第3話

 七月に入り、新潟も暑くなってきた。俺たち四人は、朝晩と一緒に自主トレーニングをしている。

 俺は最近になって、ようやく筋力ならみちるに勝てるようになった。と言っても、腕立て伏せが何回か上回れるとかその程度だが。

 ランニングでのスタミナとなると、どうしてもぎりぎりで勝てない。なぜだ。あんな大きな重りを胸にくっつけているのに。それともあれは増槽で、航続距離が伸びるのか。

 蒔絵は相変わらず細身に見えるがしぶとい。延岡はパイロットには見えなくなってきた。

「泉。これから暑くなったら、あんまり根を詰めすぎるなよ。オーバーワークを起こす。俺たちの目的はダイエットじゃないからな」

「わかった」

 延岡は中学時代柔道部で、顧問は技の指導には問題なかったが、体作りは『筋トレしてプロテイン飲め』としか言わなかったので、自分で色々と研究したそうだ。

 その延岡の指導のおかげで、俺の体は多少ましになってきている。ソイプロテインは飲んでいない。あれは牛乳に溶かしてもまずくて飲めない。

 俺たちは空港前で汗を拭いて、たっぷり水を飲んだ。他にもパイロット候補生や正規パイロット、陸軍兵も自主トレーニングをしている。特に陸軍はすごい。空港守備隊とは言え、何十キロものウェイトを担いで走っている。

「あたし、人には言えない体重になっちゃった」

 蒔絵が嘆いた。

「筋肉の塊だぞ。誇れ」

「延岡なんてゴリラじゃない。ゴリラ」

 みちるが笑いながら言った。

「いやいや。水沢の胸の厚さのほうがすげえ。ちょっとウホウホやれよ」

「延岡、てめえ!」

 みんなでげらげら笑った。

 朝のブリーフィングに、浅川大尉はこなかった。代わりに、デルタ5の三木みき中尉が壇上に立った。

「急だが、浅川大尉は県庁での打ち合わせやらテレビ出演やらでごたついてる。今週の訓練は俺が担当する。よろしくな」

 以前にもこう言うことはあった。順当にいけば副隊長でデルタ2の西前さいぜん大尉が代理主任教官になるところだろうが、三木中尉は自衛隊時代に浅川大尉のF―2B型の後席搭乗員を担当しており、訓練機と言う以上に複座型の操縦に慣れている。もちろん単独での操縦技量も高い。デルタ5と言う若い番号も、それをもの語っている。

 デルタ1、新潟空軍の隊長でありエースは、もちろん浅川大尉だ。あたりまえだが、容姿で目立つからエースナンバーを取っているわけではない。自衛隊時代は三十二歳で一尉の西前大尉の方が年齢も階級も上だったが、『あんな天才に勝てるか』と言って浅川大尉にエースナンバーを譲った。浅川大尉はだいぶ遠慮したそうだが。

「えーと、なんだ。……田中は連続インメルマンを決めてるって? どうなってるんだ。ワルキューレの再来だな」

 蒔絵が赤くなった。

 俺たちパイロット候補生はもう、なにも触らずにGに耐えているだけじゃない。操縦桿サイドスティックを握って、各種マニューバの習得に励んでいる。

 中でも蒔絵はずば抜けている。俺たち四人の中ではもちろん、他のパイロット候補生たちも圧倒している。基本機動のループでさえ、その精度、旋回半径に及ぶものはいない。

「他の候補生も負けるなよ。ビシビシしごいてやるからな。いいな!」

「はい!」

 俺たちは声を揃えた。三木中尉は二十三歳と若いが、最年長三十歳のパイロット候補生を前にしても言葉使いは変わらない。戦闘機パイロットは、強いものが偉いのだ。

「よう、第二のワルキューレ」

「やめてよ……」

 延岡にからかわれて、蒔絵がまた赤くなった。

「インメルマンターン、連続何回だ?」

「まだ三回までかな……それ以上は、集中力が途切れそうで。体ももっと鍛えないと駄目ね」

「うえ、俺なんかこないだやっと一回だぜ。それもFBWのおかげだよな」

「デジタルFBWにCCV、J/APG―1はF―2の目玉じゃない。おかげって言うか、使いこなさなくちゃ」

「そうだな」

 フライ・バイ・ワイヤFBW運動能力向上機CCVの組み合わせはそれ以前の戦闘機と比べて別次元、いや異次元と言っていいほどの空中戦闘機動をもたらす可能性を秘めたシステムだ。いずれまったく新しいマニューバが生み出されるだろうと言われている。

