第12話

 一番街、ボロノフ通りの『フリザンテマ』にて。

 俺と向かい合わせになって仕事をしていたこのバーの店主、ヴラジーミル・ソトニコフが、突然素っ頓狂な声を上げた。


「うぉぅ。い、いらっしゃいませ」

「ん……?」


 ヴラジーミルの突然の声に、首を傾げつつ後ろを振り返る俺は目を見張った。

 コートを脱いで、帽子を取った鹿獣人の男性が、そこにはいる。鋭い目つきながら柔和な笑みを浮かべる彼は、静かに俺に微笑みかけながら口を開いた。


「隣の席に、邪魔をするよ。『夜鷹』殿」

「うぉぅ。ど、どうぞ」


 俺に声をかけながら、隣の椅子を引く壮年の鹿獣人を見て、俺もヴラジーミル同様に素っ頓狂な声を上げる羽目になる。

 チェルニャンスキー侯爵家次期当主、ゲラーシー・チェルニャンスキー。つい先日に収賄容疑で投獄されていた・・・・・・・人物が、そこにいた。

 俺の右隣りに座る彼に、恐る恐る俺は声をかける。


「……お早い御帰りで、ゲラーシー殿」

「ありがとう。いやはや、もう牢獄の臭い飯はこりごりだ。酒も飲めない」


 俺の言葉に笑みを返しながら、ゲラーシーがこきりと肩を鳴らす。彼ほどの人物だったら牢獄の中だろうとそこそこの待遇は受けられただろうが、それでもやはり体は鈍るらしい。

 それにしても、随分な大物が俺の隣に座ったものだ。職業柄、お偉方にも俺は顔が効くが、侯爵様を相手にすることなんて今までに経験が無い。自然と口調も敬語になるというものだ。


「心中お察しします、ええ……ということは、久方ぶりに、飲酒を?」

「ああ、ここは数少ない行きつけでね。安心して飲める……マスター、『グレンファランクス』10年をストレートで」

「かしこまりました、旦那」


 俺の質問にゲラーシーは頷き、慣れた様子でヴラジーミルへと注文を通す。メニューも見ずにさらりとウイスキーを注文しているあたり、本当によく通っているのだろう。

 俺はぽかんとした表情を戻し、手元にあるままの『グレンファダッシュ』カスクストレングスのロックグラスを持ち上げる。カランと氷が鳴る中、ゲラーシーがふっと鼻息を漏らしながら口を開いた。


「聞いたよ、クヴィテラシヴィリ伯爵家の取り潰しの件は」

「ええ……もうハモン通りの屋敷も取り壊されて数日経つのに、未だに市内はその話で持ち切りでして」


 彼の言葉に、俺もため息をつきながら言葉を漏らす。

 三番街ハモン通りのクヴィテラシヴィリ家の屋敷は、逮捕と処刑が行われてから数日も経たずに、あっという間に取り壊された。今は地下倉庫も含めて完全に更地になり、競売にかけられて買い手の方で最後の実地調査が行われている。じきに、新しい屋敷が建つのだろう。

 伯爵位というそれなりの地位を持ちながら、一つの事件でこの凋落ちょうらくぶり。いや、落ちぶれたよりももっと酷い。その存在が最初からなかったかのように消えているのだから。


「やれやれ、あの家の者は手を出すものを間違えたとしか言えないな。ゲンナジー殿もヴコール殿も、酷く憔悴しょうすいした顔をしていたよ」

「……牢獄で、お会いになられた?」


 カウンターに肘をつきながら苦笑するゲラーシーの言葉に、俺は酒を飲む手を止めて驚きながらそちらを見た。

 なかなか起こり得ない話だ。牢獄の中で、受刑者が他の受刑者に会いに行くなど。それもあんなことをやって、終身刑にまで処された者が。ヴラジーミルも目を見開きながら、『グレンファランクス』を30ミリリットル注いだテイスティンググラスをゲラーシーへと差し出す。


「珍しい話ですね旦那、あのお二人は終身刑になったんじゃないんですかい? あ、『グレンファランクス』、どうぞ」

「ありがとう。私自身驚いたとも、面会の際に看守が三人も見張っていたとはいえ、直接私に会いに来るとは思っていなくてね」


 テイスティンググラスを取りながら、目を伏せてゲラーシーが再び笑みを見せる。

 曰く、市の刑務所に収監されていたゲラーシーのところに、看守が面会の依頼があったことを告げに来て、面会室に連れてこられたと思ったらそこにはゲンナジーとヴコールが、両手両足に枷をはめられた状態で座っていたのだという。しかも部屋の中には既に二人、看守が手に鞭を持って立っていたとのこと。

