第一話 秘密のノート

 チャイムが鳴った。

 西野にしのこうやはペンを走らせる手を即座に止め、ノートを机の中に放り込んだ。


 これはただのノートじゃない。彼の秘密のノートだ。


 このノートがもしクラスメイトに見つかったら……。考えただけでこうやは寒気がした。ノートには、彼の妄想の産物である極めてプライベートな小説が綴られていた。もちろん、誰にも見せるつもりなんてない。スクープに飢えた雑誌記者のようなクラスメイト達の目に留まれば、この小説は絶好のネタになること間違いなしだ。


 チャイムが鳴り終わっても、教師は授業を続けている。

 教室の窓には、冷たい雨が打ち付けていた。


 こうやは机の中に手を入れて、秘密のノートにそっと両手を重ねた。



 僕には居場所なんてない。

 あるとすれば、この机の中くらいのもんだ。



 こうやは少女のことを思った。

 地元の図書館で頻繁に見かける少女のことを。彼は少女の名前も知らないし、一度だって会話を交わしたこともない。えんじ色のワンピースがよく似合う、美しい少女だった。

 こうやの秘密の小説に登場する少女は、彼女がモデルだ。

『くらげ』の少女は、図書館の少女そのものだった。


 今日こそはあの子に声を掛けよう。

 少年は決心する。


 教室のみんなが一斉に教科書類を閉じる音が聞こえ、こうやは現実に引き戻された。授業が終わったようだ。

 授業を受け持つ国語教師は、クラスの担任でもあった。そのままホームルームが始まる。

 二年後に定年退職を控えたこの男性教師は、重そうな眼鏡のレンズ越しに上目遣いで生徒達を見つめる。


「B組の生徒はいまだ行方不明のままだ。考えたくはないが、何らかの事件に巻き込まれた可能性も否定は出来ない状況にある。今日も集団下校に努めるように」教師は授業と大差ない口調でそう告げた。

「こわ」

「ただの家出だろ」

「あそこ、親がひどいらしいぞ」

「誘拐とかじゃない?」

「中一の男子を誘拐するか?」


 ひそひそ声で会話する生徒達。


 こうやは、ただじっと黙っていた。

 話したことはないが、顔は知っていた。こうやとクラスは違うが、廊下やトイレでその男子生徒と何度かすれ違ったことがあった。丸刈りにした幼い顔をなんとなく覚えている。野球部に所属していたらしい。


 一年B組に在籍する男子生徒は、先週の火曜日から忽然とその姿を消していた。


 男子生徒の行方が分からなくなってから登下校時には警察官が通学路に点在するようになり、部活動等は当面休止の措置が取られた。学内に流れる数多あまたの噂はいたずらに学生達の不安を煽り、青羅せいら中学校を不穏な空気が支配した。当然不安の波は学生だけでなく、町の住民にも広がっていた。特に子供を持つ大人達の間で。


 東京湾に面した千葉県青羅せいら市は都心にほど近く、東京のベッドタウンとして知られている。

 住民は空き巣やひったくり、車上荒らしに気を揉むことはあっても、誘拐や殺人等の脅威を身近に感じることはこれまでほとんどなかった。


 B組の彼は今も無事に生きてるのかな。こうやは再度、男子生徒の顔を思い浮かべる。同じ学校に通う彼が犯罪に巻き込まれたなんて、考えたくなかった。



 ホームルームが終わると、教室内は途端に騒がしくなる。

 いち早く教室を出た二人の少年は、廊下でこうやが来るのを待っていた。彼らはこうやにとって、数少ない友達だ。


 こうやは教科書や筆記用具、それと秘密のノートをバッグに乱暴に詰め込むと、椅子から立ち上がった。

 二人の少年のもとへと急ぐ。


 彼らはドアを出てすぐのところにいた。ゆうきと、のぶひろ。それが二人の名前だった。

 ゆうきは髪の短い少年で、やたらと早口で喋る。のぶひろは対照的に口数が少ないタイプだ。

 こうやは彼ら二人と、とりたてて仲が良いというわけではなかった。休み時間中に彼らと会話をすることもあまりないし、放課後に集まったりすることも滅多にない。

 本気で仲のいい友達など、こうやにはいなかった。


「あれまだ観てないの? めっちゃ面白いのに」ゆうきはのぶひろに何やら捲し立てている。

「うん、まあ……」

「絶対観ろよって言ったじゃん」

「ああ……うん、そうだったっけ」伏し目がちなのぶひろは、ぼそぼそと反応する。


 そこにこうやが加わる。


「ごめん、遅くなった」彼は言った。


 二人の少年はこうやに声も掛けず、彼と目を合わせることもなく歩き始めた。いつものことだ。こうやはそんな二人の後を追うように歩く。


 学校から出ても、二人の会話は続いていた。


「あの映画の面白いところはさ、前にも話したかもしれないけど、代役のスタントマンじゃなく主演俳優本人が体を張ってアクションしてるところでさ、それでなんたってすごいのはね、シンガポールにある有名な高層ビルの屋上から、主演の彼がロープ一本でぶらさがるシーンでさあ」

「ああ、そっか」のぶひろは相槌を打つ。ゆうきからこの話を聞かされるのはこれで五回目だった。

「ぶらさがったままその俳優は言うんだ、ビルの中に潜入してる敵国のスパイに向けてね。それがまたかっこいいセリフでさ。イカしてるなんてもんじゃないよ。なんて言うと思う?」

「うーんと……なんだろう」


 のぶひろはすでに答えを知っていた。


 こうやは会話に参加することなく、数歩先を行く彼らの足元をなんとなく眺めていた。頭上では、雨が勢いよく傘を叩いている。

 彼にはスパイ映画のことなんてどうだってよかった。今のこうやにとって一番重要なのは、図書館の少女に関することだ。


 あの子に声を掛けることは決まった。

 でも、どうやって?


