第4話

 ルージア連邦の冬は長い。

 十月ごろから雪がちらつき始め、四月になってようやく雲から雪が降らなくなる。

 冬が明けたらようやく春の花も咲き始めるが、そうしたって寒いものは、やっぱり寒い。

 だから俺は四月に入ってようやくあたたかさを帯びてきたヤノフスキーの夜を、愛用するコートの襟を立てながら歩いていた。

 今日は風も吹いている。早いところ店に立ち入ってだんを取らなければ、やってられないというものだ。

 そう思いながら今日お世話になる店を物色しつつ二番街のホールデン通りを歩いていて、俺はその店・・・の前で足を止めた。


「ん? ……ここは」


 俺が足を止めたのは、『コアスタ』という小さな酒場だった。店先にはオープン記念の花輪が、一週間前の日付と共に飾られている。

 屋根も扉も、まだ傷もなく新しい。出来立てほやほやというのが見て取れる店だ。その店の扉を開けて、虎獣人の若い青年が顔を出してくる。顔馴染かおなじみの一人、リュシアン・マメダリエフだ。


「あっ、ルスラーンさん! こんばんは、お店、決まってますか?」

「いや、まだだ……そうか。マメダリエフ、先週がオープン日だったか」


 朗らかに声をかけてくるリュシアンが、背後で扉を閉める。どうやら今は、店内に他の客はいないらしい。

 花輪にかけられたプレートに視線を向けつつ目を細める俺に、リュシアンは自慢げに胸を張った。


「はい、酒場『コアスタ』、ついにオープンしましたよ! こうして開店にこぎつけられたのも、ルスラーンさんがいろいろアドバイスに乗ってくださったおかげです!」


 そう話しながら、彼は扉の上にかかげられた、大きく店名を書いた看板に手を伸ばした。

 このリュシアン・マメダリエフという青年は、いわば俺の飲み友達の一人だ。大学時代の後輩で、十年あまりの交流がある。昨年に「店を開きたい」という相談を受けてから、いろいろな酒場に連れて行ったり、酒屋に連れて行ったりしたものだ。

 店をオープンするにあたって、何も力を貸していないと言ったらうそになるけれど、何か大きな助力をしたかというと、そういうわけでもない。

 だから俺は小さく肩をすくめながら、『コアスタ』のライトブルーに塗られた扉を指さした。


「俺は何もしちゃいないさ、マメダリエフが努力した結果だ……ふむ。折角だ、今日はここにお邪魔しようか」


 俺の言葉に、リュシアンの表情が明らかに明るくなる。来客を心待ちにしていたのだろう、扉を思いきり開いて俺を出迎えた。


「ありがとうございます! どうぞ!」


 開かれた扉の中に入って、内扉を開く。ヤノフスキーは寒くなるから、この構造はどうしたって外せない。

 リュシアンの手より先にドアを開くと、そこはまるで異国のような雰囲気だった。柔らかい色合いの木製カウンター、クッションのくくりつけられた丸椅子、壁に掛けられた青空と海を描いた絵画。

 そんな真新まあたらしい店内の様子に、俺の心も自然と沸き立つ。


「ほう? なかなか趣味のいい店内じゃないか。内装も、マメダリエフが手掛てがけたのか?」


 後方、内扉を閉めたリュシアンに視線を投げると、彼はにこやかに笑いながら頷いた。エプロンを直しつつ、カウンターの中に入る。


「はい、僕の出身国であるモラヴィアの酒場をイメージしたんです。やっぱり、僕の国のワインを出すからには、内装も寄せたくて」

「いい心がけだ。自分のルーツを意識することは大事だ……酒を提供するにあたっても、日々の生活の上でも」


 俺は頷きながら、カウンターの丸椅子を引いた。

 リュシアンは、ルージア連邦の南西、カーラ海と呼ばれる内海に面した国家、モラヴィア共和国の出身だ。ワインの生産が非常に盛んな土地であり、ユール大陸西部の銘醸地めいじょうちと並ぶほどのワインを作りながら、近年まで閉鎖的へいさてきな体制だったせいであまり世の中に知られていない場所でもあったりする。

