第2話

 とある晴れた日の朝方。

 俺は愛用の手帳と鉛筆を片手に、ヤノフスキー市内の二番街を歩いていた。

 市内の二番街は商店が主に立ち並ぶ。朝食用の食材を買い求める人の姿で、二番街一番の大通りであるウリヴィン通りは大いに賑わっていた。


蕎麦そばの実一キログラム1,400セレー、1,400セレーだよー!」

「新鮮な牛乳はいかがー? フロロフ村から直送よー!」


 口々に、呼び込みの為に声を張る商店の店主たち。この朝の時間の売り上げが一日の収入の大半を占めるから、みんな客を獲得するために必死だ。

 アニシン領は連邦内でも牛による酪農らくのうが盛んな地域で、蕎麦の実の名産地であるアファナシエフ領との二本柱で、連邦内の台所を支えている。

 だから、領内でも一番の消費地であり、領内のあちこちに牛乳を搬送はんそうする玄関口となるヤノフスキー市の周辺には、広大な牛の放牧地帯が広がっているのである。


 俺も俺で、朝食は蕎麦の実のかゆを食べ、新鮮なカッテージチーズを食べるのが定番だし、今朝もそうしてきた。

 だが、それで俺の朝食は終わらない。他の市民もそれだけで済ませるわけはない。

 それは、蕎麦の実と牛乳、チーズの店と同じくらいか、それ以上に大きな声が聞こえている呼び込みが証明している。


「マルドワインはいかがー! 作りたてで温かいよー!」

「チェーナから直輸入ちょくゆにゅうしたクローブを使ったマルドワインだよー! 他じゃ出せない香りだ!」


 マルドワイン。すなわち、各種香辛料こうしんりょうやジャムを入れて加熱した、温かいワインのことである。

 粥とチーズ、そして温かいマルドワイン。ルージア連邦の朝食の基本形はこれだ。

 ジンジャーやクローブ、シナモンスティックやスターアニス。領によって、店によって、家庭によってスパイスの配合は様々だし、ジャムに使う果実も様々だが、ジャムを加えるのはどこであっても共通だ。

 温かくて甘味と酸味のあるマルドワインを飲むと、心も体もぽかぽかしてくる。そうして、寒い中でも仕事を頑張れるのだ。

 あちこちから呼び込みの声が響く中、俺は一軒の屋台の前で足を止める。


「マフノさん、おはよう」

「あらルスラーンさん、おはよう。今日も一杯飲んでいく?」


 俺が屋台の前に立てば、それを一人で切り盛りしている鹿獣人の女性、オルガ・マフノが顔を上げてにっこりと笑った。

 オルガはこのウリヴィン通りに店を構える酒場『フォロシー・デン』のウェイトレスで、夫である店主の鹿獣人と一緒に酒場を切り盛りしている。

 小さな酒場だが、小気味のいいワインの揃え方をしているため、二番街にある酒場の中でも特にお気に入りの店だ。

 そして俺は、この屋台で振る舞われるマルドワインが、一番好きだったりする。今日も100セレーの鉄銭てつせんを三枚財布から取り出し、オルガの手の上に乗せた。


「ああ、頼む。300セレーだったな」

「はい、ちょうどね。今入れるから、少し待っていて」


 小銭を受け取ったオルガは手元のケースにそれを入れると、アルミ製のカップとレードルを手に取った。屋台に据えられた大鍋にレードルを突っ込みひと回し、そうして引き上げたらすくい取ったマルドワインをアルミカップの中へ。

 オルガの両手が、アルミ製のカップを包むようにして差し出される。受け取れば、熱伝導率ねつでんどうりつのいいアルミ越しにマルドワインの温かさが伝わってきた。


「はい」

「ありがとう……あぁ、この香りだ」


 オルガに短く礼を言って、カップに鼻を近づける。

 シナモンを強めに効かせて、その奥からクローブとローズマリーが顔をのぞかせる。後味にプラムジャムの甘さと仄かな酸味。

 これこれ。これが好きなのだ。


「あちこちの店でマルドワインを飲んだが、やっぱりマフノさんの店のやつが、俺の好みに合う」

「ふふっ、そう言ってもらえると嬉しいわ。貴方が贔屓ひいきにしてくださるから、売り上げも好調なのよ」


 俺の言葉に、口元を押さえながらオルガが笑った。聞けば、月の収入の一割以上、このマルドワインで稼いでいるらしい。

 一杯300セレーのマルドワインでそこまでとは、随分な儲けようだ。内心で目を見張る俺である。


「それは何よりだ。今度は夜のタイミングでも、店に顔を出すよ」

「ええ、そうしてくれると嬉しいわ。いいワインも入荷したのよ、エスパーナ帝国の『アスタルロサ』」


 オルガの零した言葉に、俺は実際に目を見張る。

 大陸中でも南方、むしろ南西の端に位置するエスパーナ帝国は、ルージア連邦と非常に距離が離れている。軽々しくワインをやり取りできる距離ではないから、連邦国内でこの国のワインを飲める機会はそうそうない。


