#2-2

「まったく、ノワールったら、またこなかったのね」

 舞台が終わり、袖にはけたあと、そう言って彼女は胸を反らして腕を組んだ。「シアメーセさん、お疲れ様です」と声をかけてくるマネージャーに、「このあと抜けるから」と高飛車に告げる。マネージャーは「はいはい」と勝手知ったる様子で頷くと、「とりあえず水を飲んでくださいね」と飲料水を渡した。

 シアメーセは、この町で一番だと言われている、人気の舞台女優だ。その麗しい外見と長い白髪、いつも身にまとっているトレードマークの豪華なファー、数億ものの指輪やネックレスなどが、「シアメーセ」という人物の派手な女優像を作り上げている。

 「ノワールの屋敷にいくから、電話しておいて! 留守だったら許さないわよ」と、高いヒールを鳴らし出口に向かうシアメーセの背中にマネージャーが、「いなかったらソラくんに頼んでくださいね!」と声をかけたのを最後に、シアメーセは舞台場を出て行った。

「信じられないわ、ノワールの奴。もしかして照れているのかしら」

 シアメーセは「なるほど。そういうことね」とひとりでにんまり笑った。てきとうな馬車を捕まえて乗り込み、ノワールの屋敷へと向かう。

 しかしノワールの屋敷についたはいいものの、そこに彼はいなかった。彼の使いである、ソラという、シアメーセとしても顔なじみの少年に、シアメーセは不機嫌を隠しもせず、「電話したでしょう? どうしてノワールがいないのよ」

「申し訳ありません、シアメーセ様。ノワール様はいまちょうど、ご友人と釣りにいかれていて」

「またそんな、ノワールったら、くだらないことを! 早く呼び戻して頂戴。あなたが走っていくのよ、ソラ。ほら早く」

 シアメーセは眉根を寄せてそうソラに詰め寄る。ソラは困り果てて、「またそんなことを仰る……!」と至極当然の文句を垂れた。そんなソラの言葉はまったく耳に入らない様子で、シアメーセは玄関の戸に触れて、ソラを振り返り、「私は勝手に屋敷でくつろいでいるから、ソラはノワールをお願いね」

 こんなときばかり妖艶に微笑んだシアメーセに、ソラは「我儘を言わないでくださいっ」と負け台詞を吐こうとしたのだが、彼が言い終わる前にシアメーセは屋敷に入り玄関を閉めてしまった。ご丁寧にもがちゃりと錠が下りる音がして、自分があろうことか客人に締め出されたことを知ってソラは肩を落とす。

「これだから、あの人は苦手なんだ……」

 うんざりと呟いても、勿論当人には聞こえないし、目の前に本人がいたとしても、彼女なら「なあに?」と笑って済ませるだろう。「怖い女性だよ、ほんとうに」、とソラは口の中で呟いて、しぶしぶ屋敷の主であるノワールを探しに、馬を連れて屋敷を出た。

 ノワールは、呑気に彼の友人と釣りを楽しんでいた。「ノワール様!」と耳に馴染んだ使用人の声が飛んできて、驚いて使用人――ソラのほうを見る。

 ノワールの目が驚きに染まっているのを見ながら、ソラは馬から降りると、彼の腕を無遠慮に掴む。「捕まえましたよ! シアメーセ様がいらっしゃっているんです。ノワール様がお屋敷に戻ってくださるまで、俺は梃子でも動きませんからね!」

 シアメーセ、という名をきいて、ノワールは驚いていた顔色をすんと引っ込めた。「そう。わかった」とあっさり頷いて、友人との談笑の続きに入ろうとする。それを見ていたノワールの友人も心得顔で話を続けようとするものだから、ソラとしてはたまったものではない。

 「ノワール様! お願いします!」と強く掴んでいた腕をすばやく離し、ソラはその腰に縋りついた。

 対するノワールは、そんなソラに「わあ」とも言わず、「いやだよ」と短く告げて、「はいはい、おしまい」とでも言わんばかりに、腰に回されたソラの腕をほどこうとしている。

 「ノワール様、後生ですから」と泣きそうになっているソラの頭を、ノワールは非情にもぺしんと叩く。「いやだってば。シアメーセは屋敷においておけばいいよ。いつか帰るだろうし……」

 「それはあんまりだろう、ノワール。紳士なお前らしくもない!」と友人が笑いながらノワールに声をかけたが、その声はソラやシアメーセが可哀想だというより、ノワールの反応を面白がっているような響きがあった。

 ノワールの友人が――理由はなんであれ――こちらの味方をしたこの好機を、ソラは逃したくなかった。「そうです! ノワール様らしくないです。そんな、腰抜けみたいな真似しないでください」

 ソラのあんまりな言葉に、「腰抜け?」とノワールもさすがに眉根を寄せる。「ソラ、あとで覚悟しておいてね」と呟いたが、そんな主人にソラは「はい。いくらでも覚悟します!」とあっさり頷く。

 ソラが乗ってきたのとはまた別の、自分が釣り場にくるために使った馬に乗り、「ソラは本当に口が悪い」とノワールは呟いた。蹄の音にかき消されて聴こえないはずのその声も、ノワールの口元とその表情で、文句を言われていることを察していたソラが、敢えてなにも聴こえない振りをして並走している。

 ぴたりと馬を止め、「シアメーセが屋敷にきてるんだった?」とノワールはソラに確認した。ソラも「はい。そうです」と頷く。再び馬を走らせ始めたノワールの背後に着いて、ソラはほっと安堵のため息を吐いた。

 しかし、ノワールが向かったのは自分の屋敷ではなかった。なぜかサフランの屋敷に馬を止め、それに首を傾げるソラを振り返って、ノワールはにんまり白い歯を見せる。「お嬢さんを呼んでくるよ」

「……はっ? な、なんでオペラさんを?」

「シアメーセに紹介したいんだ」

 そう言って手を振り、屋敷の呼び鈴に手をかけたノワールを、慌ててソラは追いかけた。ここで体よくサフランの屋敷に留まられでもしたら、自分がシアメーセに叱られると思ったのである。

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