第4章 東天アパート 第1話 夢から覚めて


 こんなもん夢に決まっとる、と小山なずさは思った。そしたらやはり夢であった。その証拠に見覚えのあるむさい天井と古い蛍光灯の丸い明かりが存在していた。

 すでにして、今視神経から送られたかのように認識され解釈された情景は、眼前で起こった出来事はもう、すうっと消滅しつつある。


 誰か知己の男がとんでもない表現をしたのだった。そこまではわかるが、言葉のどんな組み合わせであったのか、それらがどんなにあり得なくとんちんかんであったのか、もうつかまえることは出来なかった。

 そんなこと、どうでもええわ。

 夢を見るなどそんな啓示は絶えてなかった。しかも記号は有り得てもその接続が有り得ないとは、有り難いことだ。小山なずさはこうしてこちらに戻るやニヤアッと破顔したのである。


 オオッサ、世界よ、かかってこぉい、と腹の底だけで叫ぶ。

 生かされている目的が納得できないし、自分が使用して役に立っていた母国語が窮屈で、罠にはまっているようだ。決して逃れることは出来ない。出来ないにしてもこの事実を念頭に置くこと。

 そんなことを頭が勝手に並べていくのを許しながら、外に出た。



 昼間の外出だ。

 二千十年のこんにちはァ、三波春夫の美声が朗々と耳の中で鳴っている。あれは千九百七十年の大阪万国博覧会の唄であった。

 ま、眩しい、さすがに眩しい。月の光とは土台比較するのが無理というものだ。そのまま、だんだら坂を下っていく。

 せりなずなごきょうはこべら、と畦道を辿っていく時唱えている。


 自転車がこちらにゆるゆる上がってくる。この地域では珍しい若い母親が、一歳前後の子供を前かごに乗せている。子供が枝を指差す。いかにもぷくりとした指で。同時に、ン、と声を出す。母親は、

「小鳥さんよ、ことり」

と、明確に言う。

一呼吸おいて、

「ナイ」

 息とともに全身の力を込めて子供が発声する。

思いもかけず、

「そうね、小鳥さんいない、行っちゃたね」

と、母親がゆっくり言った。


 わっと記憶に襲われた。

 小山なずさは自分の胸が熱くなり眼にやはり熱い膜が瞬間に湧いたのを感じた。生物として母としてそんな風に相手をして育てたことがあった、自分の遺伝子を運び継ぎゆく肉のかたまりを。


 その存在は、まずはチンパンジーの母子に典型的なように、いつもくっついて離れず、母親を観察し真似し、自分を保護させ、学ばせて、つまりは自分に言語を覚えさせるべく、脳神経を日々環境に適応させていく。

 そのためにこそ快と不快、充足と不安を表現し分け、アイコンタクトと顔の表情観察をして母親の状況を認識する。

 社会的人間のベースが作られていく。


 のだな、とこんなことを思いつつ歩くわたくし達って一体、と小山なずさは、外に出るや否や過去と向き合うことになったのに面食らって意外な方向から自分にジャブをかませようとした。

 初めてのこの疑問。いまだかって考えたことも無かった規模の疑問が。

 わたくし達はところでもうどれくらい実測で疾走したのだろうか。

 勿論この疾走の際に我々は風を感じない。

 無の中をいくら高速で走っても、短距離走者が空気抵抗を、水泳選手が水の抵抗を感じるようなことにはならない。


 大気に保護され、自転しつつ、太陽系ともども、ミルク銀河ともども、ブン回されつつどれ程の距離を後にしてきたのかな。おっとそうだ、疾走の距離といっても、この天の川銀河の軌道だって偶然性に富んでいるらしいしね。過去に二つの銀河の衝突があって生じたという形跡もあるそうだし、お隣のアンドロメダ銀河と衝突する可能性もありうるという。つまり走っていく道筋が行き当たりばったりということ。おまけに付け加えると、もし我々がまだ生きていたとして、このアンドロメダ衝突を別に認識しないかもしれないそうだ。桁違いに銀河はでかいし、宇宙は広いから。フーィフィ。


 とこんな、いつかは知らないが聞き知った事柄を織り交ぜて、春先に現われる小さな黄色い蝶たちの不規則なUFOめいた動きにも似たあれこれを、実は昨日から言葉にして考えていたことに気づいたが、とは言えそれらは全てナンセンスというものだ。


 

 小山なずさは化学物質過敏症であり、慢性疲労症候群である。その結果ひきこもりである。

 北側に里山のある集落の民家から離れたところに、ある時期アジアからの働き手たちが住まわされたという壊れかかった二階建てのアパートがあった。東天アパートだ。

 二〇〇六年のころ、まだリーマンショックから世界中に経済的負の連鎖が起ころうとは誰も夢にも思わなかった頃だ。間もなく空になり、地域の役所からも半ばほったらかし状態だったのを、都会からあぶれた数人の人間がいつのまにか、住みついている。