 あまりの厳戒態勢に、彼は肝が冷える思いがしたらしい。そんな状況に反して、ゲンナジーとヴコールの口からは終始、ヤノフスキー市に対して大変なことをしてしまった、多くの貴族を巻き込んでしまった、申し訳ない、という謝罪の言葉が次々飛び出したそうだが。


「彼らはまごうこと無き重罪人だ。主犯であるリリア殿ほど救われないわけではないけれど、取引に積極的に参加していた。それも自分自身で現場に赴かず、子飼いの下々の者を使ってだ……普通なら、みじめすぎて他人に顔を合わせようなんて思わない、と思うだろう?」

「まあ……違いないですね」


 彼の言葉に、俺も小さく肩を竦める。

 まさしく彼の言うとおりだ。こんな大きな事件を引き起こし、ヤノフスキーという都市全体を混乱と腐敗に巻き込み、数えきれない人間に薬物という悪をばらまいたのだ。

 一説によれば、クヴィテラシヴィリ家の使用人たちが市内各所の酒場で取引した薬物の総額は2億セレーにも上るという。購入して自分で使うにせよ、他人に使うにせよ、そこからまた他人に売り渡すにせよ、数千人規模の市民の手に渡ったことは、ほぼ確実だと言われている。

 よくまあ、処刑されたのがリリアだけで済んだものだ。本当ならゲンナジーとヴコールも処刑されていておかしくない規模の犯罪だ。

 それでも生き永らえ、犯罪者として余生を送ることになった二人と話をしたゲラーシーが、グラスに口を付けつつ言う。


「それでも彼らは私に会いに来た。迷惑をかけたと……あちこちの貴族の家に問題を飛び火させてしまったとね。仕方がないさ、あの一斉捜査で隠れていた問題が摘発された家は多かったから」

「……はい」


 彼の話を聞いて、ますます頭と視線が下がっていく俺だ。

 確かに、あの事件と「光の家教会」の強制捜査をきっかけに、家の中で抱えていた問題が浮き彫りになった貴族は多かった。チェルニャンスキー侯爵家、クヴィテラシヴィリ伯爵家、オブモチャエフ子爵家……名前を挙げればそれこそ枚挙まいきょにいとまがない。

 いたたまれなくなって、ゲラーシーに向かって深く頭を下げる俺だ。


「その、申し訳ありません、ゲラーシー殿」


 頭を深く下げて、謝罪の言葉を述べる。

 元はと言えば、俺がサーシャたちに売った情報が発端だ。「光の家教会」のカルペツ助司祭に関する情報を売り、それが切欠となり「光の家教会」の不正が暴かれ、それと共に諸貴族の賄賂が見つかった。俺自身、まさか俺が起こした波がこんなに大きくなるなんて、思ってもいなかった。

 首を垂れる俺を見て、ゲラーシーが目を瞬かせる。しかし彼は俺を詰問することも責めることもせず、柔らかな笑みを湛えながら頭を振った。


「君が謝ることはないさ。君はするべきことをしただけだ。君が情報をもたらしたエージェント達も。私は何一つ、君達に謝ってもらう必要はないとも」


 そう言いながら、くいとテイスティンググラスを傾けるゲラーシー。その言葉に顔を上げる俺だが、しかしそうは言っても、その厚意を素直に受け取るには事態が大きくなり過ぎた。

 それに、確かにクヴィテラシヴィリ家の薬物の話を暴くきっかけに、俺の情報はなっている。そのことはゲラーシーの耳にも入っているだろう。しかし本当の大本、震源となった情報はそこではない。


「その、そう仰っていただけるとありがたいんですが、実は」

「いや、みなまで言わなくていいさ。それよりグラスが空じゃないか、何を飲む?」


 しかし俺が何を言うよりも先に、ゲラーシーがそれを制止しつつ俺の前に置かれたロックグラスを見やる。既に酒は尽き、純氷が溶け始めて底面に水が溜まり始めている。飲み終えてから随分放置してしまっていた。

