35.長い長い一日だった。

 午後五時。十七時。彼は重い足を引きずる様にして、化学準備室に向かっていた。

 長い長い一日だった。初日も長い、と感じたが、それよりもっと長く感じた。

 そして彼自身、今日限り、ということで、生徒達とのお別れに少しばかり気持ちが弱っていた。

 正直、泣きたい気分だった。

 HRが終わる時、最後の挨拶で適当に話した彼は、最後にこう付け加えた。


「まあでも、俺はまだ来年も大学があるから、君等を教えることはないと思うけど」

「留年したら会えるよ~」


とぼそ、と言ったのは、元部だった。

 校長や教頭からも、「こんな時期で申し訳ない」という言葉をもらってしまった。

 実際、校長と面と向かって顔を会わせるのは、何とこれが始めてだった。彼はずっと、「黒い箱」の件で、あちこちを飛び回っていたらしい。

 おそらくこの後、三つ目の件については更に追求されるのだろう、と高村は思う。何せ中身が生徒ではなく、教師なのだ。

 校長は恰幅の良い男だったが、顔色はひどく悪い様に見えた。彼はきっと、「黒い箱」の中身を、その都度その都度、確認させられていたのだろう。

 あんなものを二週間に三度も見せられたら、たまったものではない、と昨日の死体一つで落ち込んでいる高村は痛感する。

 そして、三度目に関しては、自分もその一端を担いでいるのだ。

 あの時、垣内が「すぐに帰れ」と言わなかったら。

 高村は正直、ぶるっ、と身震いがする思いだった。

 教頭は言った。


「色々ありましたが、この先もあきらめずに、がんばって下さいね」


 きっとそれは彼女の本心だろう。南雲の口から漏れた大義名分の様なものとは、重みが違って感じられた。

 この日もらう予定の書類も全部受け取った。残りは大学の方へ、直接送られるはずである。

 残りはたった一つ。森岡への挨拶だけだった。



 扉を開けると、既にそこには、三人の男がデスクを囲んでいた。


「こんにちは、高村さん」

「山東君、君まで……?」


 思いがけない姿に、高村は目を丸くした。


「今朝、森岡先生から急に電話がありまして。……どうして俺の携帯の番号知ってたのか、不思議だったんですが……」

「あ、教えたのは俺。ごめんね」


 足を組んだ島村は、ひょい、と手を上げた。


「だから何で、島村先生まで俺の……」

「ちょっと高村先生の携帯を通してねー、入り込ませてもらったんだ」


 うきうきとした口調で、星形フレームの男は答えた。はあ、と元生徒会長は呆れた顔をした。


「それって個人情報機密法とかに引っかからないんですか? 高村さん」

「いいさ、おかげで俺達、助かったんだ」

「って」


 山東ははっ、と顔を上げ、島村を見る。見られた相手はにやり、と笑ってピースサインをしていた。


「そ」


 それで判ってしまう会話をしてしまう自分達に、高村は少し悲しいものを感じた。

 向こう側の森岡の前では相変わらずTVがつけられ、ローカルのニュースの声が流れてきている。


「やあ、ちょうどいい時間に来てくれましたね、高村君」


 穏やかな声が、部屋に響いた。


「ポットには、たっぷりお湯が入っているから、君も自分の分は入れて下さいね。ちょっと今、手が離せなくて」


 よく見ると、また何やら、手元で折っている。好きなのだなあ、と高村は思った。

 しかしそれよりも、ぎょっとしたのは、南雲の机の上だった。

 荷物は何一つとして片づいていない。しかしその片づいていない机の、空いている場所一杯、所狭しと、小さな百合の花の折り紙が、敷き詰められていたのだ。


「あ、あの、森岡先生、これは……」


 ん、と森岡は顔を上げる。高村の指さすものの意味を悟ると、彼は平然とこう言った。


「ああ。死者への手向けの花と言えば、普通、白菊か白百合、が相場でしょう」

「森岡先生……」

「おお、始まる始まる。ちょっと皆、こっちをごらんなさい」


