君沈み鳥帰る

犬怪寅日子

きみしずむ

 三十二番目の王女がいよいよ死ぬというので、レピは私の足に泥を塗った。


 町の外に出るには川を渡らねばならず、川を渡るには水面を歩かねばならず、水面を歩くには足に泥を塗らねばならない。今や、レピの空白の多い頭の中にはその式しか存在しないようだった。

 レピはいつでも泥を塗りすぎるのだ。

 川の表面は今日も透明に青黒く、下に沈むほど光り輝き、水底は空より明るい。レピに気付かれぬよう覗き込むと、水底の民が岩に金粉で絵を描いているのが見えた。彼等はいつでも幸福に歌い、踊るように暮らしているが、名前がないために永久に不幸でいる。

 というのがこの町の人間が考えた神話だ。

 しかし彼等は皆、元はこの町の人間なのだ。不幸にも事故で墜落したか、不幸にも自ら身を投じたか、不幸にも奸計により沈められたか、理由はさまざまあろうが、あまねく不幸により墜落した。

 水底に下り立った瞬間、彼らは名を失う。永久に、誰からも話題にされなくなる。忘れるのではない。ただ口にされないのだ。しかし、それらは現象として同じことである。名の消滅は、過去の抹消。存在の亡失。

 さてそれでは。

 生まれつき名前を持たない私のような生き物は、一体どのような状態にあるのだろうか。幸福なのか、不幸なのか。あるいはそれとも違う別のものなのか。

 レピにそのことを聞いたとき、彼女は弾丸を吐き出すように、短く鋭く笑った。

「あんたのような飼い鳥に、状態なんてないわ!」

 そうして私の首輪から伸びる紐を引っ張り回し、また笑った。

「ほら、ねえ、こうやって私の行くところにお前は付いていく。朝も昼も夜も、私の側にいて言うことを聞く。それだけ。それだけよ! お前にあるのは!」

 私たち鳥の民は、かつて、彼女たち人間に酷いことをしたのだそうだ。ゆえに教育し、自由を知らないように、首輪をつけていなければならない。これも彼等の気に入りの神話である。

 かつて鳥の民は空を飛べたのだそうだ。

 ばからしい。

 レピは泥で二倍に腫れ上がった私の足を、母親を見るときと同じようにうっとり眺めた。

「これでいいわ。決して水底に墜ちるなんてへまはしないことよ。王女の鈴を手に入れるまで、ここに戻ることも許さないわ。首輪を取ったりしてもだめ。紐は私が持っているのだから」

 彼女たちは、この紐と首輪に魔術的な力があると信じているようだった。首輪がここにあり、紐がそこにあれば、それらはどのような遠い場所にあっても、互いの位置を正しく覚えているというのだ。

 レピは空を見上げ、目から光る水滴をいくつか溢した。

「ああ、スカーニャ。私の王女」

 そうして、最後の祈りを始めた。

 レピが幼い頃、一度だけこの町に王室のパレードが来たのだそうだ。ひと目見てレピは第三十二王女に首ったけになった。恋い焦がれるあまり、まさに首を切ろうとさえした。レピの姿形は、あのときに見た第三十二王女の映しだ。レピの髪色を第三十二王女と同じ、甘く桃色の差した乳白色に変えるために、私の指先は随分短くなった。染料が皮膚を溶かしていくこの匂いは、もう二度と私の指先から取れないだろう。

 王室は千年を掛けて国中を歩き回り、特定の城を持たない。本来ならば、王女の吐いた鈴を手にいれることは不可能だ。しかし、死を悟った第三十二王女は居を構え、わずかばかりのお供とこの川の向こう側で暮らしているのだという。

 だからレピは高価で貴重な泥を私の足に塗りたくっているのだ。

「お世話をさせてもらうまで、何日でも何年でも、頼み込むのよ」

 得体の知れぬ鳥の民が城に近づけるのかどうか、そんなことは端から考えもしない。今やレピは、飼い鳥を放ち第三十二王女の吐いた鈴を手に入れるという、夢想的冒険に取り付かれている。鳥が飛び立ち、また自らの腕に戻る。夢。