「へえ、珍しいところから仕入れたな」

「でしょう? 面白いのよ、すっごくフルーティーで。うちの人が販路はんろを開拓してくれたの」


 にこにこと笑いながら話すオルガは嬉しそうだ。扱ったことの無いワイン、珍しいワインを提供できることに、喜びは大きいのだろう。そういうものを好む俺が話し相手となれば、なおさらだ。

 自然と俺の口角も上がる。今すぐにでも店内に飛び込んでそのワインを飲みたい気持ちを抑えながら、俺はぐいとアルミのカップを傾けた。


「そいつはいいな。今夜にお邪魔しようか」

「あらあら、気が早いこと。まだ朝の八時よ、ルスラーンさん」


 そう言って、喉の奥に温かく酸味のある飲料を流し込みながら満足そうに笑う俺を、オルガがおかしそうに笑った。

 気持ちは分かる。まだ日が昇り始めて間もない午前八時だ。こんな時間から日も沈んだ後の話をするなど、気が早いにもほどがある。

 しかし、カップから口を離した俺は、ぐっと口元を拭ってぺろりと舌を出した。


「俺の仕事は朝も夜も関係ないもんでね。ところで、何か面白そうな話を耳に挟んだりしていないかい?」


 口元についた赤紫色の液体を舌で舐め取り、俺は小さく首を傾げた。

 その言葉に小さく目を見開いたオルガが、ふっと空を、薄雲のかかる空を見上げる。


「そうね……最近聞いた話だとあれかしら、チーズがまた値上がりするって話」

「あぁ、このところの寒さで、牛乳の生産量が下がっているんだったか?」


 その言葉に、俺も一緒になって空を見た。薄雲うすぐもが朝の空を覆う本日、風が無いものの肌を突き刺すように寒い。

 ここ数日、ルージア連邦全体を強い寒気が襲っていた。今年は厳冬げんとうだと聞いていたが、それにしたって寒い。牛も凍えて外に出ようとせず、食が細まるがゆえに乳の出も悪いそうだ。

 頭を振りながらオルガがため息をつく。


「そうなの。だから酪協も居丈高いたけだかになってて……普段以上に中抜きしているんじゃないか、って噂になってるわ」

「……はーん」


 彼女の言葉に、俺はそっと目を細めた。空になったカップを小脇に挟み、手元の手帳に視線を落としては、新しいページにさらさらと走り書きをしていく。

 ヤノフスキー市酪農協同組合、略して酪協らくきょうは、ヤノフスキー市および市周辺の村の酪農事業を統括する、従事者の協同組合だ。市内の牛乳とチーズはこの協同組合を通して商店に卸され、一般市民の手に渡るシステムになっている。

 すなわち、市内で買える牛乳とチーズの利権は、酪協が握っていると言っても過言ではない。酪協に所属する酪農家だって儲けが無ければ生きていけないから、多少の中抜きは許容されているにしても、やりすぎではないか、というのだ。


 こういう、うわさ話や酔客すいきゃくの会話は、俺の情報源の主たるものだ。こういう話や聞きかじった話から、思わぬ人物の思わぬ醜聞しゅうぶんに行き当たることも珍しくない。

 だから俺は寒かろうと暖かろうと積極的に表に出て歩き、店に立ち寄る。俺にとっての飯のタネが、こうしてあちこちに転がっているのだから。

 またぺろりと舌なめずりをしながら、俺は口と手を動かしていく。


「まぁ、連中はマージンを取るのが仕事だから、しょうがないと言えばそれまでだがね。だとしても確かにここのところ、牛乳もチーズも値上がり幅が大きいな」

「ねぇ、そうよね。嫌になっちゃうわ、牛乳とチーズが無いと朝食の用意が出来ないし、夜のおつまみだって出せないのに」


 メモを取りながらため息をつく俺と一緒に、オルガも憂うように息を吐いた。

 この寒冷地帯において、生活における牛の占める役割は大きい。労働力としても勿論もちろんだが、牛乳とチーズという手軽にとれるたんぱく質は、俺達の生活に深く根付いていた。