 J/APG―1は世界初の戦闘機用アクティブ式フェーズドアレイレーダーで、三六〇度全周のレーダー探査が可能になっている。従来のレーダーは前方一二〇度程度のみだけだから、驚異的な進歩だ。

「でも、延岡はこないだスプリットSに挑戦してみたって」

「おう。すごい高高度でな。超おっかなくて全然駄目だった」

 延岡が笑った。

「急速降下機動はな……浅川教官に高高度からの急降下、海面すれすれでの引き起こしをやられて。もう、怖くて目を閉じないでいるのが精一杯だった。なにもしてないのに息が乱れて」

「わかるわ。でも、なにが嫌ってマイナスGが一番嫌。一瞬でも怖くて怖くて」

 蒔絵は本当に体を震わせていた。

「あれはな……マイナス1G超えたら、もう命の危険を感じるな」

「金玉失くなったかと思うぜ」

 延岡が下品なことを言ったが、同感だった。

 人体は、耐Gスーツのおかげでプラス9Gまでなら耐えられる。ところが、マイナスGの場合は三分の一のマイナス3Gで死の危険に陥る。

 強いマイナスGがかかると、血流が眼に集中して目の前が真っ赤になるレッドアウトを起こす。最悪の場合、脳内出血などを引き起こして死に至る。そして、プラスGに耐えるための耐Gスーツのようなレッドアウトを防ぐ手段はない。

「でも、実戦だと使わなくちゃいけないんですってね……」

「敵に後ろを取られかけたら、なんでもやらないといけないからな」

「逆ループとかで訓練してるけどさ……もう、気持ち悪くて」

「田中も気をつけろよ。腕がいいのはわかってるけど、無茶しすぎるな」

「大丈夫、あたしだって怖いって言ったでしょう。ただ、しっかり自分の限界は見極めていかないとね」

「蒔絵の場合、その限界値が俺たちより高いから、ふっと危険域に入りそうで怖いんだ」

「……うん。ありがとう」

 俺の言葉に、蒔絵がうなずいた。

 その日の俺たちは、示し合わせたようにマイナスGマニューバの訓練を志願した。

「あれは俺だって気持ち悪いんだぞ」

 と三木中尉が笑った。


 八月に事件が起こった。俺は死にかけた。

「泉ィ!!」

 いつものように四人で朝練に行こうと空港の玄関を出たところで、大声で名前を呼ばれた。

 俺たちの前に一人の若い女性陸軍兵士WACが立ち、拳銃を俺に向けていた。

 俺は左右の蒔絵とみちる、延岡を突き飛ばした。

 WACが撃った。俺には当たっていない。俺は左右を見て、倒れた三人にも当たっていないのを確認した。それから、WACに向かって走った。

「海彦!」

 蒔絵の叫ぶ声が聞こえた。同時に二発目の銃声。左耳の近くで、銃弾の擦過音が聞こえた。

 俺は激怒した。俺を撃ったことにじゃない。新潟陸軍軍人ともあろうものが、十メートルもない距離で二発も撃って外すのか!

