魏朝使者御一行様の渡航ルート

 さて、次は、

「又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海かんかいう。一大国に至る」

 と書かれています。

 恐らく対馬海峡(東水道)を渡って壱岐いき島に至ったのでしょう。何故なら、他に現実的な候補がありません(笑)


 なお、直線距離は70km強といったところでしょうか。これまた水行千里の定義に概ね適うと言えるでしょう。

 いや、「千余里」ですから、日没過ぎてギリギリの条件で渡航したかもしれません。

 これは、対馬をぐるりと半周してから到着地点の対岸に廻り、そこから改めて対馬海峡(東水道)を渡るというロスを考慮すれば、なるほどと頷ける距離でしょう。対馬から壱岐は目視可能です。だからこそ千余里であっても、目の前にぼんやりと見える壱岐の島影を目指し、どうにか航海出来たのだと想像します。


 次に、

「又、一海を渡る。千余里。末盧まつら国に至る」

 とあります。

 これまた壱岐島をぐるりと半周してから到着地点対岸に廻り、東松浦半島脇の唐津湾に向かったと考えられます。九州上陸地点の、定説となっています。


 なお、これには異論もあります。

「いやいやいや。唐津湾ではなく、現在の宗像市付近に向かった筈だ。宗像市こそが末盧国で、次の伊都国は福岡県中央部にあった」

 という説を唱える人も、少なくないようです。

「壱岐-唐津湾ルートは、千余里にしては距離が短過ぎる」

 だそうです。

 なるほど。……


 ですが、この説には重大な欠陥があります。

 それはつまり、

「半島南岸狗邪韓国から宗像付近への上陸を目指すなら、対馬-壱岐ー宗像ルートではなく、対馬ー沖ノ島-宗像ルートを辿った筈だ」

 というわけです。先般、世界文化遺産に登録された、あの沖ノ島です。


 実は「対馬ー沖ノ島-宗像ルート」こそが、縄文以来の九州ー半島往来ルートらしいのです。

 沖ノ島は縄文以降の、九州や半島の遺物が大量に存在します。つまり半島から対馬を経由し宗像を目指すのであれば、対馬の次は壱岐ならぬ、沖ノ島へ渡った筈なのです。

 皆さんもご自身で地図をご確認の上、ご納得頂きたいと思います。


 また当時の航海事情を想像するに、往路のみならず復路の事も考慮して航路を設定した筈です。

 往路は一番風の弱い夏場の、しかも台風の来ないワンチャンスを狙って、使者御一行様がやって来たと思われます。であれば復路は冬場か、翌年の春でしょう。その時期に再び、宗像から壱岐に渡るのは、海流の関係でかなり難易度が高いと思われます。いや不可能だったかもしれません。


 つまり、壱岐から宗像付近を目指したという説は、単なる机上の空論である蓋然性が高いと言わざるを得ないのです。

 実際、後世豊臣秀吉が朝鮮出兵を敢行した時も、出港地を東松浦半島に定めました。これは対馬海峡の潮の向き、速度、及びその季節変化を考慮し、

「東松浦半島こそが最適」

 と判断したのではないでしょうか。


 3世紀の邪馬台国人、及び魏朝使者御一行様も、必然的に同じ判断をした……と考えて良いと思います。

 現代の、動力付きの大型船舶ならいざしらず、弥生時代ならばそういった航路設定をわずかに誤っただけで、命取りになるのです。一番安全かつ合理的な航路を採ったことでしょう。

 確かに千余里には少々距離が足りないと言えますが、前節にて説明した「水行千里」の意味を考えれば、概ね条件に適っているのではないでしょうか。


 なお、以上の「狗邪韓国-対馬-壱岐-唐津湾ルート」に関しまして、海路事情に詳しい方がいらっしゃるようでしたらご意見をお聞かせ頂きたいと思います。

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