卑弥呼の墓を探す手がかりとは

 卑弥呼はそもそも、弥生時代の人なのでしょうか。それとも古墳時代の人なのでしょうか。

「卑弥呼が弥生時代の人ならば、弥生時代の墓を調べればいいじゃん。古墳時代の人なら、古墳を調査しまくれば卑弥呼の墓が特定出来るんじゃね!?」

 と思いませんか?


 残念ながら、それは判然としません。弥生時代だとか古墳時代だといった時代区分は、後世の我々が勝手に定義しているだけですから。

 学者先生方は、

「卑弥呼の墓が見つかり、それが弥生時代の物であれば卑弥呼は弥生人。逆に古墳であれば、卑弥呼を古墳時代の人とみなす」

 と言っています。ですので両方共調べる必要があります。


 ちなみに前節でも触れたように、近年、弥生時代に築造された前方後円墳(墳丘墓)が見つかっています。

 つまり、外見はどう見ても前方後円墳なのです。しかし実際に掘ってみると、出土品が弥生時代の物ばかりなのです。今や古墳は、外観のみではそれが本当に古墳なのか、判別不能なのです。


 ですが弥生時代と古墳時代という時代区分を定めてしまった以上、どちらの時代の墓なのか、を明らかにせざるを得ません。そこで学者先生方は、

「内部を調査してみて、槨構造(粘土槨や石槨)があれば古墳。槨が無く、直接棺が埋められているシンプル構造であれば、(弥生)墳丘墓」

 という、非常に苦しい「ものさし」を持ち出し、時代区分の定義を維持しています。そんなどうでも良い些細な区分に、意味があるのでしょうか。さっさと改めるべきでしょう。


 近年では、

「卑弥呼邪馬台国時代を『古墳時代早期』とする」

 という新たな時代区分が提唱されています。

 しかしそれもまた、釈然としませんね。結局のところ、槨の有無なんぞで歴史の時代区分を行うこと自体が間違っている、と幸田は考えます。


 とういわけで謎解き視点に話を戻しますと、卑弥呼の墓は、墳丘墓なのか古墳なのか不明なのです。予め、どちらか見当をつけてから調査する……というわけにはいきません。

 そもそも両者を外観から判断すること自体が無理で、結局は掘ってみなければ判らないわけです。

 ですが、膨大な古墳を片っ端から次々と発掘調査するわけにはいきません。また有望な古墳ほど、国史跡に指定されていたりして発掘調査が困難だったりします。だから未だに卑弥呼の墓が見つからないのです。邪馬台国の場所が判然としないのです。


 さて、困りました。他に手がかりはないものでしょうか。


 ちなみに魏志倭人伝には、卑弥呼の墓について、

「卑弥呼以って死す。つかを大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人」

 とだけ書かれています。

 径百余歩とは、諸説ありますが150m位だろうという説がスタンダードでしょうか。つまり「つか」――墳丘墓または古墳――だったという事と、全長が150mクラスだった事だけが、魏志倭人伝の記述から判明します。

 円墳だったのか方墳だったのか、前方後円墳だったのか、その形状については全く判りません。100人超の殉葬者についても、これまた実際に掘ってみなければ判りません。


 ですので卑弥呼の墓のターゲットは、

「全長150mクラスの、弥生後期の墳丘墓もしくは最初期型の古墳」

 となります。

 円墳かもしれないし方墳かもしれません。ですが、卑弥呼の墓を探す者にとっては幸いなことに、円墳は最大の物でも直径110m程度なのです。かつ円墳の大型化も、卑弥呼の時代より1世紀以上後です。さらに方墳にいたっては、最大でもせいぜい1辺60mクラスです。

 ですから卑弥呼の墓は、まず円墳や方墳ではないでしょう。必然的に、

「前方後円型の弥生墳丘墓か、もしくは最初期型の前方後円墳を探すべし。かつそのサイズは全長150mクラスだろう」

 という結論に至ります。


 余談ですが、これまた珍説奇説がありまして、

「『径百余歩』、つまり直径百歩だから『円墳』だったに違いない」

 だとか、

「もし前方後円墳だったとすれば、そりゃもう、魏朝の人々はその奇妙な形状についてひと言ぐらい触れている筈だろう。でも単に『つか』と表記しているのみだから、卑弥呼の墓は円墳だったに違いない」

 だとか、はたまた、

「径百余歩規模なら、『山』や『台』などと表記する筈。それを『冢』と表記しているのだから、実際はせいぜい直径数十mクラスだったのだろう」

 ……などといった調子です。


 ですが皆さん、100m超級の古墳が目の前にある事を想像してみて下さい。

 何に見えますか? 全体像が掴めますか? ドローンはおろか航空写真もないのに、前方後円型をしていると判るでしょうか!?

 昔の人々は、墳墓の傍らから眺めるしかないのです。単なる幅広の、塚にしか見えない筈です。

 実際、古代や中世の人々は、前方後円墳の形状を正確に掴めていませんでした。瓢箪型だとか、宮車(いわゆる牛車)のような形状だと認識していたのです。それは卑弥呼の墓築造当時の魏朝の人々とて同様でしょう。


 また、径百余歩は誇張表現に過ぎず、実際はせいぜい数十mクラスだっただろう……という説もちょくちょく見かけますが、これまた全く噴飯モノです。

 100m超級の弥生墳丘墓や初期型古墳が全く存在しないか、極めてレアなのであれば、おっしゃる通りかもしれません。ですが、在る所には幾らでも在るのです。アナタが比定地として挙げている場所に、小さな古墳又は墳丘墓しか存在しないだけの話です(笑) 要するに、そこが比定地として相応しくないという証拠です。


 次節のテーマとも絡みますが、魏朝が対等外交の相手と選んだ卑弥呼の墓が、そんなに小さいでしょうか。そんなわけないですよね。

 そもそも殉葬者が100人以上もいたというのに、数十mクラスの墓だったなんて……どんな冗談でしょうか。共同墓地ですか(苦笑)


 というわけで、多くの珍説奇説はことごとく、ここでご退場となります。ありがとうございました(笑)


 弥生後期の前方後円型墳丘墓、もしくは最初期型の前方後円墳。なおかつ全長が百数十mクラス。――

 ターゲットがそう絞られると、そりゃもう……その所在地は非常に限られます。


 そうそう。魏志倭人伝には、倭国の習俗として、

「その死には、棺有りて槨無し。土で封じ冢を作る」

 と書かれています。つまり当時の倭国の墓には、槨構造が無かったようです。

 であれば、やはり卑弥呼の墓は前方後円型墳丘墓・・・である可能性が濃厚ですね。全長百数十mクラスの墳丘墓なんて、ますます所在地が限られます。

 結局、邪馬台国の比定地なんて、考古学的にも答えが出ているのです。

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