再会

 アレットは慌てて列車に飛び乗った。

 ダガスランド東駅発の列車である。ヴァレルの商会の遣いが屋敷へとやってきて、信じがたい知らせを寄越したからだ。落石事故にヴァレルが巻き込まれただなんて。


 列車は汽笛を鳴らし、ゆっくりと動き始める。

 知らせを聞いたアレットは止めるベンジャミンの言うことを無視して馬車を駅へと走らせた。結果ソレーヌとベンジャミンがアレットに付き合う羽目になっている。旅の支度など悠長にしている場合ではなかった。とにかく今は一刻も早く夫の元へ駆けつけたい。


 走る列車の中でアレットは焦燥感を持て余す。列車が実用化されてから移動の時間が格段に速くなったとはいえ、ヴァレルの所有する鉱山へ向かうには半日、いやそれ以上かかるのである。


(お願い神様。ヴァレルの命を救って。お願い。お願いします)


 アレットは列車に乗っている間ずっと神に祈った。普段そこまで信心深いというというわけでもないアレットだったがこのときばかりは神に縋りついた。

 列車の一等個室の中は重苦しい空気に包まれている。


「奥様。大丈夫ですよ。大丈夫です。旦那様は強運の持ち主なのですから」


 ベンジャミンは場の空気が軽くなるよう努めて明るい声を出してアレットを何度も励ました。アレットはその声に力なく頷いてどうにか笑顔を作った。だいぶ引きつってはいたけれど、ベンジャミンだって心細いに決まっているのに、妻のアレットがしっかりしなくてどうする。その気持ちだけで血の気の抜けた顔の唇を上に持ち上げた。


「ええ。もちろんよ。大丈夫。ヴァレルは大丈夫よ」


 何度も自分にそう言い聞かせて列車が目的地に到着するのを待ち焦がれた。

 到着をするとあたりはすでに夕暮れ時だった。遥かかなた地平線に赤い色をした太陽がゆっくりと沈んでいく。広い土地は緩急が無く遠くまで見渡せる。この先列車はまだ通っておらず、移動手段は馬車になる。

 駅舎で手続きに奔走していたベンジャミンが戻ってきた。


「奥様。陽が暮れます。今夜はこの町で休んで早朝出発にしましょう」

「嫌よ! 馬に乗って先を急ぐわ」


 アレットは叫んだ。

 こうしている間にもヴァレルに何かあったらどうするのだ。アレットは己の肩を抱いた。自分の考えに打ちひしがれて震えが足元から忍び寄る。


「奥様。この先の森には狼も出ます。暗闇の最中襲われる危険もございます」

「そんなこと関係ないっ!」


 アレットは幼子のように駄々をこねた。

 ここまできて、今夜一晩待てというのはあんまりだ。今すぐにヴァレルの元に向かいたいのに。


「アレット様。ベンジャミン殿を困らせてはいけません。あなたはカイゼル家の妻なのですよ」


 それまでひっそりと気配を消していたソレーヌがアレットを諫めた。有無を言わさぬ張りのある声だった。彼女の落ち着き払った声にアレットはなおも言いつのろうとしたが、口からは何も漏れなかった。


「……ごめんなさい」

 アレットは項垂れた。

 自分がもっとしっかりしないといけないのに、一番に取り乱してしまった。

「旦那様が心配なのはよくわかります。ですが、奥様に何かあっては、わたくしめは旦那様に顔向けできません」

 宿を見つけてきます、とベンジャミンは明るく言った。


「あなたも、ありがとうソレーヌ」

 アレットは自分に付き従って列車に飛び乗ってくれたソレーヌにお礼を言った。

「いいえ。わたしの仕事はアレット様に付き従うことですから」

 ソレーヌは落ち着き払った声を出す。この声を聞くとアレットは落ち着く。彼女の平常心がアレットのはやる心を静めてくれる。


 まだヴァレルには言いたいことがたくさんある。伝えたい気持ちも山ほどある。十六の頃から変わらずに好きだと伝えたい。だから絶対に大丈夫。アレットは大きく頷いた。明日絶対にあなたに会いに行くから。


