少女、ふたりの距離

季弘樹梢

世を知る

 眼鏡を新調した翌日は霧雨が舞っていた。

 傘をさしても水滴が顔の方まで降り掛かってくると見るや、朝陽あさひはそそくさと近くのアパートのひさしに入って、大事そうに眼鏡を外すと、心底丁寧そうな手付きでテンプルを折りたたんで鞄にしまった。たしょう視界はぼやけるが、それで歩いても問題ないくらいの視力だった。学校までも近い。

「あれ、今日は朝陽、コンタクト?」

 教室の扉の音に振り向いた野乃ののが言った。朝陽は彼女の後ろの席に着く。

「ううん。雨が降ってたから」

「雨だとかけないの? あれ、これまでもそんな感じだったっけ」

「今日はとくべつ」

 朝陽は言いつつ、鞄から真新しいピンク色のケースを出して、これまた真新しいフレームが黒光りする眼鏡を取り出した。

「じゃん」

「あらかわいい」

「かわいい?」

「かわいくない? 前のやつ無骨な印象があったけど」

「フレームなかったもんね」

「正直似合ってなかったよ」

 正直すぎる。

 と思いつつ、朝陽は下を向いて眼鏡をかけると、野乃の方を向いた。

「あ」

「おお、似合ってるじゃん。どした?」

「なんでもない」

 そう言って、朝陽は眼鏡を外すとケースにしまった。

「……かけないの?」

「なんか、いいや」

「前見えるの?」

「見えなかったら助けて」

「いいけど……」

 そうして授業が始まった。ところどころ音読で詰まったり、見えないところは野乃のノートを見させてもらったりもしたが、なんとか昼休みまで乗り切った。

 教室で向き合って弁当をつついていると野乃が言った。

「ねえ朝陽。眼鏡かけたら? 不便でしょ」

「うーん」

 至極当然の言葉に、朝陽は困ったような声を上げた。

「掛け心地でも悪かった?」

「ううん、ちゃんとお店で試したし」

「度が合ってない?」

「むしろ、見え過ぎちゃうのかも」

「……それって悪いことなの?」

「うーん」

 またしても困ったような声を上げると、朝陽は上目遣いで野乃を見て、すぐに視線を下ろした。

「……私の顔に何かついてる?」

「ついてないと思う」

「じゃあなんで笑うの」

「なんか、恥ずい」

「……変なの」

 そうして、朝陽はやっぱり眼鏡をかけずに放課後まで過ごした。

「帰ろ、朝陽」

「うん……」

 家は別々の方向だが、途中までは一緒に帰るのが日課となっていた。けれど朝陽は椅子に座ったまま言った。

「ねえ、ちょっとあっち向いてて」

「え?」

「いいから」

 野乃はわけも分からず後ろを向くと、「いいよ」と言われて振り返った。

 そこには眼鏡をかけた朝陽がいた。

「え、今かけるの? 意味なくない?」

「あるよ」

「うん?」

「野乃の顔がよく見える」

「……うん」

 朝陽の眼鏡になにが映っていたのか、野乃にはよく分からなかった。

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