アトラスの地図屋

@pharaoh-bird

第1話「砂漠に一人」

 テテ砂漠は大陸西部の内地にひろがる、広大な岩砂漠である。

 沿岸の港湾都市で馬に乗り、オリーブやナツメヤシの立ちならぶ街道を渡っていくと、しだいに緑が減っていき、1ヶ月ほど経つ頃には、とうとう草ひとつない赤茶けた大地に到達する。

 殺人的な暑さと、暴力的なまでの太陽。これだけで大抵の旅人は引き返すことを選択するのだが、それでもこの地を渡ろうとするものには、容赦のない砂漠の洗礼が待ち受けている。

 たとえば、身体中から水分を奪い取っていく、極度の乾燥。

 たとえば、方向感覚を狂わせる、何の代わり映えもない荒野。

 しかし、牙をむく自然環境の中で何よりも恐ろしいのは、過酷な環境に適応したモンスターたちだ。


『ゴォオオオオオオァアアア!!!』


 熱した大気を吹き飛ばすような、咆哮。

 僕は鞍に跨り、姿勢を低くして、音圧に吹き飛ばされそうになるのを必死にこらえた。

「急いで!」、叫びながら、あぶみで横腹を蹴り飛ばす。僕を乗せたツノジカ—砂漠に生息するシカとウシのあいの子みたいな生物—が、いっそう必死に走る。

 砂まじりの風が容赦なく頬をたたき、視界が激しく振動する。ふり向けば、砂煙の向こうに、こちらを追いかけてくるあまりに巨大な影がある。風が一瞬つよく吹き抜け、姿を現したのは、岩を削り出したようなゴツゴツした巨躯だった。宴会用の大皿ほども大きな、ぎょろりと突き出た瞳。全長の半分を占める顎から、ナイフよりも鋭い牙が何本ものぞいている。

 岩トカゲ。砂漠に生息する、最大級の怪物の一角である。老齢の個体で数十メートルにも及ぶ、竜に匹敵する巨体。砂漠の寒暖差で鍛え上げられ、弓矢や魔法をやすやすとはじく強靭なうろこ。リクガメの甲羅すらも軽々と噛み砕いてしまう、暴力的なあご。そして、いちばん厄介なのは、その擬態能力だ。岩トカゲの皮膚はカメレオンのように場所に応じて自在に色を変え、獲物を欺くのだ。赤褐色の姿で、じっと動きを止めていれば、遠目には岩にしか見えないのである。

 そして1時間前、僕はこいつの罠にまんまと引っかかってしまった。


 丸太ほどもある八本脚を荒々しく踏みならし、大トカゲが迫る。

「来る、右!」

 とっさに重心をずらし、ツノジカを斜めに滑らせる。その瞬間、猛烈な勢いで振り下ろされたかぎ爪が、地面を打ち砕いた。砂埃が巻き散らされ、ふき飛んだ小石があたりにふりそそぐ。

 今度は左に舵を切り、右、左、また右、とジグザグに走行する。しかし、怪物もその程度で振り切れるほど甘くはない。

 再び、魔手が伸び、四本の鋭い鉤爪が、太陽を反射して不気味に光った。

 あわてて鞭を打つが、しかし、目の前には砂漠の風が削り出した奇岩が迫っていた。わずかに足の運びが鈍った瞬間、振り下ろされた爪がツノジカのももをえぐる。切り裂かれた後脚から鮮血が飛び散る。後部に積んでいた荷物の縄が切れ、周囲にばらまかれたそれを、八本脚がぐしゃりと踏み潰した。

 傷ついた脚をかばうようにして、ツノジカが再び走り出す。だが、背後から迫る脅威は続く。岩トカゲが、その巨体の半分以上を占める凶悪な大口をあけて襲ってくる。

 ぬるり、と生暖かい息が首すじを撫で、思わず恐怖に身体がこわばりそうになる。

 けれど、

(まあ、これくらいのこと恐るに足るものか)

 異世界(ウル)にきてからはや二年半。良くも悪くもこのくらいの危機には何度か直面していた。そう考えると、ずいぶん心が落ち着き、冷えた頭が目まぐるしく思考を始める。

(見ろ、周囲を見て、活路を探せ)

 一見、どこまでも荒野が続いているかに思われるテテ砂漠だが、その実、場所によって地形は大きく異なっている。そして、この一帯には、先ほどぶつかりそうになった棒状の奇岩が、ちょっとした森のように点在していた。

(これを利用すれば、あるいは)

 直後、ぐわり、と怪物がそのあぎとを開ける。突進する大顎がツノジカの後ろ足を捉える寸前、

「今だっ!」、僕は手綱を思いっきり引き絞った。それに応えるかのように「ゴォォ!」とツノジカはいななき、点在する岩の柱を足場にして、大きく跳躍する。


『ゴォオオオゥ−!?』


 怪物の顎は空を切り、勢い余ってひときわ大きな奇岩に激突する。トラックどうしが正面衝突したかのような轟音が、砂漠に響き渡った。

 手負いのツノジカは少し危なげに着地すると、立ち込める砂塵の中を疾走する。

(まだだ!)