◇◆◇


 ヴァレルはくらりと傾いだ。

 どうやら夏の日差しに少し当たってしまったようだ。ここ数日曇り空ばかりで今日のような雲一つない青い空は久しぶりだった。

 ヴァレルは大きな庭園を散策していた。正門から屋敷まで馬車で十数分かかるという田舎の庭園はけれど丁寧に整えられていた。ヴァレルは辺りを見渡した。見覚えのない庭だった。

 ここはどこだろう。ヴァレルは記憶を探るように注意深く観察しながら緑の覆い茂る庭園を歩いていく。


「―ル!」


 ヴァレルは足を止めた。

 誰かが呼んでいる。誰だろうとあたりを見渡す。

 けれどこの周辺は静寂ばかりで小鳥一羽だって飛んでいない。たまにそよそよと風が吹くばかり。


 仕事で疲れているのかもしれない。

 最近忙しくてまともに休む暇も無かった。

 いや、たしか休暇中だったはずだ。買った山から鉄鉱石が産出し、ヴァレルは仕事が楽しくてがむしゃらに働いていた。父も少し休めと言うくらいには朝晩問わず奔走していたら父から強制的に休暇を取らされた。

 販路拡大と交友関係を広げるために大陸を渡り、いくつかの国を周遊していたはず。


「ヴァレル」


 もう一度声が聞こえてヴァレルは後ろを振り返った。

 しかし庭園はしんと静まり返っていた。

 ヴァレルは訝しがる。

 鈴蘭のような可憐な声に呼ばれたと思うのにさきほどから一人きり。


「ヴァレル、起きて」


 誰だろう。

 いや、聞いたことのある声だ。ヴァレルを呼んでいる。知っている声だ。

 ヴァレルは必死になって思い出そうとする。記憶の中を探っていく。あれほどまでに可憐な声の持ち主を忘れるはずもない。ヴァレル、と呼ぶ溌溂として元気いっぱいの可愛らしい声。そうだ、金色の髪の毛を持っていた。澄んだ青い瞳でヴァレルを見つめてくれた。彼女の青い瞳が自分だけを映しているのを見ると、それだけで胸がいっぱいになった。


「アレット……?」


 ヴァレルは呟いた。

 それからそっと瞳を開けた。ぱちぱちと何度か瞳を瞬く。徐々に焦点が合っていきどこかの室内の天上が映った。


「っ……ぅ……」

「ヴァレル!」


 耳元でアレットの声が聞こえた。

 どうしてきみがここに。ああそうか、まだ夢の中なのか。ヴァレルは「アレット」と声を出す。すると柔らかな手のひらの感触がした。ヴァレルの片方の手をアレットが握りしめている。ヴァレルは幸せな気持ちになった。彼女の暖かさが手のひらから染み込んでくる。


「これは……夢かな」


 ヴァレルは首を少し横へ傾けた。アレットの顔が視界に映る。

 澄んだ青い瞳が一心にヴァレルに注がれている。愛らしいアレットの瞳は潤んでいて、唇がわなないた。


「夢じゃないわよ。わたし、とっても心配したのよ」

「……どうして?」

「あなたが……落石事故に巻き込まれたと聞いて」


 そうだ。鉱山で落石事故に巻き込まれた。鉱山の視察をしている最中の出来事だった。確か体を打ったはず。ヴァレルは思考を巡らそうとするが、霧がかかっているかのように記憶がぼんやりとしている。


「アレット、俺はまだ夢を見ているのか? 落石事故に巻き込まれたところまでは覚えているんだけれど」

 ヴァレルはゆっくりと体を起こした。どうして彼女がヴァレルの鉱山にいるのだろう。

「夢?」

 アレットがそっくりそのまま聞き返す。

「きみがこんなところにいるはずがない」


「あなたねぇ! 自分がどういう状況に置かれていたのか分かって言っているの? あなた、落石事故に巻き込まれたのよ。詳細不明で、ただ事故に遭いましたって知らされたわたしたちの気持ちがあなたにわかる? ものすごく心配したのよ。わたし、居ても立っても居られなくってここまでやってきたんだから!」