 生活保護を受けている者が大部分だが、小山なずさは辛うじてなお最後の蓄えをゆっくり使い果たしつつあった。


 昭和の上昇飛行に乗って、いち早くIT技術に巻き込まれ、自分から夢中になった。偶然、経済にも強かった。

 社会全体を見渡すこと可能で、重要なポイントがわかり、人に良き指針を与えられると思われるような野崎経済研究所で働いていた、っけな。

 アホらしい努力だった。

 強欲と虚飾と向上心に溢れていた。

 大体、と小山なずさは現在のドンづまりから言葉を上げる。

 これだけで生きるのに充分じゃないか。畳二枚、壁四枚、天井にひとつにシャツ二枚、下穿き二枚、パンツ一本、靴一足、箸一組、茶碗皿数枚、鍋フライパン各一。

「愛さえあれば、」

と、実は思ってもいないことを言葉にして、付け加えて言ってみた。愛も無くても、と訂正する。

 この二年半の眠りは良かったのだ。


 燃え尽き症候群から慢性疲労症候群、順当にいわゆるうつ病となり、ほとんどいわゆる統合失調症となり、何をする意欲も失う。そして引きこもり。都会にいても里山にいても、餓死してミイラとして見つかった可能性もあった。

 最低の生存条件がそろう。というか、最悪だった。が、生き延びるかもしれない。地の底から這い出てきた。後ろの穴ぐらを振り返る。


 小山なずさが、その脱力感と恐怖感から脱却しようと、良くなろうと努力すればするほど肉体的な症状が増えていった。

 身の回りのものすべてが小山なずさを押しのけた。肉体が反抗した。騒音、照明、時計、かばん、パソコン、携帯、部屋の壁。五感で感じる存在するもの、脳内に生じる感情と考え、何一つとして不愉快で耐え難くないものは無かった。

 結局は、薬でぼんやりさせられた頭はある時期眠りこけて、悩みから遠ざけられた。要は神経に休養をとったのだ。

 何も存在しない部屋、音が襲ってこない家、薄暗い体内のような空気、考えない、感じない、時間を忘れること。



 壊れた脳神経だって再生する、そのことは最近の医学的常識だ。


 バナナが安くて腹持ちがいいのが幸いだった。天の恵みのひとつ。それから鰯のカンズメ、鯖の味噌煮カンズメ、安くて旨い。

 このまま動く気も無い、自殺する元気も無い、死ぬまで待つことになろう、などと本気で思っていた。なのに運良く、日に一度真上の部屋のカイコさんの訪問によって野垂れ死にを免れたのだ。


 カイコというのは勿論その人物に対する小山なずさの印象である。

 その足音を夜に聞いていた。いびきやため息も聞こえた。ドアの軋みと階段を下りる足音、廊下をこちらに曲がってくるゆっくりした歩み、均等な歩調ではない。

 ノックされる。一度ドアを開けて以来、鍵をかけてなかったのでカイコさんはのそっと入ってくる。多分女性で、多分中年だ。


 毛糸の帽子の下の藁のような髪の毛にかこまれて、陥没箇所の大きくて深い、蚕の体のような色と皺からなる顔の部分がある。

 何も言わない。ペットボトルに水道水を入れてあるのを、小山なずさが駱駝のように寝転がっている方向へ向かって、すうっと投げてよこす。

 小山なずさの物憂い目差し、カイコさんの無表情の口元。

 それから、床にある箱の中から小銭をいくばくか取ると、カイコさんは黙って去る。自転車の音。

 十五分ほど走ると温泉町滝野がある。街を周回して雑誌やアルミ缶、お金など拾うのだろうと小山なずさは昔の記憶を使って推測する。まさか街角に立つのではあるまい。万引きをするのでもあるまい。

 と思うのも一瞬のことだ。

 薬からの覚醒時間。


 自分の内面の苦しさに呻く。頭を抱える。深く深く身をかがめる。絶望の色にすべてが彩られている。その闇の色。


 頭より先に、体に感じるその鋭い刃。

 胸が切り裂かれる。全身が震える。逃れようとして自分の髪を力いっぱい引っ張る。涙まみれだ。もう理由など考える余裕は無い。

 日に一度、共用トイレまでよろめいていく。大したものは出ない。くさい。自分の体もくさい。と、一瞬だけ思う。

 がっくりとうなだれて、空も外も見ない。

 暗い暑い部屋に倒れこむ。


 この部屋はどうして見つけたのか。

 休職して医者に行けばまだ回復すると思っていたはずなのだが、休職中に、あろうことか、かっこ良かったマンションからこんな三畳のアパートに移った。すべてが疎ましかったような、自分を失っていたような。いい服もかばんも化粧品、靴、アクセサリー、疎ましくて捨てた。のだろう。

