第七話「事件発生」
ストレッチがどうしても辛いとき、浩太郎は狛ヶ峰のDVDを見ながら自らを奮い立たせた。
浩太郎にとって、狛ヶ峰の衰えを指摘したり取り口を批判する声は、まったく意味のないものだった。
そんな声は、狛ヶ峰が勝ち続けている限り放っておけば良いだけの話であった。
今でこそ
「番付ってなに?」
と問う浩太郎に対して、浩介は
「お相撲さんの順番だよ」
と言いながら、人差し指で中空に大きな三角形を描いた。
「三角形のね、一番下から序の口、序二段、三段目、幕下と段々上がっていって……」
浩介の指す幕下の位置は、すでに三角形の半ばを超えている。
「十両。ここからが、関取って呼ばれるお相撲さんになるんだ。お給料をもらえるのはこの十両から。幕下より下はちょんまげも小さいものだね。十両になると大きなちょんまげになるのも違いの一つだね」
「狛ヶ峰はどこ?」
待ちきれないとばかりに問いかける浩太郎。浩介は人差し指で三角形の頂点を指しながら言った。
「ここだよ」
序の口から始まる巨大な三角形の頂点。そこに君臨する最強の力士が横綱であり、その横綱の地位にあるのが狛ヶ峰。
一番強い者が三角形の頂点に立つ。
この単純過ぎるほど単純な理屈が、幼い浩太郎のなかにすとんと落ちた。狛ヶ峰が最強の力士すなわち横綱である以上、誰も狛ヶ峰を倒してはいけないし、狛ヶ峰以外に優勝して良い力士などいるはずがない。
少なくとも浩太郎はそう信じた。なので近年狛ヶ峰攻略の糸口を掴みつつあった
したがって令和○年名古屋場所中日、狛ヶ峰が連山を左の張り手一発でのした一番は、浩太郎にとっても会心の一番だった。十四日目に憎っくき霧乃山が狛ヶ峰に黒星を付けられたとはいえ、結局今場所の土俵は狛ヶ峰が秩序を守り通したのである。これが、浩太郎にとっての名古屋場所の総括であった。
事件は、その狛ヶ峰が所属する
ガラス張りのホテル正面出入り口に、赤色回転灯の灯火が反射している。救急車が一台と、それにパトカー、捜査用の覆面パトカー数台が、まるで正面出入り口を通せんぼするかのように駐められていた。
「立入禁止」「愛知県警」と交互に印字された黄色い規制用テープが張られ、駆けつけた報道陣が規制線の外からさかんにフラッシュをたく。
警察官と救急隊員が、ホテルボルトン大広間に踏み込む。
大広間には
「宮園部屋千秋楽打ち上げパーティー」
「横綱狛ヶ峰関優勝記念パーティー」
と、上下二段に記された横断幕。
宮園部屋後援者が、立食形式の打ち上げパーティーを楽しんでいたのであろう。だが、今は浮ついた雰囲気の
「止血して! 止血!」
「AED動かします。離れて!」
救急隊員の緊迫した声が響く。
或る捜査員はあたり構わず写真に収め、また或る捜査員は事件の目撃者と称する来客から血走った目で事情聴取していた。取り急ぎ会場の図面を手描きで作成する者、紐を使用して負傷者の倒れている場所の位置取りをする者。
現場は極度に混乱し、統括する者がないまま個々の捜査員や救急隊員が、各自に最善を尽くしている。
負傷者に応急処置を施す人垣のほかに、もう一つの人垣がある。覗き込めば、これもちょんまげを結った大男がひとり、数名の制服警察官にうつぶせに組み伏せられているではないか。大男の傍らにはケーキナイフが一本。その鋭い先端が血に染まっている。
無理矢理立たされた大男は、その
一方、負傷者を救うための奮闘は依然続いていた。
「せーの!」
負傷者の巨体をストレッチャーに載せるために、救急隊員が声を合わせる。相前後して制服警察官が通路を確保しようと正面玄関に向かって声を上げた。報道陣に道を開けるよう促すためだ。
「どいてどいて! 負傷者通ります!」
しかし押しのけようという警察官も必死なら負傷者をカメラに収めようという報道陣もまた必死だ。
巨体はリアハッチから無理矢理押し込められるように救急車内に収容された。
間を置かず、サイレンを鳴らしながら病院に向けて出発する救急車。諦めきれない数名のカメラマンがあとを追うが、徒歩では追いつけない。報道関係車両と思しき車両数台が、送り狼のように救急車を追跡する。
午後九時、ホテルボルトン大広間において発生した事件は、一時間後にはニュース速報としてテレビの上端にその概要が報じられた。
「宮園部屋序二段力士(20)、打ち上げパーティー会場で兄弟子を刺す。兄弟子は心肺停止」
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