 可憐なアレットのどこからこんなにも大きな声が出るのか不思議なくらいの剣幕だった。アレットはそれからじわじわと目に涙を浮かべる。


「わたし、わたし……。あんまり信心深くはないけれど、今回は神様にものすごくお願いしたんだからっ! ヴァレルを連れて行かないでくださいって」


 わぁっとアレットが抱き着いてきた。

 ヴァレルはまだよく状況をつかみきれないまま妻を受け止めた。

 寝台の上にアレットが覆いかぶさってきて、ヴァレルの胸元から意味不明な言葉が鳴き声と一緒に漏れてくる。おおよそ淑女らしくない、どちらかというと幼子のような泣き方だった。


 ヴァレルは困惑していた。彼女の体温を感じて、ようやく頭の中が回り出す。だから盛大に混乱した。まさかアレットが駆けつけるとは思わなかったからだ。

 彼女は、自分のことなどどうでもいいと思っているのではないのか。どうしてこんなにも取り乱しているのだろう。夫は後見人のようなもので、ここで自分を亡くなったらこの先路頭に迷うからだろうか。


「アレット……」


 声を掛けるとぎゅっと上衣の布を掴まれた。彼女はまだ泣いている。

 なだめようにも、エルサとシレナの大泣きにだって付き合ったことが無いのだ。姪たちが泣き始めると控えている乳母がすぐにやってくるからだ。

 ヴァレルは彼女の背中に手をやるか悩んだ。

 それはもうものすごく。


 色々と躊躇っていると扉を叩く音が聞こえたのち、控えめに開かれた。医者とベンジャミンが入室してくる。


「旦那様。お目覚めですね。よろしゅうございました」

 いつも飄々としているベンジャミンが笑みを浮かべ、やはり瞳には光るものがあった。

「打撲をされていましたから、鎮静剤を打ちましたと奥様にもご説明はしたのですけれどね。ずっと付ききりでして。よくお休みになるようカイゼル氏からもお話しください」


 医者は困ったように肩をすくめた。ヴァレルは眠っていたから知らないのだけれど、実際に医者は困っていたからだ。大したことが無い、鎮静剤を打ったから眠っているだけだと言ってもアレットはちっとも信じずに、ヴァレルが起きるまでここにいると頑として夫の側から離れようとしなかったからだ。


「カイゼル氏は運がよかったですよ。打撲といっても頭や背骨などの大きな骨には当たりませんでしたから」

「落石事故自体、そこまで大きなものではないと従業員たちも話しておりました」

「そうか。よかった。話が聞きたいから現場の人間を呼んできてくれ」

「もう少しお休みください」

 起き抜け早々会議でも始めそうな勢いのヴァレルに医者が今日一日は安静に、と強く言った。


「しかし」

「まだ薬が抜けきっておりません。突然立ち上がっても立ちくらみや眩暈に襲われます」


 医者重々しく念を押して出て行き、ベンジャミンも後に続いた。

 胸元ではまだアレットが泣いている、と思いきや彼女はいつの間にか眠っていた。

 それを確認したヴァレルは苦笑してしまった。

 まったく、子供と同じだ。散々泣いて疲れて眠るなど。


(思えば初めて出会ったときから無邪気なお姫様だったな)


 ヴァレルはアレットの髪の毛を優しく撫でた。絹糸のような細い髪に触れるのがいつのまにか大好きになっていた。眠っているアレットは特別に大好きだと思う。あの頃の、ヴァレルのことを慕ってくれていた頃のアレットを思い出すことができるから。


「きみは……どうして俺の心を乱すんだ?」


 ヴァレルの怪我を聞いて駆けつけてくれたアレット。

 そのことを聞いて俺がどんなに喜んだか、きみは分かっている? そのあとに、きみはまた俺を谷底に落とすんだろう? 俺の心はとっくにきみのものなのに、きみは決して俺に心の一部だって分けてはくれない。


 せっかく距離を離したのに、どうして彼女の方から近づいてくるのだろう。

 このまま彼女と会わなければ、そうすればアレットを彼女の故郷に返す決心だってついたかもしれないのに。


「また決心が鈍ってしまうだろう……アレット」

 アレットはヴァレルの服をぎゅっと握ったまま、すうすうと安らかな寝息を立ててい

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