 そのまま退社となった。失業保険のほかにお金は少々持っていた。


 潰れた娘のために母親の大野みずさが薬を持ってくる。自分が病状を訴え、娘に成り代わって診察してもらっているそうだ。

 親の愛? なもんか、こそこそした利己主義の知らんぷりのあの人、私を置いて出て行った母親。十歳にもなっていなかった。偽善と自分を守ることのその間のすれすれを生きている女。


 母親を見ていると憎しみに支配されたくなる。大野みずさは眉根を寄せ、両目の目尻を垂らして

「頑張ってね、どうしても何とか頑張ってね、祈ってるから」

と、不愉快な声音で言って帰る。


「今度来たら殺せ、生かしておくな、今度は殺せ」

 頭の中で文章が発声される。憑かれそうだ。その文章を繰り返したら気持ちいいだろうと想像がつく。だめだ、試しにでも言ってしまったらいけない、と小山なずさの最後の理性が点滅する。


 避けろ、近寄るな、母子関係の修復が可能であろうと不可能であろうと。

 暑く、寒く、死にたく、助けて欲しく、ヒイヒイいいながらも夕方になる。




 カイコさんがコンコンノックする。

 バナナ二本と鰯のカンズメ一個、それを押しながらカイコさんは膝頭でずるずるそばまで這って来る。くさい。けれども、最近はそのくささに懐かしさも覚えて、目が目を求める。

 小山なずさは三十九歳の瞳を開ける。カイコさんの年齢不詳の、皺の中にある瞳らしいところをさぐってみる。一秒間くらいだ。

 カイコさんは意に介せず、汚い手で小山なずさの散らかしたものを綺麗に寄せ集めて、持参の袋に妙に正常に入れる。その袋と共にバックしてずりさがっていくと、くささも遠去かる。

 ドアが閉まり、階段を上る音、上のドアが開き、ドス、ドドス、と移動する音。

 その時、小山なずさは自分の苦しみを考えていない。カイコさんにこのアパートが与えられてよかった、というような感情を抱いている。ほとんど意識せずに。


 そんな二〇〇九年の夏を小山なずさの心身は執拗にまだ生きていた。

 長い休養、郭公のような母親のもたらすパキシルその他の薬、カイコさんの給餌、トラウマとなった環境の中で幾重にも強化されたストレス耐性、そんなものが小山なずさを死なせなかった。


 秋風の立つ頃、夜に窓を見上げた。小山なずさの意識としては何も思わずにした行動だったが、それこそが脳の意欲だった。

 光る丸いものがあった。その周りは濃い青色だった。

 訳がわからない気がした。これは何だったっけ。よく見ると光を発するものには薄い影の形があり、その周囲は明るいが、次第に遠ざかるにつれ暗い青色が増した。

 それらは不思議であり、懐かしく、それらを美しいと感じた。

「月だ」

「夜空だ」



 小山なずさは自然を切り取り、それを概念となし、その概念を記号で表した。日本語の。それから自動人形のように、空腹も食欲もさして感じないのだが、行事として手を伸ばした。

 カイコさんの水道水、バナナ、鯖のカンズメ、今日はどういうわけか薬にそえてある食パン、それらを口に入れ汚い歯で噛んで呑み下した。

 それぞれの味がした。味覚、嗅覚、触覚が電気信号を伝え、脳の伝達物質セロトニンがわずかながら働いた。細々と回路が繋がった。もうひとつの伝達物質ドーパミンも働いた。


 小山なずさは何と、

「さて」

と、呟いた。

 力が入らないので、カクンカクン、としながらドアを開けた。普段は廊下を右に洗面所に行くのだが、そうはならじ、とばかり直進した。すると空の下に出る。

涼しい風が小山なずさのうすっぺらな身体に沿って、流動力学的に正しい線を描いて流れた。肌からべったりした暑苦しい空気が吹き飛ばされる。

 風は次々とやってきた。

 小山なずさは息を吸った。息を吐いた。また吸うために。吐ききるまでいつまでも吐いた。苦しい、と感じてもまだ吐くことができるのだ。同時に脳内のどこかでは苦しさを和らげようと緊急処置セロトニンが放出された。

 吸った空気はできるだけ体中にためた。

 よどんだ空気を肺のどんな片隅からも追い出して、代わりに涼しい自然の力を体の隅々まで行き渡らせ感じさせた。


 月に向かって、両腕を差し上げた。

 涙が流れていたが、自分では感じないで、そのままゆっくりくるくると自転した。

 天から地面まで一筋の月光の線に突き刺されたように、団子三兄弟よろしく頭蓋と胸腺と丹田を一本の何かで貫かれて回転した。

 その動きと、その動きを無意識なままに感じている本人の様子は、不気味な汚い光景ではあるが、小山なずさトレーニング開始の瞬間であった。

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