24 蒲公英の花跳躍す

 朝、玲於菜が教室に入ると美少女が近づいてきて言った。


「おはよう、ちょっといい?」


 顔を寄せるために少し屈んだせいで、長いダークブラウンの髪が肩口を滑り落ちる。


「おはよ……え、どうしたの?」

「うーん、一応謝っとこうと思って?」


 杏樹の言葉に疑問符を飛ばしながら玲於菜はついて行く。人のいない窓際を選んで、外ではなく教室を見回せるように並んで立った。


「な、なにかあった?」

「レオナの忠告、無駄にしちゃって」

「忠告?」

「昨日の放課後、偶発的な事故でエロい眼鏡の美人と遭遇しちゃって」

「え、ろいって……もしかして、」


 ユリちゃん、と口に出しそうになるのを何とか押さえる。『エロい眼鏡の美人』で当たり前のように導きだされるのもどうかと思うが、これほどわかりやすい説明もない。


「別に大したことはなかったんだけど」

「何の話をしたの?」

「……や、取り立てて実りのある話はなにも」


 なにもなかったと聞いて安堵したが、百合が杏樹をよく思ってないことは明らかだ。


(最近のユリちゃんはおかしい。アンジュに近づけないようにしないと)


 そうでなくともここ数日は目を光らせているのだが、そう決意を新たにする。ただしその決意が空回って周囲からは奇怪な行動に映っているのだが、玲於菜本人は残念ながら気づいていない。


「あ、アンジュのことはわたしが守るからね!」

「言うほど弱くないんだけど。一応ありがとう?」

「うん!」


 お礼が若干疑問形だが、頼られたと解釈した玲於菜はぐっと握りこぶしを作った。


「……レオナはあの子と親しいの?」


 少し声を潜めて言った杏樹の視線を追うと、姿勢よく席についているお手本のような淑女がいる。

 そこだけ世界から切り離されているように錯覚しそうなほど、百合の纏う空気は張りつめている。いつからそうなったのだろうか。


「一応、初等部から一緒だから。ゆ……あの子が眼鏡かける前から知ってるし」

「初等部から一緒って珍しいの?」

「全体の数が多いからそうでもないと思うけど、一緒って言うのは……多少の入れ替わりはあるし」


 知り合った頃は百合も今ほど近寄り難くはなかった。美貌も優秀さもその頃から際だってはいたが。


(距離を置いたのは、わたしのほうだったのかも)


 あまりの美しさと淑女然とした佇まいに、比べた時の自分の姿に気後れして。

 視線を感じたのだろうか。姿勢よく座っていた百合が不意に首を巡らせてこちらを見た。


「ちょっ……」


 蛙が跳ねるように躰を弾ませ、玲於菜はベタッと傍らの杏樹に貼りつく。いきなり体重をかけられた杏樹が抗議の声を上げたが、玲於菜は百合から目が離せない。

 感情を一切悟らせない静謐な眼差しで見つめた後、何事もなく百合は姿勢を元に戻した。それはまるで玲於菜がなにをしようとどうでもいいと言っているようで。


(ま、負けない……っ)


 玲於菜は精一杯の闘志を燃やす。杏樹にべったり貼りついたまま。


   ○


 玲於菜に倣って百合を見ていると、不意に掴まれた腕に圧迫感があった。見下ろすと傍らからただならぬ気配が撒き散らされている。


「ま、負けない……っ」


 本人は心の中で闘志を燃やしているつもりかもしれないが、普通に口に出ていた。


(向こうは無視してるから完全な空回りよね。それはそうと重いんだけど)


 玲於菜は小柄だ。杏樹はそれに比べると長身だが、体重を遠慮なくかけられて支えられるほど力持ちではない。


「ねぇ、ちょっと」

「わた、わたしが何とかしないと……」


 そろそろ離れてほしいと声をかけようとしたが、なにやらぶつぶつ言っていて聞こえてなさそうだ。自分の世界に入るのはいいが、人の腕にべったり貼りついたままではやめてほしい。

 杏樹は掴まれてないほうの手で玲於菜の額をぺちんと叩く。

 悲鳴が上がったが、派手な音がしたわりに力は入れていない。痛みはほとんどないはずだ。


「会話も成り立たないのにべったりくっつかれてたらウザいし、いい加減重い」

「あ、はい。ごめんなさい」


 素直に謝り、玲於菜は離れた。抱え込むように貼りついていた腕を放しただけで、距離は近いままだ。依然として警戒は弛めないつもりらしい。


「おはよーっす。緋上に美並!」

「あ、おはよう」

「おおおはようっ」

 

 そこへ登校してきたクラスメイトの男子。席が窓際の一番後ろ、つまり杏樹と玲於菜が声を潜めて話していた場所のすぐ側だったため真っ直ぐふたりに近づいてきた。


「そんなひっついて、おまえら最近仲いいよな!」

「そ、そうかな……」

「美少女ふたりがジャレ合ってるっていいな!何かこう、いろいろ倍増!って感じで」

「……え、」


 なにその頭の悪そうな言い方、と普段の杏樹なら言っていただろう。だが妙なひっかかりを覚えて玲於菜を見下ろした。

 仲がいいと言われたことか、それとも美少女と称されたことにか。玲於菜は羞恥と困惑を顔に浮かべている。


「あ、アンジュ……?」


 杏樹はつい、と指を伸ばした。ほっそりとした顎を掬うと、玲於菜が視線を上げて見つめ返してくる。


(造作のよさは、わかってたはずだけど)


 どちらかと言えば可愛らしいと言うほうがしっくりくる。純日本人にはあり得ない髪の色、眸の色もあっていわゆる『お人形さん』のよう、と表現されがちな容姿だ。

 不躾な杏樹の視線に、玲於菜の頬はじわじわと熱を帯びていた。眸も涙目である。

 クラスメイトの男子が無遠慮に声をかけた時点で、教室の生徒は杏樹と玲於菜が一緒にいることを認識していた。更にその後のやりとりで若干視線を集めている。

 ちょっとした注目を集めている空気をひと通り体感したところで、杏樹は手を放した。


「そっか。なるほど、うん」


 そしてひとつ肯く。


「えっ、なにその納得。何だったの今の間!」


 なにかに納得している杏樹と、何にも納得していない玲於菜。


「別に。まだ時間あるから、わたしちょっとトイレ行って来るね」

「いや答えになってな……待って、一緒に行く!」

「別にトイレぐらいひとりで行けるわ」

「いいの、行くのっ」

「好きにすればいいけどさ」


 傍目にはジャレ合ってるようにしか見えない美少女ふたりが教室を出ていく。それを見送った教室内が徐々にざわついていくのだが、そんなもの知ったこっちゃない。


「……、」


 ふたりに声をかけたせいで一連の流れを間近で見るはめになった男子は無言で立ち尽くしていた。

 心配した友人の男子生徒が近づき顔を見ると、誰が見てもわかるほど赤面している。駆けつけた男子生徒は友人の肩を無言でぽんと叩いた。

 憐れな男子高校生がふたりの会話からなにを想像したのかは、彼のみぞ知る。

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