 俺が着席したのを確認して、リュシアンがメニューを書いた紙を差し出してきた。


「ありがとうございます……最初の一杯は何にしますか?」

「そうだな……」


 ワインメニューにざっと目を通す。小さな酒場でありながらなかなかの本数を揃えているが、この酒場に置かれているワインは、いずれもモラヴィア産のワインだ。

 モラヴィアのワインは時折飲むが、いずれもコストパフォーマンスがいいと感じる。「水よりもワインの方が安い」と言われるほどの国だから、さもありなんという感じだが。

 一通り目を通してから、俺は一つの銘柄を指さした。


「ダル・マール地方のワインから行こうか。『ルプ・アルブ』を」

「了解しました。おつまみは何にしますか?」

「少し考える。ワインだけ先にくれ」


 俺の注文に、リュシアンは一つ頷くとワインクーラーから一本の瓶を取り出した。おおかみの描かれたラベルのワインを開栓して、ゴフレットに静かに注ぐ。

 ゴフレットの半分と少しを満たす量注いだら、彼はカウンター越しに俺の手元にそれを置いた。


「お待たせしました。モラヴィア共和国、ヴァディアスカ『ルプ・アルブ』です」

「ありがとう」


 笑みを見せるリュシアンに礼を言いながら、俺はゴフレットに手を付けた。そっと持ち上げて、香りを鼻に含み、一口飲みこむ。

 華やかで鮮やかな、白い花の香りが鼻腔びこうをくすぐった。同時にみつのような甘い香りも感じられる。口の中ではほのかな甘みとしっかりした酸味が舌を刺激する。

 なるほど、楽しい。白ワインでありながらここまで味に厚みのあるワインは、なかなか飲めるものではない。


「ほう……華やかだが力強い。それでいて甘みも感じられる。確か、ブドウを使っているんだったな?」

「そうです、フュトスカ・レガラ。面白い味わいでしょう。新しい品種なんですが、うちの国で今一番栽培さいばいが進んでいるんです」


 解説しながら、リュシアンがワインボトルを回した。裏面に貼られたラベルを俺に見せてくる。

 俺はモラヴィア語は堪能ではないが、何となくのニュアンスは掴める程度には分かる。曰く、モラヴィアのダル・マールが如何にワインにとって理想的な環境で、如何にフュトスカ・レガラという品種が素晴らしいかが書かれているようだ。


「んん……なるほどな。モラヴィアのワインは安い銘柄でもだいぶ飲ませてくれるんで好きだが、これはなかなか。だとすると……」


 ラベルに目を向けながら、俺は思案を巡らせる。

 ここまで味に厚みがあり、かつ香りが華やかなワインとなれば、旨味の強いつまみや、香りのはっきりしたつまみが合うだろう。

 俺はメニューに視線を落とし、こくりと頷く。


「よし。マメダリエフ、オリーヴのオイルけと……そうだな、リンバーガーをカットして出してくれ」

「了解しました、少々お待ちください」


 俺の注文を伝票に書き留めたリュシアンが、俺に背を向けた。たなの上からオリーヴの瓶を取り出すと、そこから何粒かの緑色をした実を小皿に盛る。

 彼はその小皿に小さなフォークを添えて、小皿を俺の前に置いた。


「はい、まずはオリーヴです。お待たせいたしました」

「ありがとう……ふーん? なかなかしっかり漬かっているじゃないか」


 金属製の小さなフォークでオリーヴの実を突きながら、満足げに口元を緩める俺だ。

 油分を多く含むオリーヴの実は香り高く、かつ味わいが素直なためワインのつまみによく使われる。オイル漬けにされた実は保存性も高く、大抵の酒場にはつまみとして置いてあるものだ。

 後頭部を掻きながら、リュシアンははにかんだ。


「えへへ。実家から送ってもらったんです。我が家の秘伝のレシピと一緒に」

「なるほどな、道理で」


 リュシアンの言葉に頷きながら、フォークで突き刺したオリーヴの実をかじる。

 じゅわっとあふれ出す旨味の強い油に、口いっぱいに広がる爽やかで強い香り。これを口の中に残しながらワインを飲めば、ワインの香りも合わさって一気に華やいでくれる。

 ごくりと飲み込みながら目を閉じれば、まるで花畑の中にいるようだ。実に味わい深いマリアージュである。


「……うん、美味い。このワインにもよく合う」

「よかったぁ……ルスラーンさんに『不味まずい』って言われたら、僕ほんとにどうしようかと」


 俺の「美味い」という言葉に、リュシアンがホッと胸を撫で下ろした。

 気持ちは分かる。酒を飲み、それを文章に書き起こして紹介することを生業としている俺に「不味い」の烙印を押されたら、きっとその店はやっていけないことだろう。それが例え友人の店だとしても。

 だが、そうでなくとも俺はこの店の立ち上げに関わっているのだ。不味いなんて、言えるはずも無いし、言うような事態にはまずしない。

 オリーヴに添えられたフォークを振りながら、俺は真剣な表情をしてリュシアンを見た。


「もっと自信を持っていいぞ、マメダリエフ。俺がお墨付すみつきを与えたわけではないが、お前の料理の腕とワインに対する知識は相当だ」

「いやぁ、そう言っていただけるのは有り難いんですけど……僕、モラヴィアのワインに特化しちゃってるんで、他の地域のワインも覚えないとなぁって」


 リュシアンが恐縮しながら額を掻いた。

 実際、この店に置かれているワインは全てがモラヴィア産だ。逆に言えば、他の地域のワインは一切置かれていない。

 こういう、一つの地域に特化して酒を提供する酒場が、ヤノフスキーに他に無いわけではない。だが、モラヴィアに特化している店はここくらいなものだろう。

 片方の肘をカウンターについて、ゴフレットに再び手を付けながら、俺はため息をついた。


「そうだな、知識を広げることは大事だ。ワインも、色んな知識のものを知れるからこそ、自分の店に並べるワインのどれが客の好みに合致がっちするか、はかることが出来る。

 俺みたいにあれもこれも、のべつ幕無まくなしに飲みまくるような酒飲みばかりじゃあない。こんな酒しか飲みたくない、なんて酒飲みにも対応するのが、いい店というものだ」


 そう話しながら、ゴフレットの中のワインをくいくい飲んでいく俺だ。

 俺は色んな酒を愛するし、色んな地域のワインを愛するから、どの地域のワインだから好き、どの品種のワインだから嫌い、ということはしない。だが、俺のような飲み方をする酒飲みばかりでないことも、また事実だ。

