第31話 1月6日

 柔らかい感触の床に寝転んでいた俺はそっと目を開けた。


「ここは・・・」


 視界には見たことのない景色が広がっていた。


 黒いソファが2つ向かい合うように置かれている。その片方に俺が寝かされていた。


 ソファの間にはガラスのテーブル。その上には銀の灰皿が置かれ、その中にはいくつかの吸い殻が残されている。


 壁の方には大きな棚があり、びっしりとファイルが並べられている。


 足元の方には扉、頭の方にはこれまた黒い机と窓がある。白いブラインドの隙間から見える外はまだ暗い。


 部屋の明かりが付けっぱなしなのは気になるが、今はそれどころではない。


「逃げないと」


 体を起こそうとするがうまく動かない。そこでようやく自分が手足を何かに縛られていることを知った。


 手は後ろで結ばれていて、前に持って来ることが出来ない。


 海老反りになって足元を見ると、足首をきつくプラスチックバンドが締めていた。おそらく手にも同じものを使っているのだろう。


 紐ならまだ解く方法が見つかったかもしれない。でもプラスチックバンドは硬く頑丈、それを切るのは困難。


 幸い口は塞がれていないが、声を上げたところで何も出来ない。


 俺はもう一度あたりを見回した。もしかしたら使えるものがあるかも知れない、そう望みながら。


 さっき以上にあたりを観察していると、棚に作られた出っ張り部分に写真立てが置かれているのに気づいた。


 写真は全部で3枚。


 1人の小さな女の子を囲むように私服の男たちが集まってピースしている写真。


 着物を着て座っている女の子を挟むように右に女性、左に男性が立っている写真


 最後に女の子と女性がどこかの学校の校門前で撮った写真。背景には入学式の文字が見える。


 どの写真にも同じ女の子が写っていた。そして全てが満面も笑みを浮かべている。


 なぜこの写真がこんなところにあるのだろうと思っていると、ガチャッと扉が開く音がした。


 ゆっくりと開く扉から姿を現したのは黒い服に身を包んだ男だった。サングラスはしておらず、かなりの歳なのか白い髪が所々目立つ。


 男は俺と目を合わせると、何も言わずに扉を閉め、目の前のソファに腰を下ろした。


 そのあとすぐに胸ポケットからタバコを取り出すと火を点ける。息を吸い、吐き出した煙からはタバコ独特の臭いがする。その匂いが俺の元まで届き鼻を刺す。


 男はテーブルに両足を上げてクロスした。


「秋原晴太、だったか?娘が世話になったな」


 娘、それが誰を指しているのかすぐにピンと来た。


「村上さんの・・・」


「俺は幸の父親の龍牙りゅうがだ。ま、名乗ったところでもう会うことはないだろうがな」


 柄の悪い目の前の男が彼女の父親とは到底思えなかった。こんな人からあんな子が生まれるわけがない。


 俺が何も言わず彼を見ていると、彼は勝手に話始めた。


「お前を拉致ったのは身代金を要求するためじゃないから安心しろ」


 その言葉を素直に信じることはもちろん出来ない。彼の言葉全てが嘘でないという保証がないからだ。


 彼は俺に向けてVサインを作って見せた。


「お前をさらった理由は2つ。1つは幸を呼ぶための餌、もう1つは幸を含め俺たちのことを忘れさせることだ」


「村上さんのことを忘れる・・・?」


「ああ、そうだ。・・・おい、あれを持って来い」


 彼が大きな声を上げると、扉の方から大きなスーツケースを持った男が入って来た。その男の顔にはとても見覚えがあった。


「起きたんだな坊主」


 スーツケースを持って近寄って来る男は俺に声をかける。帰り道に俺を電灯のところで待ち伏せしたいた男だ。


 男は龍牙に視線を向けるとぺこりを頭を下げ、丁寧に両手で持ってそれを彼に渡した。


「ちゃんと入っているな」


「もちろんです」


 何かの確認を終えると、龍牙はテーブルにさっき渡されたスーツケースを置いた。全体が銀色をしているスーツケースは明らかに頑丈そうだった。持ってきた男は用が済むとすぐに退室した。


「もちろんタダとは言わない」


 開け口をこちらに向け、それを俺に見えるように開けてみせる。


 開かれたスーツケースの中にはぴったりと1万円札が並べられていた。その1万円札は白い紙で束にされている。


「5000万だ」


「・・・5000万」


 初めて見る5000万円の束に目が行ってしまう。仕事をしていれば稼げるお金の額だが、それを一度にもらうことは一生ないだろう。それは両親であっても同じだ。


 それが目の前に、現実に存在している。


 目の前の5000万円の圧倒的な存在感に俺は息を飲む。


「それと・・・」


 彼は服の中に手を入れる。中を探り、手にしたものを5000万の上に叩きつける。


「これが娘の生活費と私物もろもろの金だ」


 5000万の上には万札の束がもう2つ置かれる。


「どうだ、悪くない取引とは思わないか?忘れるだけで大金だぞ」


 そう言われるとそうなのだろうと思ってしまう。ここ最近のことを他言せず、自分の中でもなかったことにすればいい。自分は努力も労働もしなくても、たったそれだけで大金が入る。


「まだ足りないか?」


 彼は再び服の中に手を入れ、もう一束取り出す。


「なら、これも足そうか」


 そう言ってさらに5000万・・・いや、52000万の上に置く。


「どうだ?」


 俺は完全にお金から目が離せないでいた。視界の隅にいる彼の声が聞こえるが、彼に目を向けない。


「・・・わかっ・・・」


 目の前の金の誘惑に負けつつあった俺は言葉を途中で止めた。


 そうさせたのはふと浮かんだ彼女の笑顔だった。


 それをはじめに、まるで芋のつるのように彼女の見せた表情が浮かんでくる。笑った顔、困った顔、泣いた顔・・・たった2週間にも満たない時間だが、俺は彼女と濃厚な時間を過ごして来た。そんな相手を簡単に忘れられるわけがないし・・・忘れたくない。


 お金から目を離し、彼を見つめる。


「・・・その話には乗れない」


「は?」


「その話には乗れないと言ったんだ!」


 急に声を上げた俺に彼は一度目を丸くする。そんな彼を見ながら言葉を続ける。


「あんたらのことは忘れてやる、顔も名前もな。だが、村上・・・幸のことに関しては別だ!」


 そう叫んだとき、扉が勢いよく開いた。


「秋原さん!」


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