 WACの目の前までたどり着いたところで三発目が発射された。左脇腹に熱い塊がぶつかったのを感じる。だが俺の勢いは止まらなかった。走りながら、WACの顔面に右拳を叩き込んだ。鼻骨が砕ける感触を感じる。かまわず右腕を引き、今度は左拳で殴りつける。

 WACは顔から血を撒き散らして倒れた。左拳が痛い。まともに頬骨に当たったらしい。俺の指が折れていないといいが。

 倒れたWACに、駆けつけてきた延岡が飛びかかった。右手に持った拳銃を押さえつける。

 銃声を聞きつけた空港の人間が集まってきた。俺は体から力が抜けて、地面に膝をついた。

「海彦!」

 そばにきた蒔絵が俺の体を支えてくれた。

「……悪い……傷口を押さえてくれ……」

 自分ではうまくできなかった。

「横になって!」

 蒔絵とみちるが、俺の体を横たえてくれた。蒔絵が俺の傷口を手で圧迫した。あまり痛みは感じない。

「くそ……せっかく鍛えた脇腹筋肉が……」

「馬鹿、なに言ってんの!」

 みちるは踵を返して、駆けつけた空軍パイロットたちの方へ走っていった。

「海彦。大丈夫よ。そんなに血は出てないわ。大丈夫」

 俺の傷口を押さえる蒔絵は、泣きそうな顔をしていた。

 倒れたWACは拳銃を取り上げられて、陸軍兵に引きずられていった。

 やがて救急車がきて、俺は新潟大学医歯学総合病院に運ばれた。


 あの女性陸軍兵士WACが撃った九ミリ拳銃の弾丸は貫通しておらず、弾丸摘出手術を受けた。幸い、内臓には一切傷がついていなかった。

「よう、不死身の男。元気か?」

 面会が許可されると、三人が一番最初に見舞いにきてくれた。おそらく普通なら事情聴取などでお偉いさんが先にくるところだと思うが、気を使ってくれたらしい。

「顔色もよさそうね。これ、クッキー。内臓は大丈夫だって聞いたから、食べられるでしょう?」

 蒔絵がきれいにラッピングされたクッキーを俺に手渡した。

「ありがとう、もらうよ。……なんか手作りっぽいような」

「蒔ちゃんの愛情がたっぷりこもった手作りクッキーだよ。ありがたく食べなさいよね」

「ちるちる!」

 蒔絵が赤くなった。

「泉が救急車で運ばれたあと、田中は大変だったんだぜ。いつまでもわんわん泣いてな。浅川教官に抱き締められて、やっと泣き止んだんだ」

「ちょ、ちるちるだって泣いてたでしょう!」

「そうだけど。でも全然レベル違ってたよね?」

「段違い」

 みちると延岡が笑った。蒔絵が真っ赤になった。

「……いや、まあ、ありがとう。こんな不名誉な負傷だって言うのに」

「……ああ、あのWACだけどね。あたしたちと同じで今年徴兵されたんですって。元は柏崎市出身で、あれから新潟市に引っ越して。なにか、それから色々あったらしいわ」

 いつもの様子に戻った蒔絵が言った。

「そうすると、恨まれても当然だな。女の鼻を折ったのはやりすぎたか」

 俺の両拳は無事だった。

「そんなわけないでしょ。逆恨みじゃない。……まあ、あたしらも最初はそうだったけど」

 みちるが決まり悪そうに言った。