 だが、それでもだ。ゲラーシーのこの口振りは、どう考えたって奢る人間・・・・のそれである。慌てて両手を振る俺だ。


「え、いや、いいですよそんな、俺は自分で頼んで自分で金を出して飲みますから」

「いいんだよ、私が支払いたくて飲むんだ。脱税した分、少しは市内に還元しないとならない」

「真面目ですねぇ旦那、保釈された際に市に相当保釈金をお支払いになったんでしょう?」


 テンパる俺に構うことなく、メニューブックをめくるゲラーシーだ。彼の物言いに、ヴラジーミルが片眉を持ち上げる。

 確かに、脱税した人間が罪を償うには、貯め込んだ金を市場に回すのが一番いいだろう。だがゲラーシー・チェルニャンスキーの懐からは、既にかなりの額が保釈金としてヤノフスキー市に支払われている。さらには市内の貧困層への寄付も、基金を通じて数千万セレー規模でしていたはずだ。還元としては十分すぎる。

 それでもなお、彼は市に、市に存在する店に、金を回している。その使い方には確かに、彼の信念が見て取れた。


「金というのは出せば出すほど経済が回って、結果自分に返ってくるものだよ、マスター。というわけで『夜鷹』殿、一杯くらいなら奢って差し上げよう」

「ええ……その、はい、恐縮です。では、失礼して……こちらを、ストレートで一つ」


 ここまで言われたら、もう俺だって断りようがない。固辞したら逆に失礼だ。

 そう言って俺がメニューブックから選んだのは、『ガリラヤ』の14年。ワンショット3,600セレー。この立場の人間に奢ってもらうには高い酒ではないが、正直あんまり高い酒を奢らせるのも気が引ける。つい数日前まで牢屋にいた人間なのだから。

 俺の注文に気を悪くすることなく、ゲラーシーがヴラジーミルへと視線を投げる。


「よし。マスター、彼に『ガリラヤ』14年をストレートで。私に付けてくれ」

「かしこまりました。なんだルスラーン、奢られるなんてお前さんにはいつものことだろう。怖気づいたのか?」

「『仕事』の時と一緒にしないでくれ……プライベートで奢られるなんて、俺は慣れていないんだ」


 笑みを見せながら『ガリラヤ』のボトルを取るヴラジーミルに、俺はげっそりとした表情で手を振った。その指の動きは、当然のように力がない。

 確かに、酒を奢られることそのものは慣れている。それに間違いはない。なんならゲラーシーのように、高位貴族から酒を奢られる機会も何度かあった。

 しかしそれはいずれも、『仕事』が絡むか、それなりにお偉方と顔を合わせるようなパーティーやら何やらでのことだ。こういう、完全プライベートな場面で、お偉方と出くわし、奢ってもらうなんてケース、俺は経験しちゃいない。

 カウンターの板面につっぷす俺を見て、ゲラーシーがからからと笑って俺の背を叩いた。


「はは、ヤノフスキー一の情報屋が、らしくないじゃないか。グリゴリー君ともよく飲みに行っている話は聞いているぞ」

「いや……クヴィテラシヴィリ、じゃない、ナネイシヴィリとは、友人である以前に仕事のパートナーですし……あいつから奢られるのは殆どが仕事の時で、プライベートでは店を紹介するのに留まっていますし……」


 彼の話に眉尻を下げながら、答えつつ言葉に詰まる俺だ。

 グリゴリーも結果的に家名を変え、クヴィテラシヴィリではなく新たにナネイシヴィリを名乗ることとなった。曰く、彼の母方の従妹の嫁ぎ先の家名だとか。随分遠戚の名前を名乗ることにしたものだ。未だに慣れていなくて、クヴィテラシヴィリと呼んでしまう。