 そう言って、森岡は自分の前のTVモニターをくるりと回した。

 じゃーん、と音がする。全国ニュースの時間に切り替わったらしい。


『こんばんわ』

『こんばんわ。今日はまず、**県で起こった、中等学校生の少年少女による事件からお送りします』

『今日朝六時半頃、××市○○町の民家二軒に、オートバイに乗った男女二名が突っ込み、住民計四名を刃物でめった突きにし、逃走しました。そのまま犯人と見られる男女は県道へ入り、海沿いを南下しましたが、急カーブで海に転落。現在警察による捜索が続いています』


 男女のアナウンサーが、無表情な声で、交互にニュースを読み上げる。高村はそれがどうしたのだろう、と思いながら聞いていた。


『現場の○○町は、住宅地として……』


 ローカルのカメラに切り替わった時だった。


「あ!」


 山東がいきなり立ち上がり、TVの画面を指さした。


「ここ……」


 え、と高村が見ると、そこには被害者の名前がテロップで出されていた。


「……垣内…… 村雨……?」


 被害者の名前には、その姓がつけられていた。


「もういいでしょう」


 ぱちん、と森岡はTVを消す。


「どういうことですか」

「どういうことも、こういうことも。おそらく君の思っている通りでしょう」

「言ってみたら、すっきりするよ」


 島村までが追い立てる。


「ああ、でもちょっと待って下さいね」


 くいっ、と森岡はTVの上のアンテナを大きく開き、そのそばにあったスイッチを入れた。アンテナは、ゆっくりと回りだした。


「お、これでゆっくり、話ができますね、森岡先生。直ったんですか?」

「直したんですよ。やっぱりこれがあった方が安心できますからね」

「何ですかこれ、アンテナじゃ、……」


 高村は思わずその「アンテナ」を指さす。


「アンテナにも、してますよ。ただ、ジャミング装置にもできるというだけです」


 そう平然と言い放つと、森岡は折り紙の続きを始めていた。はあ、と高村は思わず答えていた。

 結構細かい作業が必要な様で、もうこれ以上顔を上げて話をする気はない、という気迫が森岡の指や背中からはあふれている。

 一体何を作っているのだろう。ふと高村は思った。


「まあ、高村先生は言いにくそうだから、代わりに俺が言おうか」


 肘を立て、二人の大学生を交互に眺めながら、島村は言った。


「予想はついているとは思うけど…… そう、垣内と村雨は、奴らのホスト・ファミリーを殺して、逃走したんだと思う」

「ホスト・ファミリー?」


 高村と山東の声が揃う。


「何ですか、それは」

「留学じゃあるまいし」

「まあ、留学みたいなもんさ」


 煙草いいですか、と島村は森岡に問いかける。駄目ですよ、と森岡は短く答えた。やれやれ、と言いながら島村は出しかけた箱をしまった。


「そ。本当の家族じゃあない。あいつらを監視するために、家族のふりをしていた連中さ」

「監視……」


 高村は思わず顔を歪めた。


「それは、彼らが『R』や『B』だったからですか?」

「正解」


 高村は腰を浮かし、身を乗り出した。


「教えて下さい。あなた方、ご存じなんでしょう? 『R』や『B』って、何ですか?」

「そうだなあ…… 高村君、君、何処から聞きたい?」

「全部です」

「全部ってのは、曖昧だよね。山東君は?」

「俺は」


 「伝説の生徒会長」は、腕を組み、切り口をしばし考えている様だった。その太い首や腕には、包帯が痛々しい。


「それこそ、知りたいのは、俺も、全部です。だけど、その中でも、『R』と『B』そのものについて、とその成り立ちを知りたいです」

「うーん、さすが君、こっちの喋りやすい方向に持ってってくれるね」


 星形のフレームの向こうの目がにやり、と笑った。


「では、現代日本教育史のおさらいも兼ねて」

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