 彼は人生で初めての難題と向き合っていた。

 いきなり話しかけて、少女から変な奴だと思われるような事態だけは避けたかった。あくまで自然な形で、スマートに会話のきっかけを作りたい。映画やドラマみたいに、スッとさりげなく。そのためには一体どうしたらいい?


 図書館の少女はいつも同じ場所に座っていた。彼女は決まってえんじ色のワンピースに白いブラウスを着て、背中をぴんと伸ばして本を読む。本を手には持たず、机の上に置いて読んだ。そしてその傍らには常に水筒が置かれていた。黒い水筒だった。彼女が水筒の中身を飲む姿を、こうやは一度も目撃したことはない。それは当然といえば当然だった。館内は基本的に飲食厳禁なのだ。

 それなのに彼女は必ず水筒を本の横に配置していた。それは少女の超然とした美しさ同様、こうやにとって小さなミステリーだった。

 ミステリーは他にもある。こうやは少女の名前はおろか、年齢すら知らなかった。見たところこうやと同年代のようだが、青羅中学で彼女を見かけたことはない。私立の中学校に通っているんだろうか。それとも、もっと年上なのか。彼女は何に興味があって、いつも熱心にどんな本を読んでいるのか。

 分からないことだらけだ。

 しっとりとした雨の匂いがこうやの好奇心をくすぐる。



 



 心臓が破裂するかと思った。

 こうやの耳元でいきなり、男性が大声を上げた。彼は即座に、声がした方に顔を向ける。

 警察官だった。

 集団下校を見守る警察官が、こうやの真横に立っていた。警察官はレインコートのせいで着ぶくれして見えたが、実際恰幅のいい男だった。男の顔の上を透明な液体が伝っている。それが雨粒なのか彼の汗なのか、こうやには分からない。ぎらぎらと光る男の目は、こうやに向けられてはいなかった。こうやは男の目線を追った。

 目線の先には、二人組の女子生徒がいた。彼女達はきゃっきゃと笑いながら手を振っている。

 警察官は笑顔で女子生徒達に向かって手を振り返す。

 こうやの耳には、男の声がまだ残っている。不快だった。

 こんなにもすぐ近くを歩いているっていうのに、この警察官は僕のことなんか全然気にしちゃいないらしい。そうでなかったら、誰が人の耳元で声を張り上げたりするものか。

 まあ、これもいつものことだ。

 彼は思う。



 僕のことなんて、どうせ誰の目にも見えてないんだ。



 帰宅。

 家の中は暗かった。

 電気は点いていなかったし、窓の外もどんよりとしている。寒い。

 アパートは木造の二階建てで、西野家は二階に住んでいた。西野といっても、住人は二人だけだった。こうやと母。父の姿は、もう何年も見ていない。


 ダイニングテーブルの上にちょこんとカップラーメンが載っていた。これがこうやの今晩の夕食だ。母が帰宅するのは今日も十一時を過ぎてからだろう。こうやは毎晩一人で夕食をとる。

 彼はカップラーメンを持ち上げ、眺めた。新商品だ。見たことないやつ。フタに印刷されたイメージ写真を見る限り、少し期待が持てそうな気がする。味を想像してみる。

 こうやはしばらく虚構の味わいを堪能していたが、ふと我に返った彼はカップラーメンを荒っぽくテーブルに戻した。


 カップラーメンなんか見つめてる場合じゃない。


 通学バッグを放ると、彼は制服を脱ぎ始めた。

 今日は出来るだけマシな装いをしたかった。お洒落な服なんてろくに持ってないけど、少しでも清潔に、ほんのちょっとでもかっこよく見える服を選びたい。

 箪笥から黒いシャツを引っ張り出す。こうやのお気に入りの一枚だった。

 着替えを終え、鏡に映る自分の姿を観察する。

 シャツには皺が寄っていた。コンプレックスのクセ毛は、湿気のせいで余計にうねっている。丸い眼鏡。眠そうな垂れ目。

 かっこ悪いや。

 せっかくの恋の気分が萎えてしまいそうになる。


 ボリュームのある髪の毛を、彼は両手で押さえつけた。そして鏡の中の自分をきりりとした目つきで睨む。


 ……ダメだ。急にかっこよくなるわけもない。


 少女に声を掛けるのはもう少し見栄えがよくなってからにした方がいいんじゃないか、という弱気な案が浮かんだが、彼はすぐにそんな考えを払いのけた。

 しょうがない。僕は僕なんだから。別人にはなれっこない。

 それに、もう決めたことだ。今日こそ声を掛ける、と。

 遠くからじっと眺めてるだけじゃ、もう嫌なんだ。そんな自分も嫌なんだ。


 彼は唇を強く結ぶ。そして小さく頷いた。


 こうやはトートバッグを肩にかけると、玄関に向かって家の中を早足で歩いた。

 ドアを開ける。

 冷たい空気が、今は心地よかった。

 そして彼は家を出た。



 戦地に赴く兵隊の気分だった。

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