 俺の言葉に、難しい顔をしながらリュシアンが頭を振る。


「そうですね……開店してから一週間、ちらほらと来てくださるお客さんはいましたけれど、皆さんそれぞれ味の好みが違いましたし……

 うちの店は仕入れる酒を特化しているから、お客さんが好きだというワインをそのまま出せるわけじゃないですし」

「だろう? だがそれは悪い事じゃない。客の好みに合う、まだ知らない酒と出会わせることが出来るかもしれないからな」


 ゆるゆると頭を振りながらも満足そうに笑うリュシアンに、俺も笑みをこぼす。

 またゴフレットに口を付けつつ、俺は彼に細めた目を向けた。


「なんだったら、また俺と一緒にワインの品評会ひんぴょうかいに行くか? 来月首都の方であるって話で、人をつのっているところなんだが」

「いいんですか!? 是非ご一緒させてください!」


 さりげない誘い文句に、リュシアンが両手をカウンターにつきながら身を乗り出した。

 ルージア連邦の首都クリコフスクでは、定期的に酒の品評会が行われる。土地柄故にウォッカの品評会が一番頻繁に開催されるが、ワインも年に二度は品評会が行われているのだ。

 俺はこのワインの品評会に、友人や知人と連れ立って毎回参加している。都合のつく人間と共に上質な酒を味わうのはいいものだ。品評会だから、酒屋や酒場の人間が直接ワインを買い付けることもできる。こういう手合いを誘うのには都合がいい。

 ゴフレットを呷って、俺はぺろりと口元を舐めた。


「オーケー。後で詳細な情報を送る。申し込みは俺の方でやっておくから、後で口座に品評会の参加費だけ振り込んでくれ。交通費と宿泊費は実費でな」

「分かりました! あ、これ注文いただいたリンバーガーです」


 俺の言葉に頷いたリュシアンが、手元でカットし盛り付けていたウォッシュチーズを差し出してきた。ぷんと香る乳製品由来の香りが鼻を突く。

 それを受け取り、手元にあるゴフレットを見る。中身は、もう空っぽだ。


「ああ……おっと、もうワインがないか。すまん、『ルプ・アルブ』をおかわり」

「かしこまりました。珍しいですね、ルスラーンさんが同じワインを続けて飲むだなんて」


 ゴフレットを差し出し、リュシアンが再び『ルプ・アルブ』の栓を抜いてそれに注いでくる。そうしながら彼の視線は、俺の顔に向いていた。

 俺は基本的に、一つの種類の酒を何杯も続けて飲んだりしない。いろいろな酒を、とっかえひっかえ味わうのが基本のスタイルだ。

 色んな酒を味わい、料理に合わせ、そうして知識と経験を積み重ね、本業に生かす。それが俺だ。だが、今回ばかりは状況が違う。

 ため息をつきながら、カットされて少し中のとろけたリンバーガーをフォークで刺す。


「普段なら別のワインに行くんだがな、リンバーガーにも合わせる前になくなってしまったから仕方がない……それにしても、こんな美味いワインを一杯550セレーで出していて、儲けは出るのか? 地味に心配なんだが」


 目尻を下げながらチーズを食むと、俺の手元にゴフレットを置いたリュシアンがにっこり笑う。


「そこの辺は大丈夫です、いいインポーターさんと取引しているんで……って、そのインポーター紹介してくださったのもルスラーンさんじゃないですか」

「あぁ、なんだ、『モーレ』から仕入れているのか」


 彼の言葉に、得心が行った俺だ。

 『モーレ』も俺が懇意にしている酒屋で、カーラ海の周辺地域の国を専門に酒を取り扱うことで知られた店だ。知る人ぞ知る名店という感じで有名なインポーターではないが、懇意こんいにする人間がいないわけではない。

 実際、リュシアンが店を開くにあたって、俺は自分の知る店やインポーターの情報をだいぶ彼に開示した。彼の「故郷の料理と酒に比重を置いた店を開きたい」という話を聞いたから、余計にだ。

 こうして情報を開示し、彼がそれを活用したからこそ、こうしてモラヴィア共和国にいるかのような酒場が出来たわけである。


「まったく、俺のアドバイスをことごとく活用してくれていて、俺は嬉しくて泣けてくるよ」

「泣いてもいいですよ、今後ともお力添えをいただけたら嬉しいです」


 苦笑を零す俺に、リュシアンも笑みを返してきて。

 俺は満足そうにまた一口、ワインを口に含んだのだった。

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