 俺のボヤキを聞いて、ヴラジーミルが皮肉っぽい笑みを向けつつテイスティンググラスを差し出す。


「よく言うぜ、そこそこ付き合い長いくせしてよ……ほらルスラーン、『ガリラヤ』をストレートだ」

「ああ……ありがとうございます、いただきます」

「うん、ゆっくり味わってくれ」


 ヴラジーミルに、次いでゲラーシーに、俺は頭を下げつつグラスを掲げる。ニコニコと微笑むゲラーシーの前で、俺はテイスティンググラスをそっと傾けた。

 苦い。塩辛い。が、それだけでなく滑らかに旨い。やはり長く熟成したウイスキーは、味の角が取れて濃厚な舌触りだ。

 じっくりと『ガリラヤ』を味わう俺を見つめるゲラーシーへと、ヴラジーミルがロックグラスを洗いながら声をかける。


「しかし、ルスラーンの右隣の席に座って、ルスラーンに酒を奢って。まるでこいつと『仕事・・』をしに来たみたいじゃないですか、旦那?」

「ああ、そういえばそんなルールがあったね」


 その言葉に、俺はぴたりと動きを止めた。

 グラスを口から離し、そっとコースターの上にグラスを置き、なるべく平静を保ちながら、俺はゲラーシーへと視線を投げる。


「……俺は基本的に、仕事を直接遂行する人間としか、『仕事』をしない主義ですが」


 俺の真剣な表情に、ゲラーシーの目が面白そうに輝いた。

 だが、これが俺の、情報屋「ヤノフスキーの夜鷹」としてのポリシーだ。自分の情報は、自分の情報をしっかり扱える人間にしか売らない。だから俺の情報の売り先は、必然的にエージェントに限られるのだ。

 別に高位貴族が、お抱えのエージェントを持っていることは珍しくない。しかしその貴族を経由してエージェントに情報が渡っても、真に俺の情報を扱えるか判断したことにはならない。だから、エージェントの上司が誰であれ、直接『仕事』をするのだ。

 俺の言葉に、ゲラーシーが再び表情を緩める。片方の眉を持ち上げながら、にっこりと笑った。


「ああ、構えなくていい。君の情報を欲してここに来たわけじゃない。ただの偶然さ……いつもの店に来たら、君がいたっていうだけだ」


 そう話しながら、ゲラーシーは自分の前にあるテイスティンググラスに手を伸ばす。残り少なくなった『グレンファランクス』を、ぐっと呷って飲み干した。

 グラスを戻して息を吐きながら、彼は目を細めつつ言う。


「ただ、そうだな。気分は少し味わいたかったかな。君から情報を買う、エージェントの気分ってやつをね」

「……そうですか」


 その言葉にうっすらと安堵しながら、俺もテイスティンググラスに手を伸ばし、中の酒を飲みこんだ。

 そうして二人して酒を干したところで、思い出したようにゲラーシーが指を立てる。


「ああ、そういえば牢獄で聞いた話がもう一つあるよ」

「え?」


 突然の言葉に、思考が停止する俺だ。

 そして彼は、人の好さそうな目に鋭い光を点しながら、声を潜めて言う。


「『北限のアスランベク』の仮出所が、近々認められる動きが出ているそうだ」

「は……っ!?」

「アスランベク……って、アスランベク・トランデンコフですか!?」


 彼の落とした爆弾に、俺は心臓が止まるかと思った。ヴラジーミルも思わず、洗い終わったロックグラスを取り落としそうになる。

 アスランベク・トランデンコフ。「北限のアスランベク」の異名を持つ、アニシン領でその名を知られた豪農だ。

 数年前に部下と使用人への傷害、エージェントへの不正な賄賂が発覚し、警察によって逮捕、服役していたのだ。

 それが、仮出所。そうなったとしたら何を引き起こすのか、分からない俺ではない。


「やれやれ……一難去ってまた一難、ってところか」

「クヴィテラシヴィリ家のヤクの話が片付いたと思ったら、これか。まだまだお前さんの仕事はありそうだな、ルスラーン」


 眉間にしわを寄せて額を押さえる俺に、ヴラジーミルも頭を振りながら言う。

 本当にそうだ。ついこないだにやっと、ヤクの出所も掴んでエージェントが洗いざらい調査して、これでようやくゆっくりできる、と思った矢先に。

 深い溜息を吐く俺へと、ゲラーシーは再び頭を下げてくる。


「この町をより良いものにしていくためには、君達の協力が必要不可欠だ……どうか、よろしく頼むよ」


 彼の言葉に、俺の頭はますます下がる。頷きも勿論だが、落胆の方が大きかった。

 いつになったら俺は隠居できるんだろう。いや、まだ当分する気はないけれど。

 少しは気の休まる時を貰いたい、と思いながら、俺はアスランベクの仮出所が現実になったらどうしよう、と思考を巡らせるのだった。

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