「だいたい、銃を持った相手に素手で殴りかかるなんてどう言うつもりなの? 本当に死ぬところだったのよ。戦闘員じゃなかったからよかったようなものの」

 蒔絵が怒っていた。

「それでか。あんまり射撃が下手だったから腹が立ったんだ」

「まったく……」

 蒔絵が眉間に皺を寄せていた。

「しかし、二週間も訓練から離れないといけないなんて、きついな……」

 F―2B型同乗飛行で操縦桿を握らせてもらえるようになって、これからなのに。

「海彦には悪いけど、退院してもさらに二週間は飛行は無理よ。体を作り直さないといけないから……」

「一ヶ月か……ますます蒔絵に差をつけられるな」

 蒔絵は驚異的なスピードで空中戦闘機動を身に着けつつある。俺は置いてけぼりだ。

「そんなこと……」

 病室のドアがノックされた。

「はい」

 蒔絵が返事をした。

 ドアを開けて、新潟空軍司令官と浅川大尉が入ってきた。立っていた三人があわてて敬礼した。

「病室で敬礼はいらないわ」

 浅川大尉が笑った。

「悪いんだけれど、三人は外してもらえるかしら?」

「はい、浅川大尉」

 蒔絵が答えて三人は出ていった。ドアを閉める時の、蒔絵の名残惜しそうな表情が印象に残った。

「怪我の具合はどうかね?」

 司令に聞かれた。直接話すのは初めてだ。

「はい。大して痛みません。動くと引きつれる感じがするだけです」

「そうか」

 そう言うと、司令は浅川大尉にうなずいてみせた。浅川大尉もうなずき返した。

「海彦……泉候補生。今回の事件では、箝口令が敷かれます。あなたには申し訳ないし、恥ずかしいことではあるけれど。本件は明るみに出せないの」

「はい。そうでしょうね」

 すまなさそうに言う浅川大尉に、俺はうなずいた。

 新潟軍人が新潟軍人を射殺しようと謀ったなどと言う話は、内部的な士気にも、外聞的にも表沙汰にできる話じゃない。しかも俺は泉だ。あるいは泉だからこそ。

 柏崎刈羽原発に人為的なメルトダウンを起こせる措置を施して国を恫喝した俺の親父泉知事は、最悪の核テロリストであると同時に中央に反旗を翻した英雄でもある。

 とは言え新潟県民感情からすれば、自分たちが危険な放射能に晒される可能性を作ったわけだから、親父を憎むのは当然だ。そして、その一人息子である俺のことも。

 ところが、俺が空軍の戦闘機パイロット候補生になっていることが知られるにつれて、そうした感情に変化が現れ始めた。狂った親父の行いを償うために、命がけの戦闘機パイロットに志願した息子。志願ではなくただの徴兵なんだが。

 つまり、以前浅川大尉が言ったように、俺を英雄視する人間が現れ始めている。迷惑極まりない話だが。

 だが、そんなことは今の俺にはどうでもいい。

「そんなことより、浅川教官。俺は、この傷でエリミネートされるんでしょうか」

 俺にはそれがなによりも怖かった。浅川大尉が微笑んだ。

「大丈夫よ。今回の傷が原因で海彦がエリミネートされることはありません。退院後、きちんと体を鍛え直せばね。もちろん、最終的に正規パイロットになれるかどうかは明言できません」

