思われるものは少ないため、卑弥呼よりも後の時代を担った場所だと感じます。


 一方、前節で紹介した生目古墳群(宮崎市)は、西都原古墳群よりも少々早く発達したように感じます。初期型の大型古墳がメインと言える構成です。

 加えて近隣に、生目古墳群との関連が考えられる、前述の笠置山墳丘墓があるのです。

 ですからまず弥生期より、宮崎市の方に日向勢力の拠点が在った。その後次第に西都市の方へと拠点が遷移したか、或いはエジプトの王家の谷のように有力者の墓のみ・・が西都市側に築造された……と想像します。


 宮崎市の中心地は、概ね海抜ゼロm地帯です。長い歴史の中で、有名な日向灘地震が度々発生しており、大規模な津波被害に見舞われています。

 平野であり大都市建造に向いているため、まず宮崎市付近が日向勢力の本拠地として発展した。しかし地震による津波被害、台風による洪水被害に耐えかね、広い台地である西都原に拠点を移した……という推測も成り立ちます。


 いずれにせよ、宮崎平野には紀元前より強大な勢力が存在しました。

 勢力の一部は、神武天皇兄弟と共に東征を果たしました。一方日向国に残存した勢力は、卑弥呼邪馬台国時代も、そしてその後も健在でした。

 これは西都原古墳群の膨大な出土品からも判明します。瀬戸内産や畿内産の、土器や武具等が多数見つかっているのです。

 それを素直に捉えれば、日向勢力が強大な権力を有していたか、もしくは豊かな経済力のおかげで、交易にて広域から様々な品々を入手可能だったか……のいずれかでしょう。これこそが幸田の言う「本家ヤマト勢力」という概念の根拠です。


 そんな古代日向――宮崎平野――に、前述の笠置山墳丘墓が築かれました。

 残念ながら前述の通り、ろくな調査が行われずして、その一部は既に破壊されています。

 幸田もこの墳丘墓の調査について、宮崎県に確認してみましたが、記録すらろくに残っていないそうです(この件、次章にて再度述べます)

 そのためアマチュア日高祥氏による調査記録しかありません。ですが氏の尽力により、驚くべき事実が浮かび上がります。笠置山墳丘墓は単体の弥生墳丘墓にあらず、大規模な葬祭複合体コンプレックスだというのです。


 卑弥呼邪馬台国との兼ね合いで一番興味を惹かれるのが、墳丘墓脇に多数の土壙墓が存在する、という点です。

 氏も、全てを調査し正確な数を把握できたわけではないそうですが、それでも100を超えるとのこと。これぞ正に、

「徇葬者は奴婢百余人」

 という魏志倭人伝の記述と一致します。


 幸田は何も、

「笠置山墳丘墓こそが卑弥呼の墓だ!!」

 と主張しているわけではありません。

 しかし神武東征以来の歴史観、それを裏付ける考古学的成果、そしてそのど真ん中に魏志倭人伝記述にピッタリ一致する考古学上の遺物があるわけです。

 つまりそれは、卑弥呼の亡くなった頃の宮崎に、

「首長が亡くなれば、槨の無い径百余歩(約150m)規模の墳丘墓を築いて埋葬した。その傍らに100人以上を殉葬した」

 という、魏志倭人伝の記述通りの風習が存在した事を裏付けているのです。


 卑弥呼邪馬台国は古代宮崎平野だった。――

 現時点で邪馬台国宮崎説が、客観的総合的に考えて最も有力であるというのは、否定の余地がないと幸田は考えます。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る