 岩柱に激突してなおも、背後の岩トカゲには傷一つなかった。脳震盪を起こしたのか、がくんと垂らした首をしきりに振り、でたらめな方向に攻撃を繰り返している。だがそれも一時のこと、直ぐに回復して追いかけてくるのは確実だった。

(ここで動きを止める!)

 振り返り、リュックから二本の小さな円筒を取り出す。梱包の撥水紙を乱暴に引きちぎると、中から出てきたのは金属製の爆弾だ。素早く鞍の表面とこすり合わせ、先端の導火線に着火、怪物めがけ、思いきり放り投げる。


『ゴォ—!? ゴォオオオゥォオオオオ−!?』


 大地を揺るがさんばかりの巨大な爆発。その余波が爆風となって降り注ぎ、破壊された岩の柱が次々と岩トカゲの上に倒れ込む。

「もう一つ!」

 二つ目の爆弾が、崩壊の連鎖を引き起こし、怪物の姿を岩に埋め尽くした。

 爆音が消え、沈黙が支配する。

 僕はほぅ、と安堵の息を吐いた。とりわけ武力もなければ、魔法も使えない。そんな僕の虎の子の一つが、この世界の錬金術師たちの力を借り、再現に成功したさっきの爆弾、いわゆるダイナマイトである。黒色火薬がせいぜいのこの世界においては、ある意味、な特注品だった。

「まぁ、ほんとはこんな使い方はしたくないんだけど……」

 手段を選べる状況ではなかったし、と独りごち、歩みを止める。考えるべきはこれからのことだった。まずツノジカの怪我の具合を確認しなかればならない、それからルートの再検討。状況は、あまり良いとは言えない。なによりさっきの攻撃で後部の荷物が根こそぎなくなってしまったのが災いしている。残された水も食料もあと僅か、砂漠でのたれ死ぬのも時間の問題だった。

(どこかでキャラバンと合流するほかないか……)

 だが、歩みを再開しようとした、その時、


『ゴォオオオオオオァアアア!!!』


 怒りの咆哮が轟いた。

「嘘だろ!?」

 瓦礫の山が内部からはじけ、岩トカゲの充血した瞳が姿を現す。爆発でくすぶり、ところどころ鱗の剥がれた全身からは、真っ赤な血が流れ出していた。

 その赤さこそが、怪物の怒りを物語っていた。

 ツノジカに飛び乗る。あぶみを蹴り上げ、必死で鞭を打つと、傷ついた四本脚が疾走を再開する。びゅぅ!と、耳元で空気が唸る。

「くそっ! なんて生命力だ!」

 思わず毒づく。怪物の歩みは鈍ることを知らない。むしろ、速度を上げつつある。一方、ツノジカの後ろ足はすでに弱っていた。みるまに巨影が迫る。

「だったらもう一度!」

 必死にしがみつき、ぐんっ、という加速感に引き離されるのを耐える。ほとんど直角に近いステップを踏み、ツノジカが怪物を翻弄する。何度目かの急カーブのすえ、ついにバランスを崩した巨体が、奇岩に激突する。しかし、巨体が停止したのは一瞬だった。


『ゴォオオオ!!!』


 暴れ狂う鉤爪が、僕たちに向け、奇岩を投げ飛ばす。

 降り注ぐ石飛礫はまさに散弾銃。しまった、と思った時には視界の天地が逆転する。

「ぐっ……ぁ……っ」

 背中から大地に激突し、血の混じった息を吐く。どうにかして起き上がると、ずきり、と胸に鋭い痛みが走った。

(肋骨を、やられた)

 それから、左腕に打撲、擦過傷が数カ所、か……

 脳震盪を起こさなかったのは不幸中の幸いとしか言いようがない。だがツノジカの方は、

(……もうダメみたいだな)

 数メートル先で横たわる姿を見て、僕はため息さえつかなかった。ここから先は自分自身の足を使うしかない。呼吸のたびに走る痛みに耐え、ほうほうの体で歩き出す。しかし、100mと行かないところで僕の足は止まった。