「わかりました。ありがとうございます」

 俺はほっとした。今は静かに傷を治す。それから体を叩き直す。

 そして必ずあの三人に追いつく。蒔絵に。


 残りの入院二週間の間、蒔絵たちは病院にこなかった。別に気にしていない。完全休養日でもあれば別だっただろうが、パイロット候補生はそんなに暇じゃない。

 午前中に新潟市民病院を退院して、空港二階カフェでの昼飯で久しぶりに三人と顔を合わせた。

「お帰り、英雄殿」

 延岡がおどけて言った。

「……頼むから、その呼び名だけはやめてくれ……」

 入院中は暇なので、テレビばかり見ていたが、俺の顔写真が出てきて番茶を吹き出した。

「いくらあの事件を糊塗しようとするにしても、あれはやりすぎよね……」

 蒔絵も嫌そうな顔をしていた。

 俺が入院している間に、新潟軍広報は、積極的に俺を使うことに決めたらしい。まあ、軍が決めたことに逆らうつもりはないが、恥ずかしいにもほどがある。

「看護師があれこれ聞いてくるんだぞ」

「でもさ、テレビに出てた海彦の写真、なんか変じゃなかった?」

 みちるが首を傾げた。

「俺の肌があんなにきれいなわけないだろう。修正だな。見合い写真じゃあるまいし」

「目も……」

「大きくなってたな。誰だよあれ。浅川教官くらい見栄えがよければともかく……」

「んー? 海彦もけっこういけると思うわよ?」

 蒔絵が笑った。

「次はテレビに生出演だね」

「勘弁してくれ……」

「ワルキューレに並ぶ異名って言ったらなんだ? イカロス?」

「おい、それは撃墜されて死ぬだろう!」

「イカロスはギリシャ神話。北欧神話だとなにかしらね」

 俺のあだ名決めで勝手に盛り上がっていた。

 みんなが空に上がっている間、俺は走り続けた。筋力トレーニングを続けた。

 延岡にはオーバーワークをするなと釘を差されていたが、焦れて焦れて仕方がない。

「馬鹿野郎、体重落ちてるぞ! 明日は食って休め!」

 トレーナー延岡に怒られた。


 俺が退院してから一週間後、夕飯のあとに俺と延岡はみちると蒔絵の部屋を訪ねた。女性部屋への出入りは特に禁止もされていないが、初めてだった。

「あれ? どうしたの、二人とも?」

 ドアを開けてくれたみちるが驚いていた。

「おう、ちょっとな。部屋に入れてもらえるか?」

「蒔ちゃん、延岡と海彦だけど、いーい?」

「どうぞー」

 蒔絵が返事をした。

「お邪魔しまーす」

 俺と延岡はみちるたちの部屋に上がった。

 延岡は手に紙の白い箱を、俺はビニール袋を持っている。

「なにそれ?」

 みちるに聞かれたが、俺たちは返事をしなかった。

 延岡が座卓の上に箱を置いて、開けた。

「これ……」

 みちるが驚いて目を見開いた。白い箱の中身は、生クリームの上にたっぷり苺の乗ったホールケーキだった。

「十六歳のお誕生日おめでとう、ちるちる」

 蒔絵がにっこり笑った。俺はビニール袋の中からペットボトル飲料を取り出して、底にあるキャンドルを座卓に置いた。

「よし、ろうそく立てようぜ」

「これ、苺の数が多すぎてキャンドル立てる場所がないな……」

「固めろ固めろ」

 俺と延岡と蒔絵で、キャンドルをぶすぶす刺した。

「あの……どうして……」

「だから、今日は水沢の誕生日だろ? めでたいめでたい」

 延岡が笑った。

「なあ、これ本当に十六本は立たないぞ」

「そこの苺の隙間に」

「いけるいける。よし、火を点けろ」

 俺がライターでキャンドルに火を点けた。蒔絵が立ち上がって部屋の灯りを消した。

「ハッピー・バースデー・トゥー・ユ~」

 俺たち三人は歌いだした。

「はい、ちるちる。吹き消してー」

 まだ呆然としたまま、みちるがキャンドルの炎を吹き消した。

「十六歳のお誕生日おめでとう!」

「おめでとー」

「おめでとう」

 俺たちは拍手をした。蒔絵が部屋を明るくする。みちるの顔は真っ赤だった。

「あ、あの……みんな、ありがとう……」

「おう。これで俺ら、みんな十六歳だな」

「……えっ!?」

 みちるが素っ頓狂な声を上げた。

「み、み、みんなの誕生日のお祝いは!?」

「俺はとっくだ。四月」

 延岡が言った。

「俺は先月」

「あたしは先週だったのよねー」

「どどどどうしてあたしだけ!?」

「俺ら三人は誕生日教えてなかったからな」

「ちるちるはぽろっと言ってたからね」

「で、でも……」

 みちるがなんだか泣きそうな顔をしていた。

「いいんだ。これで全員揃って十六歳になった。まとめてお祝いだ」

「あ……うん。わかった。みんなも、おめでとう」

 みちるがやっと微笑んでくれた。

「おう。……ろうそく抜いてくれ。これじゃ切れねえ」

 果物ナイフを手にした延岡が言った。

「ああ。みちるには大きく切り分けてやれよ」

 俺はキャンドルを抜いていった。

「ちるちるー。これ、アントルメの生クリームデコレーションだからね。心して食べてよ」

「いつの間に……」

「俺らの部屋にクール宅急便で送ってもらったんだよ。形崩れてなくてよかったな」

「ああ。しかし、こんなに美味しそうなケーキは初めて見るな」

「確かに。甘いの苦手だけど、うまそうに見える」

 延岡が全員分を切り分けた。

 みんなで一口食べた。

「美味しい!」

 みちるが声を上げた。

「んーさすがアントルメ」

 蒔絵も満足そうだった。

「……ん? この生クリーム、そんなに甘くねえな」

「本当だ。ちょうどいい。しかもこの苺、完熟みたいだぞ」

「旬でもないのにね。どこのかしら」

「新潟県で品種改良した苺って、越後姫だっけ?」

「あ。それ、中学の時に課外授業で聖籠にある県の農業研究施設で食べさせてもらったな。これとはちょっと違うが、大粒で柔らかくて甘くてすごく美味しかった。確か、柔らかいから傷みやすくて、輸送方法にすごく工夫をしたって言ってたな」