 朝の食事でもそう、夜の食事でもそうだ。俺だってチーズの無い酒場なんて、考えたくもない。

 もう一つ大きなため息をつくと、俺は手帳をぱたんと閉じた。小脇に抱えたアルミのカップを、オルガの方に返す。


「全くだ。さて……ありがとう、俺はそろそろ行くよ」

「あら、もういいの? 普段ならもう一杯飲んでいくのに」


 一杯のマルドワインで終わらせた俺に、オルガが首を傾げた。その反応に俺は苦笑を返すと、ひらりと手を振り歩き出す。


「ちょっと今の話で、引っかかるところがあったんでね。仕事さ、仕事」

「そう、分かったわ。気を付けて行ってらっしゃい。夜に待ってるからね」

「ああ」


 そうして屋台に背を向ける俺に声をかけて、オルガはまた自分の商売に戻っていった。

 まだまだ日は昇りきっていない。朝方の会話と呼び声が絶えない通りを歩いて一分ほど。まっすぐ歩いていた俺は90度左に向きを変える。

 そこにあるのは牛乳屋だ。名を『アレクサンデル・シル』。店頭に出ている屋台には目もくれず、俺は店内に入っていく。


「よう、テチューヒン」

「ん? あぁ、ナザロフじゃないか。珍しいな、こんな時間に店内に来るなんて」


 気安く呼びかける俺に、店主の羊獣人、アレクサンデル・テチューヒンは目を見張った。

 朝の時間は屋台で売られる牛乳やカッテージチーズを買い求める人間の方が多いから、店内に入ってくる連中はほぼいない。店内にもチーズは並んでいるが、朝の時間に使われることのないハードチーズやウォッシュチーズが大半だ。

 そして、酒飲みの俺としてはこういうチーズの方が気にかかるわけで。アレクサンデルは古くからの友人だし、珍しいチーズをよく仕入れているから余計にだ。


「いやなに、市場調査しじょうちょうさというやつさ。牛乳とチーズの価格は、俺の仕事内容にも直結するんでね」

「あぁ、なるほど……いや全く、最近はひどいもんさ」


 牛乳を原料とし、一年間熟成じゅくせいさせたハードチーズの『マチュヒン』を手に取りながら表情を険しくする俺に、アレクサンデルは大きく肩をすくめた。

 『マチュヒン』は一ヶ月ごとに仕込むから、製造に時間がかかると言っても通年で手に入る。一ヶ月の間に値段の揺れ動きはいくらかあるが、それでも輸送費用のかからない市内では一玉10,000セレーを超えることはまずない。

