第十六話「今村対理事長」

 高校受験を終えてやることもなく日がな一日テレビの前で過ごしていた今村秀夫少年。目の前のテレビ画面の中では、東西の横綱が黙々と仕切りを繰り返していた。

 東の横綱北乃花。西の横綱あかつき

 東西両横綱による千秋楽相星決戦である。

 それまで大相撲というものをじっくりと見たことがなかった今村少年は、テレビの前から動くことが出来なくなっていた。

 二メートル、二百キロ超えの巨躯暁と比較すれば、体格面では上背体重とも北乃花に勝ち目がないことは一目瞭然だ。

 ただ、四股名の次に表示された対戦成績は拮抗しており、殊に直近一年では五対一と北乃花が暁を圧倒していた。この両者が、十四戦全勝のまま千秋楽相星決戦に臨もうというのである。歴史的な一番を前に観客のボルテージは最高潮に達し、それはテレビの画面を通じて今村少年にも伝わった。

 いつもは大相撲などに見向きもしない今村少年がMHKの大相撲中継でチャンネルサーフィンを止めたのである。


「時間です! 手を下ろして」

 行司の声に、申し合わせたような一万人の観客の静寂。

 拳を着いた両者。立合成立とともにものすごい歓声。

 諸手突きからの突き押しを繰り出す暁。北乃花は右の半身に構えて少しでも圧力を躱そうとする。暁はそんな北乃花を喉輪で突き起こそうとするが、上体を起こされては一気に押し出されることを知っている北乃花は下からあてがって喉輪を外し、決して顎を上げない。その北乃花が何とか暁の懐にもぐりこんだ。

 やや深いが得意の右差しだ。

 四つに組み合った瞬間、観客席から潮の湧くような歓声。みんな、四つに組み合った意味をよく知っているのだ。

 暁は左の上手を狙うが北乃花は腰を伸ばしたり、右をはずにあてがって腰を入れ、巧みにまわしを切る。この、暁をはず押しで棒立ちにした一瞬、それまで届いていなかった左の上手に手が届く北乃花。猛然と寄る。

 遙かに巨体の暁があれよあれよと土俵際まで寄り立てられる。

 だがさすがに暁も横綱。先輩横綱の沽券に関わるとばかりに必死に上手を探り、肩越しながらも左上手を引いて土俵中央まで寄り返す。

 この時点で一分にも及ぶ大相撲だ。だが動きの乏しい一分ではない。濃密な攻防の連続である。

 北乃花、次なる攻勢の布石か。左の上手をじりじりと浅く持ち替える。

 再び右下手をはず押しに切り替え、暁の肩越しの上手を切ると猛然寄り立て、遂に暁力尽きて北乃花寄り切り。今村少年の目の前で、北乃花が全勝優勝を遂げたのであった。


 その日から、今村少年は大相撲というものに、いや、もっと言うならば横綱北乃花に釘付けになった。北乃花の取組を観戦するときには、まるで我がことのように動悸がしたし手に汗を握った。自分以外のことでこんな経験をしたのは今村少年にとって始めてのことであった。画面から伝わる特有の緊張感は本物だった。

 北乃花は序盤で取りこぼすことが多かった。北乃花が黒星を喫すれば今村少年は目の前が真っ暗になる思いだったし、北乃花が優勝してその回数を重ねれば、「次は誰々の記録に並ぶ」「あと何回で誰々の優勝回数を超える」と指折り数えたものであった。

 だが北乃花の衰えは唐突にして急速だった。それまで休場することが珍しかった北乃花に、にわかに怪我が目立ってきたのだ。

 肝機能障害などの内臓疾患、背中の痛み、手指の脱臼、そして右膝半月板の損傷。

 まだ三十歳になったばかりだった。

 いつの間にか大学を出て警察官になっていた今村秀夫は

「今はたまたま調子が悪いだけ。怪我が治ればまた優勝を量産するに違いない」

 と信じたが、結果的に最後の優勝となった二十一回目の優勝を果たした一年後、北乃花は引退した。

 寂しいというよりほっとしたというのが、今村の正直な感想だった。無類の強さを誇った横綱が怪我に苦しむ様をこれ以上見なくて済むと思ったためであった。

 それまでと違い気楽に大相撲というものを見るようになってから気付いたのだが、北乃花ほど真剣に取組に臨む力士というものを、今村はついぞ見ることがなくなった。テレビ桟敷で手に汗を握ることもなくなった。

 インターネット上や週刊誌上では公然たる事実として「ガチンコ」とか「注射」といった語が飛び交うなか、協会は

「八百長など存在しない」

 との見解を保ち続けていた。

 目の前に繰り広げられる緊張感を欠く取組と協会の公式見解のギャップに今村は失望した。

 大相撲の八百長問題を扱う記事の中では、北乃花はガチンコ横綱の代表として扱われていた。今村はなるほどと思った。北乃花が仕切りを繰り返すうちから醸していたなんともいえぬ緊張感こそ、真剣勝負に由来するものだったのかと妙に合点がいった。

「自分があのとき目にしていた相撲は本物だったのだ」

 それはそれで満足だったが、今となっては過去の記憶に過ぎない。

 今村は新米の親方として北乃花部屋をようやく興したばかりの北乃花親方が、いずれ注射相撲に汚れた土俵を浄化してくれるに違いないと期待した。

 そして北乃花理事長の誕生。

 角界浄化の期待がいよいよ果たされるのだ。

 八百長に汚れた不名誉な記録の数々がガチンコ横綱北乃花の手によって白日の下にさらされ、史上最悪の八百長横綱狛ヶ峰は角界を追放されるであろう。それとともに八百長相撲によって生み出された数々の馬鹿げた記録が取り消され、あの北乃花が、自分が青春時代に目にした本物、北乃花の優勝回数が歴代上位五指に数えられるようになるに違いないと、今村は秘かに期待した。

 

 だが北乃花が理事長に就いても土俵上の風景は何も変わりはしなかった。狛ヶ峰以下、大半の力士の取組は相変わらず緊張感を欠いており、近年では霧乃山、連山あたりがやっと特有の緊張感を醸すようにはなったが、一度は本物を目にしたことのある今村を満足させるものでは到底なかった。

 今村は、その現役時代も含めて北乃花に初めて失望した。

 結局北乃花も、角界浄化より組織防衛を優先する一組織人に過ぎなかったというわけである。


 失望交じりの舌鋒が、一度はヒーローとして心酔した北乃花を鋭く刺し貫いた。刺し貫かずにはいられなかった。

 そして今村にとっては新たな発見だったのであるが、ひとしきり刺し貫いたそのあとには、なんともいえぬ不毛感が漂うだけだった。

 どうやら怒りというものは、相手に直接ぶつけたからといって治まるという単純なるものでもないらしい。それは際限がなく、取り憑かれてしまえばそれ以上先へと進めなくなる類いの、厄介な感情であった。

 そのことに気付きつつあった今村は、その舌鋒鋭きに感嘆する課長補佐に対して、一つの愛想笑いも見せることがなかった。

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