最終話 ラブコメは出ないで欲しい

 紫苑さんの答えは「あり」だった。まっすぐな瞳で僕を見つめながら言う。

「私はこの世界に縛られています。会うのは月に1回1日だけ。新巻さんはそれでもいいのですか?」


 僕は力強く頷いた。

「もちろんです。いや、確かに月1回しか会えないのは寂しいですが、今までだって、その1日を楽しみに過ごしてきたんです。怪異に見舞われるのは嫌ですけど、その後に紫苑さんに会えると思って頑張ってました」


 あらん限りの勇気を振り絞って紫苑さんの頬に触れる。

「こうやって存在を感じられるだけで十分です。それに、牽牛と淑女に比べたらマシじゃないですか。12倍も多く会えるのだから」

 紫苑さんは僕の方に身を寄せた。


 その後にはいろいろあった。今思い出すだけでも顔が緩んでしまう。再会を約して僕たちはこの世界に戻ってきたのだけれども、こちらでは全然時間が経っていなかったことに驚いた。みゆうさんと別れて家に戻り、たっぷりと食事を取って眠りにつく。夢の中でも紫苑さんが出てきた。幸せ。


 僕と紫苑さんの関係が一線を越えた日の翌日。なんとなく世界が変わったような気がする。実際のところはそんなに大きく状況が変わったわけじゃない。これからも月に1回命の危険に晒されるのは同じだし、喫茶店で日銭を稼がないといけないということも以前と一緒だ。ただ、変わったのは気持ちだけ。


 いそいそと食事の支度をする。変わり映えのしないいつものメニューだが、なんとなく美味しい気がする。さっと片付けてジョギングに出た。今朝は随分と寒い。枯れ葉がかさかさと風に吹かれて地面の上を滑っていた。今日は5キロで終わりにする。昨日は色々とあったし、今日だけは軽めでいいとしよう。


 ほとんど汗もかかなかったけれど、店に出るのでシャワーを浴びる。着替えて店に出た。窓を開けて外の冷たい空気を中に入れる。掃き掃除をしているところに明るい声がした。

「おっはようございます」


 顔を上げるとみゆうさんがいた。寒い中を歩いてきたせいか頬が少し赤くなっているが、肌の色つやもよく、とても元気かつ機嫌がいい。

「お早うございます。今日は早いですね」

 いつもなら開店3分前ぐらいにならないと出勤してこないのに。


 みゆうさんはエプロンをつけると台布巾でテーブルを拭き始めた。鼻歌を歌いながらテキパキと動いている。いつものちょっと気だるげな様子からするとまるで別人のようだ。みゆうさんのお陰で手が空いたので、僕はエスプレッソマシンを動かして今日の1杯目を作り始めた。


 みゆうさんにはカプチーノ、僕にはカフェラテを入れてカウンターに置く。みゆうさんは台布巾を洗い終えるとスツールに座った。両手でカップを包み込み、その手で温もりを確かめるようにゆっくりとカプチーノを口にしている。僕も自分のものを口に含んだ。飲み終わって片付けるとみゆうさんに表の札をオープンにするようにお願いする。


「いらっしゃいませ」

 みゆうさんの声が店内に響いた。常連客がおや? という顔をした。

「あ。みゆうちゃん。何かいいことあった?」

「分かります?」


 僕はカウンターの中でマシンの操作を始めた。

「彼氏でもできた?」

「秘密です。それに今はそーいうのもアウトな時代ですよ」

「はは。すまん。あまりに嬉しそうだからつい調子にのってしまった」


 常連客はいつもの指定席に腰を下ろすと首を傾げる。

「あれ? マスターも随分と表情が違うね。まさか、マスター?」

 常連客は首をひねって新しいお客さんを案内しているみゆうさんに目を向ける。顔を僕の方に戻してなんとも言えない表情をする。


 僕はアメリカンを常連客の前に置き、トースターに食パンをセットしながら首を振った。

「やだなあ。さっきもみゆうさんに注意されてたでしょ。それに想像しているようなことはありません」

 声を潜めながらもきっぱりと言うと常連客は新聞紙を広げた。


「それじゃ、マスター。また明日」

 1時間ちょっと働くとみゆうさんは大学に出かけていく。無事に必修の授業に出れて良かった。その後は一人で切り盛りするので余計なことを考えている余裕はない。ランチが終わり、午後のお茶の時間が終わって一息付けたときは、もう閉店間際の時間になっていた。


 レジをしめるとそこそこの売り上げだった。この調子なら少ない貯えに手をつけなくても生きていくことはできそうだ。今度の週末にはちょっとした散財をしなくてはならない。気が早いような気もするけれど、僕の気持ちをきちんと形にしておきたい。


 表のサインをクローズに変えて、閉店の作業を始める。いずれは結論を出さなくてはいけない。紫苑さんに別れを告げるか、この世界に別れを告げて、紫苑さんの世界の住人になるか。まだしばらくは時間がある。まずは連載中の小説を仕上げてからだ。


 ***


 いつもの公園で、僕は固唾を飲んでその時を待っていた。少し離れたところに居るみゆうさんはちょっとだけおめかしをしている。僕の肩から下げたラップトップが光を放った。浮かび上がった2つのダイス。僕が紫苑さんと再会できるかはサイコロ運にかかっている。できればラブコメは出ないで欲しい。僕は力を込めてダイスを投げた。


-完-


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る