 それが今日はどうだ。一玉11,500セレーの値が付いている。細長くカットされた一ピースですら1,050セレーだ。こんなことは普通なら、まずあり得ない。

 眉間みけんに皺を寄せて、俺は顔を上げた。


「テチューヒン、お前さんはここのところの寒さと、酪協による価格の吊り上げと、どっちが強く効いていると思っている?」


 手の中でズシリと重たい『マチュヒン』の表面を叩きながら問いかける俺に、アレクサンデルが口をへの字に曲げた。

 むっすりとしながら、その毛に覆われた太い腕を組む。


「寒さ三、酪協七、って体感だね。あり得ないだろう、いくら今年が厳冬だからって、牛乳の――牛乳のだぞ? 売値を100セレー上げないと儲けが出ないなんて」


 苦々しく吐き出すアレクサンデルの表情は固い。

 しかし、当然と言えば当然だ。牛乳二リットルの価格が50セレー上がっただけでも市民は大騒ぎするのに、それが100セレーも上がっているのだから。

 『アレクサンデル・シル』だけが売値を上げているのなら、ここに人が寄り付かなくなるだけだが、決してそうではない。

 手帳と鉛筆を取り出して書き留めながら、俺はぺろりと口元を舐めた。


「なるほどなるほど。これはもうちょい、市場を回って話を聞く必要があるな。あとで周辺の村にも行ってみるか」

「はーぁ、やだねぇ……俺らと消費者の苦しみが深まる程、お前ら雑誌記者は書くネタが増えてメシが美味いってわけだ」


 俺の言葉に、アレクサンデルは深く、深くため息をついた。そうして何とも憎たらしい風で、聞き捨てならないぼやきを零してくれる。

 それを耳にした俺の鉛筆が、ピタリと止まった。こんなことを言われてしまえば、文句の一つも付けたくなるのは当然だろう。俺をそこらのゴシップ記者と一緒にされては困る。


「ほう、言ってくれるな。小腹を満たすためにチーズバーの一本でも買っていこうと思っていたが、やめとこうか」

「冗談だ、冗談だよナザロフ。悪かったって、お前に愚痴ぐちる内容じゃなかったよ。

 お前は特にそうだ。表でも裏でも動いてくれて、話を聞いてくれる奴なんて、この市内にもそうはいない」


 いたずらっぽく、大仰に仰け反りながら口答えする俺に、予てからの友人は早々に白旗を上げた。黒く平たい爪で自分の額を叩きながら、小さく首を振る。

 この手のやり取りは、別段これが初めてというわけではない。俺もアレクサンデルも本気で、互いが互いに文句をつけているわけではない。め言葉も同様だ。

 付き合いが長いし気心も知れている間柄の、じゃれ合いのようなものだ。

 そんなものだから俺だって、アレクサンデルからの称賛の一言に、真顔のままで言葉を返す。


「調子のいい奴だ。俺を持ち上げたって何も出ないぞ」

「お前を持ち上げて出るものなんざ、金だけだろうが。酒場で顔を合わせても一人で粛々しゅくしゅくと飲むばかりでよう」


 やれやれ、といった様子で彼は大きく肩を竦めた。もしかしたら称賛を素直に受け取らない俺に呆れたのかもしれないが、アレクサンデルからの称賛しょうさんなど、今更受け取ったところで感謝のしようもない。

 付き合いの悪さをぼやき始めた彼に、俺は何を返すでもなく手帳を閉じた。そのままひらりと手を振って、店のドアへと手をかける。


「それが俺のスタイルだからな。文句は言わせないぞ。それじゃ、俺はこれで」

「へいへい」


 軽い様子で返事をしてくるアレクサンデル。もはや何の感情もあったものではない。

 と、そこで。俺は一つ、彼に話しておかなければならないことがあったのを思い出した。店の外に出ようとドアノブを掴んだままで、首だけ振り返る。


「あぁ、それとテチューヒン」

「うん?」


 唐突に呼びかけられて、彼の瞳孔が横倒しになった瞳が見開かれる。

 そのきょとんとした顔に、俺は殊更に悪戯心いたずらごころをにじませてにんまりと笑った。そうして、彼に言ってやる。


「一番街サフィン通りの『ミーシナ』が新しいチーズの仕入れ先を探していたんで、お前の店を・・・・・推薦しておいた・・・・・・・。もう話が来ているかもしれないが、誠実に対応してやってくれ」

「は……はっ!? おま、ちょっ」


 その言葉に、アレクサンデルのあごが落ちた。それはもう、見事なまでにかくんと落ちた。

 サフィン通りの『ミーシナ』は、一番街に立ち並ぶ酒場の中でもグレードが高いことで有名だ。爵位しゃくいを持つ貴族たちの社交場の一つとしても知られるその店は、いいワインといいチーズが味わえることで知られている。

 そんな場所で、酒を飲んできて、店長にこの店のチーズを推薦すいせんしてきたというのか、とこの友人は言いたいことだろう。

 なんでそんなことにと問いたださせる間も作らせず、俺はするりと『アレクサンデル・シル』の扉を通り抜けていく。ぱたん、と無情にも閉まる扉。


「アレクさーん、郵便でーす」


 右手を前に突き出したままの体勢で、口をぱくぱくさせているアレクサンデルの背中から声がかかる。店で働く狼獣人の少年が、手紙の束を持ってきたのだ。

 冷や汗を垂らし、ぎこちなく頭を後ろに向けるアレクサンデルの前で、少年が店主の執務机しつむづくえに手紙を置く。と、その一番上に乗せられていた小綺麗な封書を手に取り、電灯の光にかざすようにしながら少年が言った。


「ここに置いておきますね。にしてもアレクさん、『ミーシナ』にいつ売り込みに行ったんですか?」

「……マジか、あの野郎……ったく、相変わらず上手くやりやがって」


 不思議そうに話す少年に言葉を返すこともせず、額を押さえてうめくアレクサンデル。しかしその表情は、どこか満足そうで、嬉しそうな目をしていた。

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