第19話 残業日。今晩は手抜きの味噌おにぎりと豚汁 下

「ふぅ……終わった……」


 全ての仕事を終えた俺は、思わず声を漏らした。

 時刻は既に21時過ぎ。

 先程、投入した糖分も使い果たし、疲労感を覚える。

 目の前の石岡さんが、卵ドーナツを齧りながら、話しかけてくる。


「ん? 篠原、終わったのか??」

「全部、終了です。そちらは?」

「……大丈夫だ。バスの深夜料金まで、後一時間もある」

「…………タクシー代、回してきても弾きますよ?」

「だ、大丈夫だ。問題ない」


 石岡さんの顔が引っ込み、猛烈な勢いで入力を開始。

 果たして、間に合うのか、間に合わないのか。

 ……いや、多分、無理だろう。合掌。

 俺は隣で、少し疲れた表情をしている八月一日さんに話しかける。


「八月一日さんはどう?」

「あ、はい! もう、終わります」

「そっか。なら、帰ろう。石岡さんは、一人じゃないと集中出来ないみたいだから」

「はい!」

「……篠原君や。先輩に対する態度が冷たくないかね?」

「いいえ。平常運転です。……明日、社長への損益報告ですよね?」

「…………俺が死んだら、遺灰は、太平洋に、撒いてくれ…………」


 悲愴感溢れる表情を浮かべる先輩。

 武運は祈れるけれども、社長の質問、えげつないしなぁ。執行役員しか知らない情報を『何故、知らないんだ!』とか言うし。いやまぁ裏情報で知ってはいますが。

 PCを落とし、八月一日さんを連れ、総務部を後にする。


「それじゃ、石岡さん、お先です」「お先に失礼します」

「……お疲れ~。八月一日さん、篠原に気を付けて。男は狼だから!」

「え?」

「新人さんに変なことを言わないでください」


 石岡さんは、ニヤリと笑い、ひらひらと手を振る。

 まったく、困った先輩だ。


※※※


 八月一日さんとは最寄り駅で別れた。

 少し話しながら帰ったのだけれど、電車の方向は真逆で、住んでいる所も都内一等地。まだ、実家暮らしらしい。


『……両親が許してくれないんです』


と、恥ずかしそうに話してくれた。

 彼女、やはり良いところのお嬢様のようだ。

 とてもいい子なのだ。仕事も、新人ならではのミスこそあるものの、全般的に優秀。何れ、幹部になっていくかもしれない。

 そのまま真っすぐ、帰宅。

 鍵は開いていない。俺の方が早かった――……ああ、今の思考はダメだな。何が、ダメとはあえて言語化しないけれども、ダメだ。うん。

 さっさと着替え、冷蔵庫の中身を物色。腹が減った……。


「かといって、凝った物を作る気力はなし、と」


 そう言えば、四月一日の奴、おにぎりが食いたいとか、言ってたな。

 まぁ、この時間に帰ってないところを見ると、食べるかは怪しいが。

 少し考え――俺はおもむろに米を研ぎ始めた。

 無洗米は便利なのだけれども、何となく自分で買う際は普通の米を買ってしまう。

 明日の朝のことも考えて、本日は三合。

 研ぎ終え、浸水。

 いきなり、炊飯器にかけるよりはこっちの方が美味しい。

 その間に、冷蔵庫から、人参、大根、こんにゃく、豚肉、生姜の欠片を取り出す。残念ながら、ごぼうとネギは無し。

 大根、人参、豚肉、こんにゃくをまず切る。具がごろっとしている方が好きなので、大き目に。

 鍋にお湯を沸かし、こんにゃくを茹で、ざるへ。

 炊飯器のスイッチもここでオン。腹が減っているので高速炊き。文明の利器って、素晴らしい。

 鍋に胡麻油。豚肉が一番先。その後、人参、大根、水気を切ったこんにゃく。一煮立ち。

 早くも炊飯器から湯気。いいねぇ。携帯が震えた。四月一日からメッセージ。


『えーきー。おなかーへったぁぁぁ』

『今晩は何もない。ないから、そのまま家に帰り給え、四月一日幸君。つまみ食べたろうが?』

『嘘だ! 何だかんだ真面目な篠原雪継君は残業を終え帰宅したとしても、夕飯を作るに決まってるっ! あと、私、おにぎりリクエストしたもんっ!! 豚汁も食べたいな~。な~☆』

『うぜぇ。黙れ酔っ払い』


 冷たく返しながら、鍋の中の灰汁をすくう。

 野菜が柔らかくなったので、生姜の欠片、みりん、酒、出汁、味噌を投入。よく溶かし、火を止め蓋。

 丁度、ご飯も炊きあがった。味噌と小皿に出したたっぷりの摺り胡麻を用意。

 炊飯器の蓋を開けると蒸気。炊き立ての米は良い物だ。

 ボウルに米を出し、手に水をつけ、握っていく。


「あつっ、あつっ」


 三角形に整形出来たら、味噌を塗り、小皿の擦り胡麻の中へ。

 何でもない、篠原家の味噌おにぎりだ。

 二個、三個、四個……とりあえず、合計六個でいいか?

 大皿におにぎりを置き、お椀を二つと箸二膳を取り出す。

 ガチャ、と玄関が開く音。そして、機嫌良さそうな声。


「たっだいまー。まー。いい匂い! これは――豚汁☆」

「……まずは手を洗ってこい」

「雪継、た・だ・い・ま」

「…………おかえり」

「むふふ~♪」


 キッチンに顔を覗かせた四月一日幸は、何がそんなに嬉しいのか、満面の笑みを浮かべ洗面台へ。ったく。

 豚汁を椀によそっていると、早くも着替えた四月一日が戻ってきた。


「わ! わわ! 味噌おにぎりっ!! 私、雪継のおにぎり、好き。大好き。世界で一番、好き」

「大袈裟過ぎるだろ。豚汁、ごぼうとネギ抜きだ。七味はお好みな」


 向かい合って座り、手を合わせ「「いただきます」」。

 ――味噌おにぎりと豚汁は半端なく美味かった。

 簡単で美味い。素晴らしい。摺り胡麻を讃えよ。摺り胡麻、万歳。

 食べてる最中、四月一日に八月一日さんと会社の最寄駅まで一緒だった話をしたら「……妖気。あざとい妖気を感じます、父さん……」とぶつぶつ、言っていた。父さんって、誰だよ。

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