「はは……。万事休す……か」

 笑わずにはいられない。その先に待ち受けていたのは、落差300m、幅200mはあろうかという、切り立った断崖だったのだ。逃避行を続けるうちに、地図感覚が完全に吹き飛んでいたのが災いした。

 そして、背後を振り返れば、ツノジカに目もくれず、怪物が迫る。

「行くも地獄、帰るも地獄。まったく、ひどいことがあったものだ」


 大地の鼓動とまがう重苦しい足音が、着実に近づく。ついに崖っぷちまで追い込まれた。


『もしも地獄の真っ只中にいるなら、そのまま突き進むが良い』とは、たしかチャーチルの言葉だったか。


 にやり、と僕は笑った。よくもまあ、こんな状況で元の世界のことを思い出せるものだ、と自分自身に感心したからだ。


「だったら。突き進むとしよう」


 びゅう、とひときわ強い風が吹き抜け、僕の髪をもてあそぶ。谷底を伝ってやってきた上昇気流だ。目を閉じ、その乾いた肌触りを全身でたしかめる。その時、僕の意識は風に乗り、はるか上空へと舞い上がっていた。

 砂漠の空は、高気圧におおわれて雲ひとつない快晴。

 ひとすじの風に乗って、僕の隣を一羽のハヤブサが飛んで行く。

 眼下を見渡せば、茫漠とした赤茶色の大地。

 そして、その視界の中には、ミニチュアの生命が生きている。荒野に散らばって生える植物。日陰で休憩するリクガメたち。岩山の斜面をツノヤギの群が走っている。涸れ谷の底には、塩を運ぶラクダのキャラバン隊までも。

 すべてを確かめると、僕はそっとまぶたを開けた。

 再び目の前に広がるのは、崖。けれど、僕の脳内には同時に空からの光景が映し出されていた。いわば、意識の半分が身体に残っていて、もう半分が離れているような、そんな不思議な感覚だ。そして、僕はリュックの中から一枚の羊皮紙と、万年筆を取り出した。少し古びて黄ばんだ、どこにでもある羊皮紙である。ただし万年筆の方は違う。黒水晶を思わせる、薄墨色で透明な素材で作られていて、軸胴—つまり”持ち手”、には奇妙な文字が刻まれていた。

 するり、と手の中に万年筆を収めると、猛烈な勢いで羊皮紙に地図を書き始める。無数の線に変えていく。ほとんど自動的なまでの速さで手が瞬き、10秒と経たないうちに、一枚の非常に精密な地図が出来上がった。

 だが、その時には、岩トカゲはもう真後ろであごを開いていた。絶体絶命の瞬間、


 今、このかいなは人の子にあらず— 


 ぽつり、と僕の口から声が漏れ出す。それは、限りなく荘厳で、重々しく、普段の声とはまるで違う何か。


 大いなる巨人の名において—


 万年筆が地図の上を滑る。真っ黒なインクが、崖の両岸の間に一本の線を結ぶ。


 世界を今、書き換えん—


 その瞬間、地図があまりにも眩しく、星のように輝きを放った。気圧されたかのように、岩トカゲの動きが止まる。そして、僕の腕の中で、地図は幾度か明滅を繰り返し、ひときわ激しく煌いたかと思うと、その表面から黄金色の粒子をあふれさせた。光の粒は次々とこぼれ出し、まるで意志を持った黄金の洪水のように、一列になって、崖の上を渡っていく。その軌跡に、赤茶けた岩でできた細い橋が生まれていく。

 僕は橋のたもとに足をかけた。そのまま前を見て、振り返らずにまっすぐ渡っていく。中程にきて、我に返った岩トカゲが僕を追おうとしたが、もちろんこの細い橋を渡れるはずはなく。数分後、橋を渡り終えて、僕は大きくため息をついた。


 世界を書き換える力—

 自分の書いた地図に書き加えることで、世界を書き換えることができる。それがこの世界で僕に与えられた唯一の力だった。もちろん、色々な制限はあるけれども、それでも、限定的には魔法に匹敵する、それどころか凌駕さえする、奇跡じみた力である。この力があったからこそ、僕が今、こうして生きていられるとも言える。

「はは……ははは……」

 僕は笑った、心の底から笑った。砂漠に似つかわしい、乾いた笑いだった。


 リュックを背負い直し、帽子のつばを深くかぶり、眼鏡の砂を払って、僕は再び歩き出した。包帯を巻いた胸がずきり、と痛んだ。

(とりあえずキャラバンに合流しなくちゃ……)

 吹き寄せる乾燥風は、波乱の匂いに満ちていた。

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