「へえー」

 なんにしても、こんなに美味しいケーキは生まれて初めてだった。きっと、この四人での誕生日パーティだったからだろう。

「コーヒーいれようか?」

 ケーキを食べ終わると、みちるが言った。

「ちるちるは今日の主賓なんだから座ってなさい」

 蒔絵が立ち上がって小さなキッチンに行った。

「……でもなー。やっぱなー。海彦の退院祝いもしなかったのに」

 みちるがまた不満そうだった。

「俺のなんか不名誉負傷だからいいんだ」

 俺は笑った。

「でも、あのとき海彦、あたしらをかばってくれたよね」

「狙いは俺のはずなのに、射撃が下手すぎてみんなに当たるかと冷や冷やしたな」

「海彦、もうあんなことしたら駄目よ!」

 キッチンから蒔絵に怒られた。

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

 蒔絵がコーヒーを持ってきてくれた。

「……海彦って、東京出身よね」

 コーヒーを飲みながら、蒔絵が聞いてきた。

「ん? ああ。足立区。俺が小学校に上がる前に財務省の親父の転勤で新潟にきて、また東京に戻るはずが新潟に居ついたな。そのまま新潟県知事になるなんて、最初から親父も考えてたのかどうかわからないが。新潟県民にはいい迷惑だよな……」

 俺は熱いコーヒーをすすった。

「……泉知事は、本当にメルトダウンを起こすつもりだったのかしら」

「無投票で二選して、親父は完全に狂った。柏崎刈羽原発の原子力決死隊は冗談じゃないだろう」

 新潟陸軍と県職員は今でも柏崎刈羽原発に籠城している。おそらく交代で外に出たりはするだろうが、そう遠くには行かないだろう。メルトダウンを発生させて、建屋を爆破して核燃料が大気に露出すれば、即死レベルの放射能を浴びるのは中でも外でも変わらない。

「地方交付税の増額……たったそれだけのためだったのにね……」

「そうだな。突き詰めれば、たかが金のことで親父は死んだ。せめて、警視庁が陸自の新発田駐屯地の中で親父を射殺しなければ、また違ったかもしれないが」

 国民の安全と生命を守るべき自衛隊の駐屯地敷地内で、警察がその国民を殺害するのを阻止できなかった。この異常事態のために、全国の自衛隊内に数多くの義勇兵を生む結果になった。

「あと、どれだけ戦ったら、この戦争は終わるのかな……」

 みちるがぽつりと言った。

「戦争。そう、戦争なんだ。最初の関越トンネル戦で、陸自には百名近い死傷者が出たはずだ。空自では、イーグル七機とホークアイ一機を撃墜。だが、それでも日本政府の譲歩を引き出せない。新潟を守っているだけでは先細りだ。攻勢に出ないといけない。つまり……もっと多くの日本人を、殺す必要が、ある……」

 部屋の中が静まり返った。

「……なあ。せっかくの水沢の誕生日なんだから、もっと楽しい話しようぜ?」

 延岡がおどけて言った。

「まったくだ。本当に、悪かった」

 俺は頭を下げた。

「やめてよ。言い出したのは、あたしみたいなものだし」

「……変だよね。ただ、海彦が東京生まれだって話してただけなのに」

「それは、やっぱり俺が泉だって言う業が……」

「やめてってば。……あ、そうそう。ちるちるのバスト、また大きくなったのよ。なんと二センチも」

 延岡がコーヒーを吹き出した。

「ななななに言ってんの! 蒔ちゃんだって大きくなってるでしょ!」

「うん、そうなの。AAからAに昇進よ? どう、延岡。見て見て?」

 延岡が真っ赤になってうつむいていた。俺は思いっ切り馬鹿笑いした。

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