 私に与えられたのは、麦穂で作られた袋一つきりで、そこには帰りに川を渡るための泥が入っている。物憂い重みが肩をえぐって、無性にどこかへ帰りたくなった。どこかへ。

 誇らしげな顔付きで、レピは私の首輪から紐を外した。

「さあ行きなさい。そうして、早く帰ってくるのよ」

 私の鳥よ、とレピは目を細めた。

 ほんの少し手を引っ張ると、その体は簡単によろめいた。


 大きな水音がして、彼女は永久に名前を失った。


 水面を歩く度、足から泥が剥がれ、墜ちていく粒は虹色に水底へ降りていった。水底の民の幸福な顔付きは個々の識別を難しくさせ、もうどれがレピだか分からなかった。

 レピはもう、あの町の誰にも名前を呼ばれない。

 存在した証拠は語られない。

 麦穂で作られた袋から泥を溢しながら川を渡ると、水底は虹で埋もれた。

 川の向こうには同じ景色の町が五十一あり、人間は粉のように溢れていたが、鳥の民を知る者はどこにもいなかった。

 まったくもってばからしいことだ。

 第三十二王女の城は一様に白かった。甘い砂と透明な糸で出来ており、衛兵たちは誰一人王女がどこにいるか知らなかった。そもそも、彼等はみな毛むくじゃらで言葉を解さない。

 唯一、長い耳を他の衛兵たちの絨毯にされている、丸い毛むくじゃらだけが私の言葉を理解した。彼の瞳は光なく黒々としていた。

「鳥の民よ。翼をどこでもがれたか?」

「もともとありません」

「はて面妖な。ないものはもがれはせぬが」

「スカーニャ王女はどこにおられますか。お世話をしたいのですが」

「王女は病んでおる。あと千と十七回花弁が開けば身罷られる」

「どこにいけばお会いできますか」

 王女の部屋へ向かう階段は、彼の左耳の付け根からちょうど八十歩先の真下にあった。他の毛むくじゃらが耳の上を何度も通るので、捲って中に入るまでに三日掛かった。

 星月夜の階段のうちにはなにもなく、瞬きだけが存在だった。

 下りた先にはただ透明な壁だけがあり、それは指で触ると簡単に溶けた。しかし、溶けた壁は透明に指先へ張り付いて、第三十二王女の部屋に付く頃には、私の指は五倍に膨れ上がっていた。

 レピが見れば、稲妻のように笑うだろう。

 第三十二王女は天蓋の下にいて、瑠璃色の蜘蛛がドレスのひだで遊ぶのを眺めているところだった。甘い水蜜桃を混ぜた乳白色の髪はしみじみと美しく、柔らかい曲線はゆったりと複雑な弧を描いていた。レピの髪は針のように真っ直ぐで、こんな風に輝いてはいなかった。

 王女のいる場所から十五歩離れた場所で、私は声をあげた。

「スカーニャ第三十二王女であらせられますか」

 王女は蜘蛛と戯れるのを止め、綿のような声音で答えた。

「ええ。私はスカーニャ第三十二王女と呼ばれています。あなたは?」

「王女のお世話をしに参りました」

 恐ろしい物が目の前に現れたように王女は繰り返した。

「私の?」

 王女が立ち上がると、瑠璃色の蜘蛛たちは方々へ散っていった。彼女は裸足で、その内果には愛くるしい脛骨が張り出ていた。王女は首を振った。

「あなたに病を渡すわけにはまいりません」

「移るのですか」

「そう聞きました。だからこうして、彼女たちに手伝ってもらい、籠城しております」

 スカーニャ王女はちりぢりになった瑠璃色の蜘蛛たちを眺めた。あたりを囲む透明な壁がすべて蜘蛛の糸であることを私は理解した。しかし、私の腕に絡みついていたかつての壁は、今や光を零しながら溶け始めている。

 スカーニャ王女はうつむき、寂しい弦のような声を出した。

「彼女たちの糸は体温を厭うのです」

 スカーニャ王女の足下にも、光を孕みながら溶けているものがある。どうもそれはかつて靴であったらしかった。ごめんなさいね、と王女は瑠璃色の蜘蛛たちに謝った。蜘蛛たちはおのおの身を震わせ王女に応えた。

「ならば、私が溶けない壁を作りましょう」

 第三十二王女は、私の顔を見た。甘い髪の一房が頬に張り付いている。王女の頬の下に色水のような体液が流れているのが見えた。王女が再び首を横に振ろうとしたので、私は自分の首に爪を当てた。

「お許しがなければ、私はここで首を掻き切ります」

 王女は攫われていく子供を眺めるような顔つきをしてから、ひたひたと十五歩こちらへ歩いてきた。

 スカーニャ王女の指先からは、白い花の匂いがしている。

 赤い土の匂いがしていたレピの指先とは、まるで違う。

「ここには部屋が一つしかありません。あなたの天蓋を作ります」

「いいえ。結構です。私は昼も夜もその先の朝も、あなたの足下におります」

 床は白々と冷たかった。


 王女は、祈るような手つきで私の首輪を外した。

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