第9話

 二人は階段を駆け下りて、外に出る。もう直ぐ夜が明ける頃だった。

 翠白は陵に手を繋がれたまま尋ねた。


「急にどうしたの?」

「……誰かに見られた気がしたんだ。とにかく帰ろう……」


 陵は誰かに跡をつけられている気がして、翠白の手を引き、駅の方へと歩き始めた。路上で横たわっている者とすれ違いながら、後ろを振り向くことなく歩みを進める。明け方の閑散とした雰囲気を打ち消すように、それは起こった。陵は足を止めた。二人の目の前に男が立ち塞がった。男は片手に凶器を持ち、近づいて来た。翠白は男の姿に見覚えがあった。陵の部屋で彼が見ていた書類の中に、男の名と顔が載っていた事を思い出す。翠白は側にいる彼に一言告げた。


「あの人も……狙われてる身なのね……」

 ――氷峰駈瑠という名の男に……。


 陵は彼女の一言に反応し、ゆっくりと頷いた。そして二人が反対方向へ走り出したその瞬間、男は何者かに取り押さえられ、声を上げた。取り押さえていた男は陵に向かってこう叫んだ。


「その女を手放すなよ!」

 声を聞いた瞬間、あの日に門の前で聞いた声とは別人だと思った。二人は繁華街を抜け、駅前のロータリーに辿り着く。そのままタクシーに乗り込んだ。車内で陵は翠白にこう言った。

「間違いなく、さっき現れた男が氷峰駈瑠ひょうみねかけるだったよ……」

「……」


 翠白はずっと彼の手を握りしめたままだった。何かを見据えた表情で窓の外を眺めていた。陵は握られている手を動かさずに続けて声を掛ける。

「怖いのかい?」

 その一言に彼女は彼の方を向くと、『何だか疲れちゃっただけ』と言って笑って見せた。その笑みは彼女が得意とする、愛想笑いだった。無論行き先は陵の自宅だった。


 彼の家に着くなり、翠白はそのままベットにうつ伏せになり、寝てしまった。陵は彼女の寝顔を見ながら、ふと自分の口元に触れる。その場の勢いで、もっと踏み込んで話しておきたいこともあっただろうに、口づけをして終わらせてしまった。これから先、彼女に身に降り掛かる災難を振り払うかの如く、あの男は戻って来た。陵は机の上の書類を整理し始めた。彼女の寝息に耳を澄ませながら、一つ一つ今後の事を確認していた。書類を確認している最中、彼の携帯電話が鳴り出した。そういえばもうこんな時間になっていたか、と時計に目を遣りながら電話に出る。


「はい。あれ? いつ貴方にこの電話番号お教えしましたっけ?」

 相手の第一声を聞くなり、苦笑いをしながら返事を交わす。陵は次に男が告げた一言に息を呑んだ。

 ――『施設が完成した。あと――』

 実験が実行できる日も近いと言われた。更には、直接会って進めたい話があると言われ、高揚感を交える様な形で持ちかけられた。

「――ということは、組織の人員も確保できたということですよね。ええ……はい。……わかりました」


 翠白は彼の高らかに流れる声がして、ベットに倒れたままゆっくりと目を開けた。上体を起こし、彼が誰かと電話をしながらメモを取っている様子を、ぼんやり眺めていた。陵は電話をしながら、隣で翠白が目を覚ましたことに気づく。もうそろそろ彼の話が終わりそうだった。彼女は陵の電話の相手が誰なのか察しがついた。

 彼は携帯電話を切り、それを机の上に置くと、嬉しそうに翠白に向かって――


「いよいよだ! ……慈、いよいよ……」

 両拳を握りしめながら話しかけた。

「いよいよ、何?」

「……組織が始動する」

「あらそう、よかったわね。その前にちゃんと卒業できるのかしら?」

 翠白は興奮状態の彼を落ち着かせようと、ベットから立ち上がり素っ気無い一言を吐いた。陵は思いがけない彼女の一言に、正気を取り戻す。身分をわきまえるとはこういうのを指すのだろうか。

「大丈夫に決まってるだろ。今から会いに行ってくる。お前も一旦、家に帰ったらどうだい?」

「そうね。そうさせてもらうわ……」

 彼女はついでに『まだお互い学生なんだから』と吐き捨てて、一足先に彼の家を出て行った。陵は彼女のそんな一言を耳にし、頭を掻いた。そして、書類の束をまとめて鞄に入れ直す。


 ――いよいよだ……。キュプラモニウムが発足する。


 陵は氷峰駈瑠に会いに、出来上がったばかりの施設に向かった。

 彼の思い描く理想に少しでも応えるべく……。


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